それが照れ隠しでも冗談でもなく本気だというのが声音で伝わってきて、私は驚きで一瞬、動きが止まってしまった。
顔に浮かべていたはずの微笑みが消えてしまっていることに気がついて、慌てて笑顔をつくる。
「それはそうだけど、みんなは青磁がいいって」
「うぜえ、黙れよ」
きつい口調で遮られた。
私は何も言えなくなり、なんとか笑みだけは崩さずに青磁を見つめ返す。
青磁はいらいらしたように、銀色の髪をかきむしった。
「ふざけんな。なんだよ、みんなが言うからって。みんなってなんだよ、それが何なんだよ」
苛立ちがこみあげる。
なに、その言い方。
こいつは、ちょっとくらいみんなに合わせることができないのだろうか。
張り詰めた空気でクラスがしいんと静かになる。
みんなの視線が私と青磁の間を行き来するのを感じた。
「……あはは」
なんとか笑い声を上げることができた。
「ごめんごめん。確かに、私の言い方が悪かったよね」
空気を和らげるために言ったのに、青磁は「うるせえって」と声を荒げる。
「黙れよ。ご機嫌とりなんかすんじゃねえ、胸くそ悪い」
きっぱりと言い切って、彼はすっと横を向いた。
それきり、ちらりともこちらを見ない。
私は少し俯いて息を吐き、それから顔を上げた。
「……ってことで。青磁は乗り気じゃないみたいだから、他に誰かいない?」
何事もなかったように言うと、みんながまた元のように周囲と会話し始める。
そのうち、元気のいいグループの中心の男子が周りに言われて王子役を買って出てくれて、なんとか役決めを終えることができた。
*
終礼の終わりの挨拶と同時に、私は青磁のほうへ顔を向けた。
彼は一冊も教科書が入っていなさそうなぺらぺらの鞄を肩にかけ、出口のドアへ向かおうとしている。
「青磁、ちょっといい?」
自分を奮い立たせて笑顔で声をかけると、案の定、青磁は嫌そうな顔で「なんだよ」と振り向いた。
私だって、大嫌いなあんたなんかに声かけるの嫌だよ。
でも、クラスのために仕方なくやってるの。
内心で毒づきながらも、笑顔は崩さない。
「帰りがけにごめんね。あの、ちょっと一言だけ、いい?」
青磁は険しい表情のまま私をじっと見つめ返す。
居心地の悪さに視線を逸らしたくてたまらなくなったけれど、なんとか我慢した。
「さっきの役決めのときね……。王子役は他の子がやってくれることになったけど、あの態度はちょっと、みんなの空気が悪くなるっていうか……だから、なんていうか、もう少しクラスのことに協力的になってくれたら嬉しいんだけど」
下手に出たつもりだった。
クラスの出し物のためなんだから協力するのは当然でしょう、と思っていたけれど、顔には出さなかった。
それなのに、青磁はやっぱり苦虫でも噛んだような表情だった。
「はあ? みんな? 空気? じゃあなんだよ、お前はあれか、みんなが『お前死ね』って空気出したら死ぬのか」
小学生みたいな屁理屈に、私は舌打ちしたくなる。
どうして分かってくれないの? と怒鳴ってやりたい。
もちろんやらないけど。
苛立つ気持ちを抑えて、穏やかに話を続ける。
「青磁の言いたいことも分かるんだけど、でも、クラスみんなでやらないと上手くいかないことだし……。それに、青磁にはまた他の仕事やってもらわないといけないから、そのときはちゃんと引き受けてくれないと」
青磁の神経を逆撫でしないように最大の注意をしながら言ったけれど、彼は苛立ちを隠さずに大きな舌打ちをした。
私は我慢したのに。
「俺の言いたいことも分かる、だって? 分かってねえだろ。ていうか分かりたいとも思ってないくせに、その場しのぎの都合のいいことばっかり言いやがって。気に入らねえ」
うぜえ、と吐き捨てるように青磁は言った。
どく、どく、と心臓が嫌な音を立てる。
どうして青磁は、こんなにもひどい言葉を次々と口に出せるのだろう。
私が傷つかないとでも思っているのだろうか。
それとも、わざと?
私はマスクを軽く押さえながら返す。
「私のことが気に入らないのは知ってるけど、でも、これは文化祭の話だから、理解してほしいな。私のことは置いといて、クラスのために、これからはちゃんと協力して欲しいんだけど、それでもだめ?」
顔色を窺うと、青磁は忌々しげに顔をしかめた。
「別にクラスの出し物の仕事やるのが嫌なわけじゃねえよ。ただ、主役なんてやったら、放課後に練習やら何やらで時間とられるだろ。それが嫌だったんだ」
私に言い聞かせるようにはっきりとゆっくりと、彼は言う。
「絵を描く時間をとられるのは我慢できない。俺にとって部活の時間は、他の何より大事な時間なんだ。その時間をとられないことなら、いくらでもやるよ」
それだけ言うと、青磁は迷いなくすたすたと教室を出ていった。
ゆ
る
せ
な
い
*
心がぐらぐらと揺れているのを自覚する。
学校を出てからも心臓が妙に落ち着かなくて、それを忘れたくて私は俯いたまま駅に向かってずんずんと歩いた。
青磁のせいだ。
むかつく。
あいつが私のことを嫌いなのは分かっている。
それは別にいい。人間同士なんだから、合う合わないはあって当然だ。
私だって青磁なんか大嫌いだし、話したくないし、できれば視界にも入れたくない。
でも、あからさまに仲が悪いそぶりを見せたら、周りが気をつかう。
だから、嫌な気分を飲み込んで、あえて話しかけているのに。
それなのに青磁は、私が話しかけるたびに、不愉快そうな顔をして冷たい対応をするのだ。
私の努力を無駄にするように。
いくら私がクラスの雰囲気を悪くしないように気を回しても、あいつのせいでなにもかもが台無しになってしまう。
本当にむかつく。
あんなやつ、大嫌いだ。
ぐるぐるとそんなことを考えていると、いつの間にか駅に着いていた。
改札を通ってホームに降りる。
地下鉄の駅の構内は、いつもむっとした湿気に満ちていて、歩いているだけで肌がべとついた。
湿気がマスクの中にまで入ってくるようで、気が滅入る。
満員電車に乗り込むと、数えきれないほどの乗客がまとう熱気がぶわりと身体を包んだ。
息苦しい。
マスクに覆われている部分が暑くて、じわりと汗ばんできた。
ひどく心地が悪いけれど、マスクは外さない。
この駅をつかう生徒は多いし、同じ方面の電車に乗る子がたくさんいるから、いつ知り合いに会ってしまうか分からないから。
座席にも吊革にも空きはなくて、私はつかまる場所もないままに電車に揺られる。
高校に入学して電車通学を始めたころは、バランスを崩してよろけてしまうことも多かったけれど、一年と三ヶ月も経てば、さすがに慣れてきた。
携帯を出して、耳にイヤホンを差し込む。
特に聴きたい音楽もないけれど、少し前に流行ったバンドのアルバムを適当に選択して、携帯を鞄の中に戻した。
陳腐な歌詞をのせたありふれたメロディーが、私の中を通過していく。
次の駅でさらにたくさんの人が乗り込んできて、押し寄せる人波に流された。
横にいるOLと後ろに立っていたサラリーマンの身体が密着してくる。
不快だけれど仕方がない。
私は俯いて、胸の前に回した自分の右手をじっと見ていた。
やっとのことで降りる駅に着いたころには、首筋やマスクの中がじっとりと湿っていた。
最寄りの駅で降りて、家までは徒歩で十分ちょっと。
その途中のコンビニが見えてくるあたりで、私はマスクを外した。
このコンビニには時々家族が買い物をしにくるから、マスク姿を見られる心配があるのだ。
本当は、外で素顔をさらすのは落ち着かないので、家に着くまで付けたままでいたい。
でも、家族には見られたくないし、知り合いでなければ顔を見られるのも何とか我慢できるから、いつもここで外している。
耳にかかっていたマスクの紐を外すと、じんじんと痛んで半分麻痺したようになっていた耳の付け根が喜んでいるのが分かった。
すっぽりとマスクに覆われていた頬に、突然空気が触れて、ひやりとした肌寒さを感じる。
落ち着かない。
前から歩いてくる人影に気づいて、私は思わず顔を背けた。
たとえ知らない人でも、顔を正面から直視されるのは嫌だった。
何時間もマスクに覆われていた頬は、ふやけてたるんでいるような気がする。
少し大袈裟に首を傾けると、伸ばした髪が顔を隠してくれるから、とりあえずは安心できた。
できれば前髪ももっと伸ばしたいのだけれど、少し伸びてくるとお母さんに『そろそろ美容院に』と言われるから、なかなか思い通りにならないのだ。
「ただいま」
玄関のドアを開けながら、廊下の奥に声をかける。
リビングから「おかえり」と声が聞こえてきた。
玄関のすぐ右に私の部屋がある。
荷物を置いて、私はいつものようにそのままの足でリビングに顔を出した。
「茜、お帰り。遅かったね」
台所に立っていたお母さんがそう声をかけてきた。
「うん、文化祭のことでちょっと」
「そう。ごめん、こっち頼んでいい?」
「はあい」
流し台の前のお母さんと入れ替わる。
お母さんは今から、保育園に妹を迎えに行くのだ。
「お母さん、これ、サラダでいいの?」
「うん、よろしくね。行ってきます」
「行ってらっしゃい、気をつけて」
野菜をさっと洗い、皿に盛り付けてラップをかけて冷蔵庫にしまう。
横に視線をすべらせると、調理台に食材が並んでいた。
合挽き肉に玉ねぎ、卵、パン粉と小麦粉。
ハンバーグか。
頼まれてはいないけれど、見てしまったのに無視はできない。
お母さんは朝から夕方までパートで働いているし、妹の送り迎えもあって、いつも疲れた顔をしている。
なるべく私が手伝わないといけない。
玉ねぎをみじん切りにしてフライパンで炒め、あら熱をとってから挽き肉と混ぜ合わせる。
調味料と卵を加えて、パン粉をふりかけ、牛乳を少し垂らしてさらに捏ねていく。
熱したフライパンに油を引いたところで、みしっという足音が聞こえて私は顔を上げた。
リビングのドアからのっそりと入ってくる人影。
お兄ちゃんだ。
寝癖だらけのぼさぼさ髪と、上下スウェットという格好から、今日も学校に行かなかったのだと分かった。
「お兄ちゃん、晩ご飯ハンバーグだよ」
笑って声をかけたけれど、お兄ちゃんはちらりと見て小さく唸っただけだった。
ハンバーグはお兄ちゃんの大好物で、昔はお母さんがこうやって種を捏ねていると嬉しそうに覗きこんでいたのに。
最近はご飯のメニューになど全く関心がないようだ。
お兄ちゃんはぼんやりとした顔で台所に入ってきて、冷蔵庫からコーラのペットボトルを出してそのままリビングを出ていってしまった。
種を成形してフライパンにのせながら、不登校の引きこもりってやつなんだろうな、と思う。
高校に入ってしばらくしてから、お兄ちゃんは学校に行かなくなった。
理由は分からない。
進学校だから勉強がきつかったのかもしれないし、朝練が大変そうだった部活で何かあったのかもしれないし、知り合いがいない学校だったから友達ができなかったのかもしれない。
でも、成績はそれほど悪くなかったらしいし、サッカー部の仲間としょっちゅう遊びに行ったりして楽しそうにしていたのに。
とにかくお兄ちゃんは学校に行かず高一で休学扱いのまま、もうすぐ十八歳になろうとしていた。