*
「茜、行くぞ」
終礼が終わってすぐに、青磁が荷物を持って私の横に立った。
当たり前のように声をかけられて、そんなことは今までに何度もあったはずなのに、なぜか「えっ」と動きを止めてしまう。
「? なんだよ、用事でもあんの?」
怪訝そうに問われて、私は首を横に振る。
「いや……そういうわけじゃ……ないけど」
「じゃあなにもたもたしてんだよ。置いてくぞ」
青磁がさっさと教室を出ていこうとするので、私は慌てて鞄を持って彼の背中を追った。
三歩ほど後ろを歩いていると、また青磁が訝しげな顔で「なんで離れてんの?」と声をかけてくる。
べつに、と答えて私は距離を縮めた。
少しうつむいて、わずかに埃のたまった廊下の端を見ながら歩く。
視線を感じた。
青磁に見られている。
「……なに? じろじろ見ないでよ」
下を向いたまま呟くと、「だって」と不思議そうな声が返ってきた。
「やっぱお前、今日、なんか変」
「………」
言葉につまる。
どう返せばおかしく思われずにすむかと考えを巡らせて、その表情を見られたくなくて青磁から顔を背けたとき、雨に濡れた窓硝子が目に入った。
「雨」
言葉が口をついて出た。
「雨?」
青磁が首をかしげる。
「そう、雨」
もう一度くりかえすと、彼は「はあ?」と気の抜けたような返事をした。
なにか言わなきゃ、と焦りがふくらんで、思いつくままに適当に言葉を並べる。
「ほら、なんていうの、雨だとちょっと気分が下がるでしょ? なんか憂鬱だなあ、みたいな」
「そうか?」
「そうだよ。だって、服が濡れちゃうし、靴下とか靴がびちょびちょになったら一日落ち込まない?」
「まあ、それはそうだけど、傘さして防水の靴履けばいいことじゃね?」
「だから、そういう物理的なことじゃなくて。精神的にさ、どんより曇って薄暗くて、湿気が多くて、外に出たら濡れちゃって、ってなると、なんとなく気分が乗らないでしょ」
青磁は「へえ」と意外な話でも聞いたような顔をした。
私が言った内容は、それほど変わったことでもない気がするけれど、人とは違う感覚で生きる青磁からしたら、驚くような話なのかもしれない。
青磁はきっと、雨の日には雨の日の美しさがあると知っていて、綺麗なものをたくさん見つけることができるに違いない。
そんなやりとりをしているうちに、いつの間にか美術室に着いていた。
「おっす」
「こんにちはー」
二人で同時に声をあげながら、ドアを開けて中に入る。
部員たちは相変わらず、それぞれの反応だった。
青磁がいつものように画材をとってきて、でもいつものように美術室を出ずに、窓際の椅子に座ったので、私もその横に腰を下ろした。
「今日は屋上、行かないの?」
「そりゃそうだろ。こんな日に登ったら、それこそびしょ濡れだぞ」
「そっか。そうだよね」
久しぶりに青磁と一緒に屋上でのんびりできると思っていたのに、なんとなく残念だった。
青磁は今日は油絵を描くつもりらしく、イーゼルを立ててキャンバスを用意しはじめたので、それを視界の端にとらえながら私は窓の桟に頬杖をついて外を見た。
ぱらぱらと硝子を打つ雨の音。
これさえなければ、屋上に行けたのに。
思わずため息を洩らして、
「あーあ、晴れればいいのに」
と独り言を呟いた。
すると青磁がちらりとこちらを見て、
「しょうがねえなあ」
と肩を竦めた。
そのまま立ち上がった背中を、私は首をかしげながら見つめる。
青磁はゆらゆら歩いて前へ行き、部長の里美さんの前に立った。
「あのさ、部長さん」
本を読んでいた彼女は怪訝な顔をあげる。
青磁から里美さんに話しかけるのなんて初めて見た。
「ここ、アクリルってある?」
唐突な言葉に里美さんは目を瞬かせて、ぱたんと本を閉じた。
「アクリル絵の具?」
「そ。ないなら別にペンキでもいいけど」
「いえ、アクリル、確かあるわよ。こっち」
里美さんが席を立って準備室へ入ると、青磁は「どーも」と言って彼女の後についていった。
なにがなにやら分からず、私は無言でそちらを見るしかない。
私の独り言を聞いて「しょうがねえな」と立ち上がったのだから、なにか私に関係のあることなのだろうと思った。
けれど、絵の具を取りに行っただけなら、私には無関係なのだろうか。
でも、アクリル絵の具?
小学校のときに図画工作の授業で使ったことはあるけれど、美術室で絵を描くときに使われているイメージはなかった。
油絵の具か水彩絵の具を使うのが普通だろう。
どうして青磁はいきなりアクリル絵の具なんて言い出したんだろう?
考えているうちに、二人が美術室から出てきた。
青磁の手には、絵の具が入っているらしい小箱が抱えられている。
「何年か前の文化祭で使ったものらしいから、乾いちゃってるかもしれないけど」
「あー、まあ、なんとかなるよ。これ水溶性だろ? 水で溶かせばいいから」
「まあ、そうね。アクリルで描くの? 珍しい」
「速く乾いて、耐水性あるのじゃないと駄目だから」
二人の会話を聞きながら、図画工作の授業で習ったことをふいに思い出した。
たしかアクリル絵の具は、水彩絵の具のように簡単に水で薄めて使うことも、油絵の具のように厚く塗り重ねることもできて、両方の利点を合わせた画材。
しかも油絵の具より速く乾いて、完全に乾くと水に溶けない強い耐水性もある。
便利な絵の具だなあ、と思ったのを覚えている。
「よっしゃ、やるか」
青磁は気合いを入れるように袖を捲りあげながら椅子に腰を下ろし、絵の具の箱を開けた。
隣に座って眺めていると、パレットに絵の具を絞り出していた青磁が、ちらりと私を見た。
「なあ、お前にさ」
「ん?」
「頼み事あるんだけど」
私は耳を疑って「え?」と目を丸くした。
青磁が私になにかを頼むなんて、ちょっと考えられない。
「なになに、どんな頼み事?」
あんまり珍しいので、興味を引かれて私は先を促した。
「図書室で本借りてきてほしいんだけど」
「本? いいけど。どんな本? ていうか青磁って本とか読むんだ」
「あー、なんでもいいけど……」
青磁はしばらく考えてから、
「んー、じゃあ、色の本」
と言った。
「色の本?」
「なんか、色の種類とか名前とか載ってるような本、あるだろ多分、美術関係の本棚とかに」
「まあ、あるだろうけど」
思いつきのような頼み事に不自然さは感じたものの、図書室は好きなので行くのは面倒でもなんでもないので、「分かった」と私は席を立った。
「あ、茜。荷物全部持ってけよ」
「え? べつにすぐ戻ってくるよ。置いといたら駄目?」
「いや、戻ってこなくていい。一時間後に靴箱のとこに来ればいいから。時間潰しに図書室で好きな本でも読んどけよ」
「……はあ」
なんだかわけが分からないことばかりだけど、まあいいか、と私は荷物を持って図書室に向かった。
*
青磁が指定した時間ちょうどに生徒玄関に行くと、靴箱の間に白い髪が揺れているのを見つけた。
こちらに背を向けて扉の外の空を見ている。
「おー、来たか」
私の足音が聞こえたのか、青磁がぱっと振り向いた。
「……うん、お待たせ」
待ち合わせなんて初めてだったので、妙に落ち着かない気持ちになる。
靴をはきかえて、少し俯きながら近づくと、青磁がひさしの下へ一歩踏み出した。
「色の本、借りてきたよ」
「おー、どうも。家で見るわ」
私から受け取った本を鞄に入れて、青磁がひさしの向こうの雨雲を見上げる。
「よし。まだ降ってるな」
なんだか嬉しそうだ。
私としては、靴が濡れそうでテンションが下がるんだけど。
ふうっとため息をつきながら顔をあげる。
雨音に包まれた世界。
目の前に広がるグラウンドには大きな水溜まりがいくつもできて、今日はサッカー部も野球部も活動していない。
一面の空はどんより曇っていて、青みがかった灰色の雲に覆われている。
玄関前のタイルには雨水が張っていて、そこに広がる波紋の数の多さから、雨の激しさが見てとれた。
あーあ、これは靴下まで濡れちゃうパターンだな。
そんなことを思いながら、憂鬱な気持ちで私は傘を取り出した。
すると、
「あ、ちょい待ち」
青磁に制止された。
怪訝に思って顔をそちらに向けた瞬間、目の前に、
――雨上がりの青空と、色鮮やかな虹が広がった。
「……えっ」
私は息をのんで、呆然とその美しい光景に目を奪われる。
「どうだ、いいアイディアだろ」
ふふん、と自慢げに笑う青磁。
今、私の視界を占領している綺麗な空は、彼が描いたものだった。
ビニール傘の裏に、アクリル絵の具で描いた、美しい空の絵。
「……びっ、くりしたあ……」
驚きすぎて、そんな返答しかできない。
だって、まさか、傘に絵を描いていたなんて。
「だろ。いやあ、やっぱ俺は天才だなー」
歌うように言いながら彼は、青空の傘を差して、雨の中へと足を踏み出す。
「来いよ、茜」
手招きされて、私も雨の中に飛び出した。
そして、青磁が差す傘の中に身体を滑り込ませる。
見上げると、白っぽい灰色の雲が晴れてその向こうに広がった青空、雲間から射し込む陽の光、そして七色の虹。
「……綺麗」
雨上がりの世界がそこにはあった。
「お前が、雨は嫌だとか我がまま言うから、仕方なく晴れを用意してやったんだ。感謝しろ」
偉そうに青磁が言う。
「うん、ありがとう」と微笑みかけると、青磁は一瞬目を丸くして、「……調子狂うな」とぼやいた。
二人で並んで校門に向かう。
傘を打つ雨垂れの音。
靴先が水溜まりを蹴る、ぴしゃぴしゃという音。
傘の中にこもった、青磁の衣擦れの音。
冷静に考えると、相合い傘をしているという事実に気づいてしまって、急に恥ずかしくなった。
歩くたびに、肩先や腕が触れ合ってしまう。
見ると、すぐ斜め上に青磁の顔がある。
こんなに近くで彼の顔を見たのは初めてだった。
やばい、これはかなり恥ずかしい。
思わず俯くと、青磁がこちらに視線を落とす気配がした。
「おい、茜」
「……なに?」
「なに下向いてんだよ。空を見ろ、俺の描いた空を」
うん、と頷いたけれど、青磁に見られていると思うと、顔をあげられない。
また誰かが身体の中から胸を叩く音がした。
「おい、こら」
すると青磁がしびれを切らしたように、唐突にこちらへ手を伸ばしてきて、私の顎をつかんだ。
「こっち向け」
ぐいっと仰向かせられて、触れ合いそうなほど近くにある青磁の顔。
少し長めの白い髪が、ふわりと私の頬をくすぐる。
突然の出来事に唖然としていると、青磁はにやりと笑って手を離した。
そのまま前を向いて歩き出す。
ぼっ、と音がした気がした。
私の顔から火が出る音だ。
青磁が傘を差してくれているので、私は両手が空いている。
冬先の雨で冷えきった掌を、咄嗟に頬に当てた。
凍えた指先を溶かしそうなほどに熱い頬。
なにこれ、と心の中で戸惑いながら叫ぶ。
これは、どういうことだ。
普通に考えれば、まあ、そういうことだ。
ちらりと斜め上を見る。
満足げに自分の新作の絵を眺めている、能天気な横顔。
それを見た瞬間に、鼓動が早くなるのを自覚した。
これは、やっぱり、
「……そういうこと? うそ、ほんとに?」
思わず声が出てしまった。
「は? なんか言ったか?」
青磁が訝しげに見下ろしてくる。
その拍子にまた、腕が触れ合った。
どくん、と心臓が跳ねる。
私は慌てて「なんでもない」と首を振り、青磁と反対側を見上げて、彼の空の絵を見つめた。
晴れればいいのに、と何気なく私が言ったら、青磁がこの絵を描いてくれた。
普段は使わない絵の具を使って、普段のようにキャンバスやスケッチブックを使わずに。
私のためにわざわざ、特別なことをしてくれた。
私のためだけの綺麗な空を、私に見せてくれた。
そのことが照れくさくて、でも本当に嬉しくて。
――好きだ。
と思った。
私は青磁が好きだ。
……どうやら、そういうことらしい。