「あ」
校内でいかがわしいことをしていた葉っぱ男を目の前に言葉をなくしていると、私の顔を見て思い出したらしい彼が、口をゆっくりと開ける。
「よく会うね、あんた」
「水島です」
「水島さん」
ふ、と彼が笑った。光に透けて少し茶色っぽく見えるやわらかそうな髪、女の子もうらやむだろうきれいな肌、ひとつひとつの動作がスローな彼は、この美術室であきらかに浮いている。
「まぁ、頑張って」
まるで心のこもっていない言葉をかけて、ふいっと離れる葉っぱ男。いまだに驚いたまま固まる私は、彼が右手に持っているものを見て、さらに不可解な気持ちになる。
なんでビン?
ふたの開いた、ジャムかなにかの空のビンを手にブラブラ提げているうしろ姿。彼を凝視しながら、私の眉間のしわは深くなる。
「…………」
そのとき、一瞬嫌な予感がした。彼が、私の憧れの人の絵の前で立ち止まったから。そして、ビンのふちをぼんやりながめていたかと思うと、その手をゆっくりとあげたからだ。
「え?」
もしかして……。
「あぁっ!」
やっぱり!
思わず声が出る。彼は、ためらいもせずに桐谷さんの絵にビンを押し付けた。
なんてことを!
気付けば、ガタン、と椅子の音とともに立ちあがり、彼のところへ走っていた。
信じられない! 怪しいとは思っていたけど、まさか本当にこんなことをする人だとは!
注目されているのもなんのその、いつもはこんなに感情を表に出すことはない私は、ぐいっと勢いよく彼の腕を引き、
「なにしてるんですかっ!? バカじゃないのっ?」
と、先輩にもかかわらず怒鳴りつけた。
美術室が一時、シーンとなる。強く腕を引いたせいでバランスを崩した彼の肩が、私の顔にかすかに触れた。
「……なにって、スタンピング」
驚いた顔から元の顔に戻った彼は、その顔をゆっくりとこちらに向けて、淡々とそう答えた。
スタンピング?
「そうじゃなくて、なんで人の絵にこんなことっ」
「人の絵?」
「桐谷さんの絵でしょ!?」
「そうだよ」
「私の憧れの人なんです! その人の絵にひどいことしないでくださいっ!」
彼の腕をつかむ力を一層強めて揺さぶる。そして、またその場が静まりかえった。うしろに並ぶ石膏像や飾られた絵画からも注目を浴びているようだ。
沈黙を破ったのは、「ハ」という、息を小さく吐いたような笑い声。そしてほんの少し口角をあげたまま、ゆっくり瞬きをしてこちらを見た葉っぱ男。私の手をそっと剥がした。
「……?」
あれ? なにか、おかしい。まわりのみんなも、なんだか少し笑って……。
「どーも」
そう言って彼が桐谷さんの絵の前の椅子に座ると、美術室の空気が動きだし、みんなそれぞれの活動を再開する。まり先輩は、なにか言いたげな表情でこちらを見ている。
「ど……“どーも”って、だから……」
私は自分だけアウェーな感じにまわりをキョロキョロしながら、なおもどいてくれない葉っぱ男を怪訝な顔で見る。
「この前の葉っぱ、ここに使った」
「え?」
彼が、桐谷さんの絵の中の独特な模様の部分を指さす。私はそれを前傾姿勢で凝視する。
「桐谷先ぱーい。外で人が待ってます。話がしたいって」
「あー。はい」
美術部員の声に振り返り、首の付け根を押さえ、だるそうに返事をする葉っぱ男。私も振り返ると、美術室の入り口から覗いている髪の短いきれいな女の人が見えた。この前イチャついてた人だと確信した。
……ていうか……。
「は?」
この人、今、なんて呼ばれた?
「桐谷先輩……て、呼ばれたのに、なんで……」
もしかして、もしかしなくても、と目で訴える私に、
「はーい」
と、無表情のくせに首を可愛くかしげながら小さく挙手する葉っぱ男。
すっと立ちあがり、入り口へと歩いていく。私は、彼のうしろ姿を穴があくほど見ながら、ポカンと立ちすくむ。
「…………」
あー、はいはい。いるもんね、男で『はるか』って名前の人も。
そっか、……そっか。彼が……桐谷……。
「わっ、大丈夫? 水島ちゃん」
少しふらついたところを、近寄ってきていたまり先輩が支えてくれる。
「大丈夫じゃ……ないかもです」
そう言いながら横目で見た桐谷先輩の絵は、ビンのふちを押し当てたところがアクセントになっていて、やっぱり素敵なことに変わりはなかった。
「それより水島ちゃん、バスの時間……」
私は力なく掛け時計を見あげる。
「……過ぎてますね」
一番うしろから2番目の左端の席、バスの車窓にコツリと頭を預け、ぼんやりと外の流れる景色をながめる。
いつも塾へ行くために夕方はやい時間に乗るから、6時台のバスに乗るのは初めてだ。外は薄暗く、車内は控えめな明かりが灯る中、3分の1は学生の乗客たちが、振動に合わせて同じように揺れている。
今日のデッサンは、あれからほとんど進まなかった。ショックから立ち直れなかったのだ。
たしかに桐谷さんを女だと勝手に思いこんでいたのは私だ。プラス、芯があって凛とした美少女を想像していたのも、これまた私に他ならない。それが、チャラくてなにを考えているかわからないような男だったからといって、誰も責められない。
幻滅って思っちゃいけない。意外だった。うん、そう、意外だっただけで、作品自体には罪がないんだから。本当にすばらしいんだから、うん。
そう自己暗示しながら、目頭を押さえ、しばらく考える人ポーズを続けた。
「だから、すごいんだって! 超レアキャラで」
「マジ!? ちょっと見せろよ」
私は目頭を押さえたまま、ため息をつく。私の席のうしろ、段差のある一番奥の席に4人で座っている男子生徒たちが、おそらくゲームの話で盛りあがっている。それは、べつにいいんだけど……。
「うわ、マジだ。すげー。ほら、遥も見てみろよ」
「んー……」
すぐ背後で興味があるのかないのかわからない声。一番小さなその声が、私には一番耳に響いた。今日、なにかと縁がある男。そう、桐谷遥の声だから。
「…………」
初めてこの時間のバスに乗るから知らなかったけれど、帰る方向が同じだったらしく、しかもバス通学みたいだ。朝のバスでも一緒にならないから、登校時間が違うんだろう。
「って、おい。また寝てるし、遥」
「大丈夫だろ、コイツ終点で降りるんだし」
彼の男友達が大きな声で話しているから、会話が筒抜けだ。
終点って……もしかしたら私と家が近いのかもしれない。私の家は、終点のバス停と目と鼻の先だから。まぁ、でも、今日私が降りるのは終点のひとつ手前だけど。
15分ほどすると、バスの乗客もほとんど降り、すっかり車内も静かになった。あと停留所3つで終点だからだ。
夜7時になり、外もだいぶ薄暗くなっている。私は外の暗さと車内の明かりのせいで鏡みたいになっている窓を見て、気にしたくないのにうしろの席の気配を意識していた。
「水島さん」
ビクリと肩がこわばる。寝ていたと言っていたはずの人の声に、全神経が背中に集中したかのようになり、顔半分で振り返った。
「合ってるんなら返事しようよ」
「はい」
もう少し顔をひねり、盗み見るようにチラリと彼を見て、返事をかぶせる。
「続くね、偶然」
「そうですね」
「偶然?」
「偶然です」
「そう」
フッと軽く吹き出す声。“憧れの人”発言をしたから、ストーカーの疑いでもかけられていたのだろうか。嫌な言い方をする男だ。
「家、こっちなんですね」
「うん、3丁目」
「えっ、私2丁目」
やはり近くに住んでいたんだ。世間はせまい。
普通に座りながら話す桐谷先輩に、顔だけ窓の方へ向けながら話す私。あの”桐谷遥”とこんなふうに話をすることになるとは思わなかった。というか、いまだに気持ちが追いつかず、私の中の“桐谷遥”と、うしろの席の“桐谷遥”が合致しない。カーブの多い道で体が斜めになりながら、窓に映る気難しい顔の私が目に入った。
「水島さんさ、俺のファンなの?」
「…………」
きた。絶対聞かれると思っていた。
「えー……っと、正しくは、桐谷先輩の作品のファンです」
本当は “桐谷遥”自体のファンにもなっていた。あんな絵を描ける人なんだから、すばらしい感性と人格も持っているんだろうと、勝手に妄想を膨らませて崇めていた。
「なんで知ってんの? 俺の作品」
ギッ、と背を預けているシートが音を立てた。桐谷先輩が、私の背もたれに交差した腕を乗っけて、こちらに身を乗りだしたからだ。私は、男の人との慣れない近さに顔をパッと戻し、
「……中3のとき、美展で見て……」
と、正直に答える。
「あー、美展か」
「はい。すみません、勝手に」
「ハ」
謝るんだ、そこ、と続けて、短く笑う桐谷先輩。無愛想かと思えば、無防備な笑顔をさらすこの男を、盗み見してはまたすぐに視線を戻す。
女の人がほっとかないのがわかる。この独特な雰囲気と些細な表情の変化に振り回される。このタイプはたぶん、タチが悪い。
「失礼ですけど、美術部って感じじゃないですね」
窓の方を見ながらそう言うと、
「よく言われる」
と、乗っけている肘の片方を立て、頭を預けながら答える桐谷先輩が窓に映る。
あ、わかった。この人をまだ“桐谷遥”だって受け入れられないのは、彼が絵を描いているところをちゃんと見ていないからだ。
彼は今日、あのショートボブの女の先輩に呼ばれて、そのまま美術室には帰ってこなかった。ビンを押しつけたところを見ただけじゃ、まだ腑に落ちていないんだ、私。
「あ、押し忘れてた。次だ」
窓の外の景色にハッと気付き、慌てて降車ボタンを押す。チャイムの音が車内に響き、運転手が「次、停まります」とマイクで言った。
「降りるの終点じゃないの? 2丁目でしょ?」
終点のひとつ前でボタンを押したことに当然の疑問を持ったらしい桐谷先輩に、私は無言を決めこむ。
「なに? ワケあり?」
「……塾、を」
「え?」
「平日は毎日7時まで塾なんですけど、今日バスに乗り遅れて休んじゃって」
用事があるとか言って適当にごまかせばよかったんだけれど、私はバカ正直に答える。