手すりを掴んだままの手に、再び強く力を込めた。
ドクドクと、不穏な音を立てる心臓。
一体、どうしてこんなことになってるんだろう。
何も言わない雨宮先輩に、恐る恐る伏せていた瞼を上げて隣を見れば、ただただ空を仰ぐ横顔に、一瞬、見惚れた。
それと同時に、ふわり、と。
ムスクの香りが、踊るように宙を舞う。
「今日の放課後、雨が降るから、早く帰るか途中で傘を買った方がいい」
「……え?」
「きみは、ずぶ濡れで帰る羽目になる」
先輩の視線の先の空は相変わらず澄み渡るような青が広がっていて、雨が降りそうな気配もない。
朝に見た天気予報も、今日は一日晴れだと言っていた。
「何、言って……」
困惑のまま言葉を零せば、再び彼の視線に射抜かれて、今度こそ心臓が早鐘を打つように高鳴った。
何かが、おかしい。
先程から、雨宮先輩に渡される言葉の、何かが。
「別に、信じなくてもいい。だけど、間違いなく雨は降る」
「……っ、」
その言葉を合図に、私は冷たいコンクリートを蹴って走り出した。
これ以上、雨宮先輩と同じ空間にいたらいけない気がして。
そのまま来たばかりの廊下を走って職員室を通り過ぎ、自分の教室までの道程を止まることなく駆け抜ける。
「ミウ、おかえり。先生からのお説教、終わったの?」
教室に着くと、息を切らした私を見て友達の一人が心配そうに声を掛けてきた。
それに答えるより先に、私は窓際まで歩を進めて屋上を見上げ、彼の姿を探したけれど……
その時にはもう屋上に、雨宮先輩の姿は見当たらなかった。
火曜日の雨雲
──────────*
「あー、もう。まだ湿ってる……」
昨日の放課後は散々だった。
最寄り駅で電車を降りて、駅から家まで15分の道程を自転車で走っている途中、降りだした雨。
慌てて見上げた空は知らぬ間に黒い雲に覆われて、昼間の青空が嘘のよう。
それに気付いた時には時すでに遅く、次の瞬間、空から指の間を擦り抜けた水滴のような大粒の雨が落ちてきた。
一面に田んぼと畑が広がっているその場所にはコンビニなんて便利なものはなく、私は、とにかくペダルを漕ぎ続けるしかない。
土砂降りの雨、お陰で制服は、ずぶ濡れ。
家に帰ってからすぐに、身体に張り付いた制服を脱ぎ捨てたけれど……
今朝になっても換えのきかないスカートだけが、昨日の雨の名残を残して、ほんの少し、湿っていた。
「昨日の雨、凄かったね。ミウ、大丈夫だった?」
朝、学校に着くなり声を掛けてきたのは、クラスメイトで友達のユリ。
彼女は今日も長い黒髪を高い位置で結いて、揚々と揺らしている。
「大丈夫じゃないよ、もう最悪。雨の中、自転車で帰って制服はずぶ濡れだし……スカートも、未だにちょっと湿っぽい」
溜め息混じりに答えれば、ユリが「私も、結構濡れたよ、最悪だよね」と笑みを零す。
「でもさぁ、昨日の朝の天気予報では一日晴れだって言ってたのに。ホント、天気予報って当てにならないね」
言いながら、私の隣の席に腰を下ろしたユリを視界の端に捕らえて──
私は、昨日の自分が、同じことを思った時の景色を思い出した。
『今日の放課後、雨が降るから、早く帰るか途中で傘を買った方がいい』
昨日の昼休み、屋上で、唐突にそんなことを言った雨宮先輩。
雨宮先輩のその言葉通り、放課後には雨が降って、私はずぶ濡れになった。
『きみの未来、俺には見える』
あの時は、雨宮先輩は一体何を言ってるんだろうと思ったけれど。
本当に雨宮先輩の言葉の通りになったんだ。
あれは、偶然?
それとも本当に、雨宮先輩には私の未来が見えたんだろうか。
天気予報でさえ、当てられなかった俄雨(にわかあめ)。
土砂降りの雨の中、ずぶ濡れになって帰る、私の未来が。
「─── ウ、ミーウ、ミウッ!聞いてる!?」
「わ……っ。ご、ごめん、何?」
つい、ぼんやりと昨日の出来事を思い出していれば、ユリの声に現実へと引き戻された。
いつの間にか強く握り締めていた、通学鞄の持ち手。
その手をそっと解いて隣を見れば、「だから、昨日の雨で携帯が壊れてさぁ」と、唇を尖らせるユリと目が合った。
「ねぇ……ユリ」
「うん?」
「雨宮先輩って、知ってる?ほら、三年の……」
薄く開いた唇から、溢れるようにその名前を零せば、ユリが元々大きな目を更に見開いて「もちろん、知ってるよ」と返事をくれる。
「アメ先輩でしょ!」
「雨、先輩……?」
「そうそう、みんな、そう呼んでるよ。呼び方が、" アマミヤ " と間違えやすいから、わかりやすいようにアメ先輩」
雨、先輩。
それはなんだか、呼ぶのが申し訳ないような……
本名だから仕方ないにせよ、その呼び方だと雨男みたいで、本人は嫌じゃないんだろうか。
「でもさぁ、アメ先輩には、近付かないほうがいいよー」
「え?」
「なんでも、東京の学校でヤバイ事件起こして退学になったって。それで、家族とはいられなくなっちゃって、おばあちゃんに引き取られたとかなんとか……」
「まぁ、部活の先輩が言ってたことだから、詳しいことはわからないんだけどね」なんて、あっけらかんとユリは言った。
制服のスカートは未だに湿っていて、不快感だけを私の心に残している。
「─── っ、」
思わずユリから目を逸らして視線を下に落とせば、開かれた窓から冷たい風が迷い込んだ。
やっぱり、雨宮先輩……雨先輩には、悪い噂が纏わりついている。
もちろんそれが事実かはわからないけれど、火のないところに煙は立たないというし……
何より、昨日初めて話した雨先輩は、無関係の私が見ても、どこか変わっていた。
「ミウ?アメ先輩が、どうしたの?」
「う、ううん……なんでもない!」
俯いてしまった私の顔を覗き込んだユリを前に、慌てて首を横に振る。
教室の窓から見える空は、今日も澄み渡るような青だった。
* * *
「……私って、ホント、ツイてないのかも」
朝、ユリから雨先輩のことを聞いたあと、私は教室の自分の机の中を見て冷や汗をかいた。
─── ない。どこにも、ない。
昨日、担任の先生から突き返された自分の進路表が、机の中を探しても、どこにもないのだ。
腕を机の中に入れたまま、呆然とした頭で必死に進路表の在り処を辿った。
昨日の昼休みに職員室に行き、進路表を突き返されて、屋上に行った。
その時までは確かに進路表は私の手の中にあって、そこから先の行方が─── わからない。
そもそも私は、屋上から進路表を持って教室に戻ってきたんだろうか。……ううん、覚えがない。
ということは、まさか屋上で───
だとしたら、無事なわけがないよ。
だって昨日は、あのあと雨が降った。