「………………」
私の大事なもの。
家族、友達。絵でいえば、なんだろう。
誰かの心に残るような、作品をつくりたい。だからそのために努力すること。技術を上げて、説得力を出すこと。
それだけじゃ、ダメだろうか。
私は何かを見失ってる?
ああでもそうか、だから私は今、筆を持てなくなっているのか。
私が大切にしてることって、なんだろう。
考え込んだ私を見て、颯がもう一度私の頭を撫でた。今度は乱暴じゃない、やさしい手つきだった。
「俺はさ、理央が描く世界が好きだよ」
彼の手が離れる。その足はもう一度、海の方へ歩いていった。
ズボンの裾を膝下まで折った白い足が、水の中へ入る。
颯はこっちを向いて、手を目一杯に広げて、思いきり笑った。
「理央の素直な目で見て。今、俺はどんな風に見えてる?」
気づけば夜空には、星が出ていた。
辺りはもう真っ暗で、色彩なんて少しも残っていない。
それなのに私には、彼と彼がいる風景が、とても色濃く、深い彩りをして見えた。
………からだが、ふるえる。
寒さなんてもう、感じなかった。だけど粟立った肌が、背筋が、ぞくぞくとした。
見開いた私の目に、彼の笑顔と黒の景色が、満点の星と共に映る。
風がひとつ吹いて、私の髪を揺らした。
私はそのとき確かに、筆を持ちたいと思ったんだ。
「今日はありがと。じゃーね」
午後八時すぎ、颯に自転車で送ってもらって、家に帰ってきた。
家の前で颯と別れるとき、私は気分が高揚していて、頭が上手く働いていなかった。
「………うん。こちらこそ、ありがとう」
小さく手を振る。颯はぼうっとしている私を見て、はは、と軽く苦笑いした。
「おやすみ」
彼はそう言って、私の返事を待たずに自転車を走らせていった。
小さくなっていくうしろ姿を見つめながら、冷たい風が辺りに吹いているのを感じた。
その背中が見えなくなってから、玄関の扉を開けて家の中へ入った。
「おかえり~、遅かったねえ」
お母さんが、リビングから廊下にいる私に声をかけた。
「……ただいま」
リビングの扉を開けて、顔だけを覗かせて中を見た。台所にいるお母さん、ソファに座ってテレビを見ている妹、テーブルでお酒を飲みながら新聞を読むお父さん。
どこにでもある、ごく普通の一般家庭だ。
「ご飯、もうみんな食べちゃったけど、アンタどうする?外で食べてきたの?」
「……うん。今日の夕飯は明日の朝食べるから、冷蔵庫に入れといて。ごめん」
本当は食べてないし、お腹もすいていた。だけど、そんなことも気にならないくらい胸がいっぱいで、今は少しでも早く自分の部屋に行きたかった。
二階に上がって、自分の部屋に入ってから、適当にカバンを床に置いて、棚を開けた。
画用紙サイズの紙を用意して、水彩絵の具をばらばらと出していく。パレットとバケツも取り出すと、バケツを持って階段を駆け降りた。
洗面台でバケツに水を汲むと、こぼれない程度に急いでまた階段を上がった。
部屋に戻ってバケツを置いて、早々に紙を手に取った。
何も考えず、ただただ衝動に任せてシャーペンを動かす。
ーー描かなきゃ。
そう、思った。星空の下、笑う颯を見て。
あのとき見た光景は、強く強く私の目に焼きついていて、今も離れない。
覚えている限りに細かく、感じたものを素直に。
下描きを終わらせると、息もつかずに着色に移った。展覧会の日から私の心にのしかかっていた塗り方の問題なんて、少しも考えずに絵の具を選ぶ。
赤、青、黄色。
この三色を迷いなくパレットに出した。
それぞれを軽く混ぜて、絵全体にサッと塗っていく。
夜の黒い空、黒い海、黒い学ラン、颯の黒い髪。
だけどきっとあのときの黒は、いろんな色を持った黒だった。その中に赤も青も黄色も緑も、ぜんぶ内包していた。
やわらかく、やさしく、それでいて深く。
下地の色達が薄く透ける程度に、藍色を被せていく。
塗っている間、私の手は一度も止まらなかった。
久しぶりにわくわくした。楽しかった。
夜が更けて、家族もみんな寝静まる時間まで、私は筆を動かし続けた。
*
翌日は、朝から雨が降っていた。
迷ったけれど、昨日描いた颯の絵は学校に持っていくことにした。これがあれば、なんとなく気持ちが沈まずにいられるような気がした。
お昼休みになって、私のクラスの前を友達と笑いながら歩いていく颯を、教室の中から見かけた。
彼は私には気づかず、そのまま通りすぎていく。
見えない壁が、私たちの間を隔てているかのようだ。なんだか昨日のことが嘘のように思えた。
昨日、颯と海で話したことが夢ではなかったと、あの絵が証明してくれるけれど。
『天動説って知ってる?』
昨日の颯の話を思い出す。
『 俺は、“大きなもの”が動かす世界の小さな存在になるより、俺の大事なものを中心に動かす世界で生きたい。それがどれだけ小さい世界でも、俺はそこで生きていたい』
まっすぐな声と瞳で、彼はそう言った。
それが意外で、なんだか彼が自分と近い存在のように思えた。
だけど今、学校での私と颯の距離を目の当たりにしたら、やはり遠い存在に感じられる。
この学校という小さな世界は、けれど揺るぎない大きなものが支配しているように見える。
狭い教室の中、大きな声で騒いでいる派手な集団、その周りを囲んで必死に愛想笑いを浮かべる人たち。
そんな彼らとは離れた場所で、静かに話をしたり、本を読んだりしている人たちもいる。
私がいるのはここだ。そして颯がいるのは、あの華やかな集団。
このふたつの間にある差は、見た目だったり性格だったり、好きなものだったり考え方だったりと様々だけれど、一言で言ってしまえるようなものではない。
感覚によるところが大きいように思う。
その場所が、雰囲気が、そこにいる人間が、自分に『合う』か『合わないか』。
そんな曖昧で不確かで大きな基準が、この小さな世界を支配している。
私と颯は『合う』のかな。
性格は全然違う。好きなものとかはよく知らないけれど、趣味はたぶん合わないと思う。
だけど感覚とか、考え方はどうだろう。
合う、のだろうか。彼は私の絵を好きだと言ってくれる。颯の考え方も、意外だったけど納得できるところがあった。
私はひねくれものだけど、颯と一緒にいること自体は特に苦痛じゃないことも、もう気づいていた。
彼の人のいい部分を知る度、苦しくはなったけれど、彼のどこか切ない笑みは、私の心を惹き付けるものがあった。
だけど颯は、私のことをどう思っているのだろう。
彼が私にかまう理由も、未だによくわかっていない。もしかしたらもう本当に、私と颯はこれきりかもしれない。
颯はきまぐれに私にかまっただけという可能性もある。そう思うと、それが自然であるように感じた。
昨日感じた、颯がいる風景を見たときの、あの込み上げるような衝動は、今も私の心を震わせる。二度と忘れられないだろう。
だけど颯がこれきりというつもりなら、もうあの衝動とは出会えないだろう。
当たり前のことなのに、それを寂しく思っている自分に気づいて、小さくため息をついた。
*
学校が終わり、美術室へ行こうと私は自分の教室を出た。
だけどちょうどそのとき、近くから颯の声がした。
「あ、理央!」
彼が口にした名前に、思わず耳を疑った。
驚いて振り返ると、颯がこちらを見ていた。彼の周りには当然、彼の友達が何人もいて、みんな不思議そうに私をじろじろ見ている。
突然向けられた無遠慮な視線に何も言えなくなった私にかまうことなく、颯はにこにこ笑っていった。
「今日も、美術室行っていい?」
颯の言葉に目を見開く。周りの男子たちも同様だ。颯に美術室なんて、絶対つながらないワードだから、当然だ。
放課後になったばかりの教室前の廊下は騒がしく、多くの生徒が行き交っている。
そんなところでこんなことを、しかも颯に言われて、私は焦った。声が出なかった。
美術室に来たいなら、勝手に来ればいい。私に尋ねないでほしい。
断る理由なんかない。
だけど「いいよ」と言うための勇気は、きっと颯が考えるよりずっと、大きな力を必要とするのだから。