黙りこくっていると、青磁が私の手から本を取り上げた。
「なあ、これ、見た?」
ぱっと私の目の前で開かれたページには、暖色系の明るい色がたくさん並んでいた。
「え? なに?」
「ほら、ここだよ。見てみろ」
青磁が指先で指し示したのは、『茜色』と書かれた色だった。
「え……茜って、色の名前なの?」
自分の名前だけれど、まさか色名だったとは全く知らなかったので、私は目を丸くして青磁を見た。
「いや、茜ってのはもともとは植物の名前。根っこを乾燥させると橙色っぽい赤になるから、『赤根』って名前がついたらしい」
「へえ……全然知らなかった」
「花は白っぽい黄緑の地味な花なんだけど、根っこはすげえ綺麗な赤なんだよ。だから昔から草木染めに使われてて、茜染って呼ばれてる」
流れるように言葉が出てくるので、私は呆然として青磁を見た。
「……詳しいね」
思わずそう言うと、青磁は一瞬意表を突かれたような顔をして、それから「当たり前だろ」と笑った。
「俺は絵描きになるんだから、染料のことは勉強してるんだよ。すげえだろ」
最後の一言がなければ尊敬の言葉を言おうと思っていたのに、自分で言ってしまうのだから拍子抜けする。
「あーはいはい、すごいすごい」
わざと呆れたように言うと、青磁が「生意気!」と私の頭をがしがしかき回した。
いきなり触れられて、心臓が口から飛び出してくるんじゃないか、というほどびっくりした。
そのうえ、
「……お前の髪、柔らけえな」
青磁の指が私の髪を絡めとり、くるくるともてあそびはじめたので、ありえないくらい胸が高鳴る。
ばくばくと鳴る鼓動が自分の中にこだまして、気が遠くなりそうだった。
「……っ、べつに、ふつうだよ」
なんとか答えて、私は無理やり話題を変えるために本に目を落とした。
「それより、茜色って、こんな鮮やかな色なんだね」
「ああ、そうだな」
青磁が私の髪から手を離してくれたのでほっとした。
少しずつ鼓動がおさまるのを感じながら、茜色をじっと見つめる。
それは、真っ赤という言葉がぴったりの色だった。
目を射抜くほどに鮮やかで華やかな赤。
でも、ほのかにオレンジ色も含まれていて、温かい感じもする。
「綺麗な色だけど、私っぽくはないな……」
思わずそう呟いていた。
青磁色は青磁にぴったりだったけれど、茜色は私には似合わない。
地味で根暗な私とは全然違う。
「そんなことねえよ」
私の思考を遮るように彼が突然、語気を強めた。
「お前は、本当はこういう色だろ。今は違う色のふりをしてるけど、本当はもっと、強くて曇りひとつないまっすぐな色をしてるだろ」
急になにを言い出したんだろう、と私は呆然と青磁を見つめ返す。
「本当の、お前は……」
繰り返した青磁の言葉は、そこで呑み込まれた。
「本当の私……? どういうこと?」
彼がなにを指してそう言っているのか分からなかった。
私は青磁に、本当の自分なんか見せたことがあっただろうか。
小学生の頃にあのことがあってから、私は誰に対しても、自分の気持ちや言葉を隠して生きてきた。
その癖は、青磁と出会った今だって変えられていない。
彼の前ではリラックスできるけれど、全てをさらけ出しているわけではない。
青磁の言葉の意味を読み解こうと、その顔をじっと見つめていたら、それまで黙っていた彼がふいに口を開いた。
「分かるんだよ、俺には。本当のお前が――お前の色が、見えるんだよ」
なにも言えずにいると、彼は少し笑った。
なぜだか悲しげに見える笑みだった。
風が吹く。
青磁の髪がなびいて、銀色に輝く。
ふと、その話を彼にしてみたくなって、私は「あのね」と口を開いた。
「最近読んだ本にね、こんな言葉があったの」
「ん?」
青磁が筆で青の絵の具をすくいながら首を少し傾ける。
「夜が明けたときに、綺麗な朝焼けを見ながら、会いたいと思った人が、その人にとって本当に大切な人なんだって」
青い絵の具に、少しだけ赤が加えられる。
途端に二つの色が混じり合って、綺麗な紫色が生まれる。
「ふうん……」
青磁はそれだけ言って、真っ白なスケッチブックを紫に染めた。
青磁が空を描く。
迷いのない手つきで、ひたすらに色を塗っていく。
思いつくままに適当に色をのせているように見えるのに、だんだんと色に意味が加えられて、いつの間にか空になっている。
何度見ても飽きない、鮮烈で美しい空の絵。
「――時間は」
夢中になって手を動かしながら、青磁がぽつりと言った。
「永遠じゃないんだよな……」
彼らしくない、色のない声だった。
「この穏やかな時間がいつまでも続いて、終わりなんかないみたいに思えるけど……違うんだよな。そんなはずないもんな。いつか必ず終わりは来るんだ」
私に話しかけているわけではなく、ただ、確かめるように、噛み締めるように語る。
邪魔をしてはいけないような気がして、私は彼の手が美しい空を創り出していくのを見つめながら、その言葉の続きを待った。
「なあ、茜」
呼びかけられて、私は目をあげて彼を見た。
青磁の硝子玉の瞳に、空と私が映っている。
「朝焼けを見に行こう。とても綺麗に見える場所を、俺は知ってるんだ」
なにかを考えるよりも先に、うん、と私の唇が答えた。
「見たい。行こう」
*
「おねえちゃん、なにしてるの? それ、おべんと?」
まだ暗いうちに起きて台所でサンドイッチを作っていると、その音で目が覚めたらしい玲奈が、眠そうに目を擦りながら寄ってきた。
うん、お弁当、と答えると、その目が輝きはじめる。
「えんそく、いくの? れなもいくー!」
どうやら私がお弁当を作っているのを見て、遠足かなにかに行くと思ったらしい。
私は首を横に振って、「遠足じゃないよ」と答える。
「じゃあ、なにー?」
そう問い返されて、反射的に浮かんだ言葉は、なぜか『デート』だった。
慌てて心の中でそれを打ち消し、一口サイズに切ったサンドイッチを弁当箱に詰めていく。
「ただのお散歩だよ」
かろうじてそう答えると、玲奈は「おさんぽ? れなも!」と言った。
「うーん、今日はちょっと、ね。また今度連れてってあげるから」
「えー? きょういきたい!」
「わかった、じゃあ、明日。明日連れてってあげる」
「きょうがいいー!」
大声をあげながらまとわりついてくる玲奈に辟易していると、その声が消えたのか、やっぱり眠そうな顔のお母さんがリビングに入ってきた。
「朝からわめいてどうしたの、玲奈。まだ真っ暗よ」
「おねえちゃんとおさんぽいくの!」
「いや、あのね、今日は……」
思わず声をあげて話を止めると、お母さんが私の手もとを見た。
「あら、珍しい。お弁当作ってるの?」
「……あー、うん、まあ。今から出かけるから、朝ごはんに……」
ああ、最悪だ。
家族には知られないようにこっそり出掛けようと思っていたのに。
「ふうん……誰と?」
お母さんが私の作った弁当を覗き込みながら言った。
正直に言うべきか、それともごまかそうかと悩んでいたら、すぐにお母さんが、
「とか訊くのは野暮よね。気をつけて行ってらっしゃい」
と笑った。
意表を突かれて、一瞬動きを止めてから、「……ありがとう」と答える。
お母さんはうふふと笑いながら、玲奈を連れて寝室へと戻って行った。
私が出かけたら家のことを手伝えなくなるから、お母さんは嫌がるかもしれない、と心配していたのに、快く送り出してくれる言葉に胸を打たれる。
と同時に、自分の考え方が卑屈で嫌らしいものだったと反省した。
時計を見ると、そろそろ時間だ。
サンドイッチを詰めた弁当箱をポーチに入れて、鞄を持って台所を出る。
青磁には、玄関ベルは鳴らさずに外で待っていてと伝えてあった。
まだ家族は寝ている時間だし、せっかくの休日に起こしてしまいたくない。
ひっそりと歩いて玄関まで来ると、階段の上のほうで足音がした。
見ると、お兄ちゃんがいつものぼさぼさ頭で降りてくるところだった。
「おはよう。ちょっと出掛けてくるね」
声をかけると、「そうか」と小さく言ったあと、「ひとりで行くわけじゃないよな」と訊きてきた。
お兄ちゃんが引きこもりになって以来、二言も返ってくるのは珍しかったので、少し驚く。
「ううん。……友達と、一緒に」
青磁の存在をどう言葉にすればいいか迷ったけれど、『友達』という表現がいちばん妥当だろうと思って、そう答えた。
すると、さらに驚くような言葉が返ってきた。
「女だけで行くのか? こんな暗いのに。危ないだろ」
どうやら心配してくれているらしい、と気がついて、思わずきょとんとしてしまう。
「……いや、ええと、その友達、女の子じゃないから……たぶん、大丈夫」
まごつきながら答える。
男の子と出掛けるなんて、あまり言いたくなかったけれど、心配させるのも嫌なので正直に言った。
「……あ、そういうこと。なら、まあ、大丈夫か。気をつけろよ」
お兄ちゃんはそう言って、そのままリビングのドアを開けて中に入っていった。
ふう、と息を吐いてから、靴を履く。
なんだか、嬉しかった。
お兄ちゃんと久しぶりに普通に会話した。
それに、私のことを心配してくれたというのも、くすぐったいけれど温かい気持ちになる。
「行ってきます」
みんなを起こさないように小さな声で言って、ドアノブを握る。
ドアを開けるとき、少し悩んだけれど、やっぱりポケットからマスクを取り出して耳にかけた。
学校に行くわけではなくても、いくら相手が青磁でも、やっぱり素顔は見せたくない。
ドアを開く。
隙間から見えるのは、まだ薄暗い街と、夜の色が残る空。
冬のはじめの朝はひどく静かだ。
「よう」
家の前に、青磁が立っていた。
紺色のコートのポケットに両手を入れて、薄いグレーのマフラーを巻いている。
「ちゃんと起きれたか、茜」
微笑んで言う青磁の、少しマフラーに隠れた口許から、白い息がふわりと空へと立ち昇った。
「おはよ。起きれたよ、私もともと早起きだし」
マスクの隙間から洩れた私の息も、外気に触れて白く染まった。
背後の玄関ドアを閉めようと振り向くと、リビングから出てきたお兄ちゃんが階段へ向かいながらこちらを見ていた。
私は小さく手を振り、ドアを閉めて鍵をかけた。
青磁が歩き出したので、後を追う。
制服以外の格好をしているのを見たのは初めてで、ただのコートにジーンズ姿なのに、妙にどきどきする。
自分の選んだ服が変ではないか、気になって落ち着かない。
たくさん歩くかもしれないと思って、私もジーンズにスニーカーを履いてきたけれど、こういうときくらいスカートのほうがよかっただろうか。
いや、でも、寒いし動きにくいし……と、とりとめのない考えを巡らせていると、青磁がふいに足をとめた。
そこは坂道の頂上で、ここから先は下りになっている。
だから、足下に広がる景色が一望できるのだ。
「ここ、見晴らしいいよね」
街を見下ろしている横顔に声をかけると、青磁はふっと笑みを浮かべて「ああ」と頷いた。
「綺麗だ」
私も彼と同じように、目の前に広がる景色を見つめる。
静まり返った早朝の街は、どこを見ても青みがかっていて、まるで現実世界ではないみたいに幻想的だった。
「うん、綺麗だね」
まだ夢の中にいるようにひっそりと肩を寄せ合う家々、控えめに鳴く鳥の声、ときどき遠くから聞こえてくる車のエンジン音。
青白い街を包み込むように広がる空は、紺から濃い紫、青から水色へのグラデーションを見せている。
地平線のあたりは、少し白んできていた。
日の出が近いのだ。
「ちょっと急ごう。ここから十分くらい歩くから」
そう言って再び歩き出した青磁の歩幅は、さほど急いでいるようでもないのに私よりもずいぶん大きくて、さっきまでは私の歩くスピードに合わせてくれていたのだと気がついた。
それが妙にくすぐったくて、私は空を見上げる。
夜側の空には、小さな星が二つ、三つ瞬いていた。
朝側の空には、白い月がうっすらと浮かんでいた。
は、と息を吐くたびに、マスクの中が温かくなる。
アスファルトを蹴る青磁の靴の音に、私の足音も重なった。
世界は私たち二人のためだけにあるような、そんな馬鹿な感覚を抱いてしまうほど、ここには私たちしかいない。