同じマンションの五階と六階に住んでた幼稚園の頃、文乃の頬にあの痛そうなニキビはひとつもなくてつるんとしてたし、今みたいにずんぐり太ってもいなかったけれど、暗い雰囲気を作っているあの前髪は今と変わらなかった。目を半分隠す長さで、重たくて真っ黒。視聴覚室のカーテンみたいに光を受け付けない、分厚い前髪の奥から時々覗く目は、その頃から年じゅう梅雨空のように暗かった。


 文乃の暗さがどこから来るのかわからない。片親でこそあるけれど別に虐待とかを受けてたわけじゃなく、小さい頃はよく会ってた文乃のお母さんはばりばり働くキャリアウーマンで、男っぽいとか潔いって言葉が似合う、いい人だ。


しかし文乃はどういうわけかそのお母さんに見た目も性格もちっとも似てなくて、暗い性格だって生まれつきのものとしか言いようがない。かくいうわたしもみんなの後からついていくタイプだから、文乃とは気が合ったんだと思う。同じマンションで歳も一緒で女の子同士で、っていう偶然の重なりも手伝って、小さい頃のわたしと文乃はいつも二人で行動してた。


 マンションの非常階段で何時間も「グリコ」「パイナップル」ってじゃんけんしたり、立ち入り禁止の屋上にこっそり入ったり、近所の雑木林に虫取り網片手に探検に出かけたり。わたしには十歳下の弟がいるけれど当時はその弟もまだ生まれてなくて、「きえちゃんきえちゃん」ってまとわりついてくる文乃が妹みたいなものだった。


お母さん同士も仲が良かったから、文乃のお母さんの仕事が遅くなる日はよく文乃をうちで預かってた。お姫さまごっこに幼稚園ごっこ、おかしやさんごっこ、今思うと何があんなに楽しかったのかよくわからないけれど、夢中になったっけ。



預かってもらうお返しにって、文乃のお母さんはたまの休みにわたしも一緒に、遊園地や動物園に連れてってくれた。だからわたしの小さい頃の写真には、姉妹みたいに隣に文乃が写ってるものが、何枚もある。


 事情が変わったのは、うちが家を建ててマンションを出て行くことになった、小学三年生になる春からだ。遠くに行くわけじゃない、同じ町内だし同じ学校だし、引っ越してからもいつでも遊べるね、二人のお母さん同士はそんなことを言い合ったけれど、実際そうはならなかった。


新居は新しい家が次々建つ新興住宅街で、近所には同じ小学校に通う同じ学年の女の子がたくさん住んでいた。わたしはごく当たり前に、その子たちと仲良くなった。ちょうど小学校に入って初めてのクラス替えがあって、違うクラスになってしまった文乃とは学校で接する機会がなくなった。家は遠い、帰る方向がばらばら、クラスも違う。幼い友情は距離があるとたちまち綻んでしまう。


 そしてこの頃から、文乃はみんなに嫌われ始めた。


 いや、たぶんそれまでも暗くて動作の鈍い文乃は嫌われてたんだけど、文乃といつもべったりで、文乃以外に友だちを持たなかったわたしは、文乃が嫌われ者だったことに気付いてなかった。新しく友だちになった子たちはお姫さまを暴漢から守るように、わたしから文乃を引き離した。


相変わらず「きえちゃんきえちゃん」とわたしの姿を見つければ声をかけようとする文乃を、冷たい視線でけん制した。そして文乃のいないところで、文乃の悪口を言った。眉をぎゅっとひそめて、でもちょっと楽しそうに。「きえちゃん、文乃なんかと友だちなの?」「文乃なんかと一緒にいちゃ、文乃菌が移るよ」「きえちゃんはわたしたちといなきゃ。文乃と友だちなんて、だめだよ」……


 最初はみんなの言葉に戸惑ったし、言い返したかったはずだけど、やがて知った。みんな今までわたしに話しかけたかったのに、文乃がいつもくっついてたせいで声をかけれなかったこと。つまり今まで友だちは文乃だけだったわたしは、いろんな子と仲良くする機会を失っていたこと。


「きえちゃんきえちゃん」とまとわりついてくる文乃より、新しい友だちと一緒にいるほうが楽しいこと。何より、文乃から離れてみて初めて、長い前髪で半分隠した目の暗さに気付いた。それまで普通の明るい子とちゃんと接したことがないから、わからなかったんだ。文乃が暗くてキモいって。