フレキシブル・ソウル

パニックになりかけた。

いつからいなかった?

帰ってきた時、私は林太郎のことで頭がいっぱいで、まっすぐ自分の部屋に入って、それきりだった。

もしかしたら、その前からいなかった?


でも、どこへ。

母はもう、だいぶ前から、完全に正気を保っている時間なんて、一日のうちほとんどない。

こんな夜中にひとりで外に出たことも、私の知る限りでは、ない。


靴箱に置いてある現金が消えていた。

母がお金を持たずに人に迷惑をかけるくらいなら、自由にさせておいたほうがいいと、あえて置いておいたものだ。


無駄だとわかってたけれど、玄関を開けて外に出た。

土の上にアスファルトを盛っただけの、細い道路は、すぐ先で闇に消えている。

母がどっちへ行ったかなんて、わかるわけがない。


蒸し暑い、夏の夜だっていうのに。

身体の底から、寒気が駆けあがってきた。





「林太郎、林太郎! いる!?」



このあたりで、鍵をかける家なんてない。

それはこの立派なお屋敷でも同じで、私は足をもつれさせながら玄関に駆けこんだ。

お手伝いさんは離れに帰ってしまったらしく、すぐに林太郎自身の足音が二階から聞こえる。

慌ただしく階段を駆けおりてきてくれた姿が、なんでかすごく嬉しくて、その場に崩れそうになった。



「あっちゃん? なんやの、こんな時間に」



お風呂に入ったらしく、湿った髪の林太郎が、たたきに降りてきて、ぎょっと目を見開く。



「泣いてるんか、どうしたんや」

「ねえうちのお母さん見なかった? いないの、いつからいないのかもわからなくて、あんなんで外なんて出て、どうしよう」

「え、おばさん? のぉあっちゃん、落ち着いてや」

「どうしよう、何かあったら。もしもうあって、私がそれ知らないだけだったら、どうしよう」


話しているうちに、嫌な想像がとまらなくなって、恐怖のあまり、喉がひきつった。

お母さんが、ひとりで怖い思いや、痛い思いをしてたらどうしよう。

私を呼んでるかもしれない。

誰かに邪険にされて、傷ついてるかもしれない。

不安で、泣くこともできずにいるかもしれない。


もしかしたら、もう。

もう。



「嫌だ、お母さん、どうしよう、お母さん」

「あっちゃん!」



鋭く呼ばれて、反射的に黙った。



「大丈夫や、落ち着こ」



な、と林太郎が肩に置いてくれる、その両手の温かさに、我に返る。

顔が涙でぐしゃぐしゃで、全身が震えていることにも、今ごろ気がついた。

ヒノキの香りが漂う、贅沢な玄関のたたきで、林太郎が少し身をかがめて、私の目をのぞきこむ。



「おばさんが、家にいないんやな」

「うん…」

「今朝は、いたんやね?」

「うん」



うなずくたび、涙がぱらぱらと落ちた。

ゆっくりと、丁寧に言って聞かせるような声。



「大丈夫や、僕がいるで、一緒に探そっさ」



林太郎の着てる白いTシャツは、私がやみくもにつかんで引っぱったせいで、すっかりくしゃくしゃで。

布地を握りしめたまま、固く緊張してる私の手を、ほぐすように林太郎は、優しく叩いて、握ってくれる。



「おばさんは絶対、大丈夫や、きっと帰る道がわからんくなってるだけや、見つけてあげよ」



な、と見せてくれる微笑みは、頼もしくて。


大丈夫、とかあんたに言われたって。

林太郎が保証したって、しょうがないじゃん。

林太郎がいたって、事態は変わらないじゃん。


そんな可愛くないことも、思うのに。

優しくて、穏やかな声と。

どうも緊張感に欠けてるように聞こえて、普段は私をいらいらさせることもある、不思議なイントネーションと。

まっすぐな目と、あったかい手が。

涙もとまるほど、安心させてくれた。





「林ちゃん、こっちから入んな」

「猪上(いのうえ)さん、ごめんの、遅くに」



村議員のひとりである、猪上のおじさんが、勝手口を開けて待っていてくれた。



「ふたりとも、おあがんなさい」



奥さんがにっこり笑って、綺麗な薄黄色をした梅のジュースを、グラスに注いでくれる。



「問い合わせてみたんだがな、駅には行ってねえって」

「ほやったら、山のほうかの」

「あっちゃん、お母さんの向かいそうな場所、心当たりねえのか?」



お勝手口に腰をかけて、首を振った。

情けないことに、まったくない。

猪上のおじさんは、力強い手で私の肩を叩く。



「心配すんな、どこかで何かあったんなら、必ず俺の耳に入る。てことは、まだ何も起こってねえってことだ」

「うん」

「林ちゃんの機転に感謝だな、駐在所に連絡したが最後、大騒ぎだ、よりちゃんも帰ってきづらいだろ」



よりちゃんというのは、母のことだ。

近隣の町で育った母は、私を産む時にこの村に越してきた、いわばよそ者だけれど、温かく迎え入れられた。

当時まだ18歳だった母は、猪上さんたちの世代からは、娘みたいなもので。


けど今思えば。

村長の右腕である猪上さんは、もしかしたら、母のおなかの子の父親が誰なのか、最初から知っていたのかもしれない。


「あっちゃん、ひとりじゃ心細ければ、泊まってってもいいのよ」



奥さんの気遣いに、うまく返事ができなかった。

こんな時だっていうのに、事態とは関係のないことで、私の頭は、めまぐるしく回転している。


──この村に、私が村長の娘だと知っている人は、いったいどのくらいいるんだろう。

すなわち、私と林太郎が兄妹だと、知っている人は。



「猪上さん、僕ら湖のほう回って、いったん帰るわ、あこやったら、そう危なくないし」

「気をつけるんだぞ、俺もあちこち、探してみる」

「何かわかったら、僕の携帯に連絡くれる?」



任せとけ、と猪上さんは請けあって、私たちを見送るのと同時に、自分も自転車で逆方向へと向かった。

村のはずれにある湖は、地域の水源でもあり、夏祭りの舞台でもある。

秋の終わりになれば白鳥が群れをなしてやってきて、ここで冬を越していく。


湖畔の広場には、祭りに向けて組まれはじめた足場が、月明かりを背に浮かびあがっていた。

林太郎が照らす懐中電灯の丸い光の中を、イタチか何かがさっと横切る。



「いないみたいやな」

「そうだね…」



岸辺の傾斜が浅いため、湖は水たまりみたいにゆるやかに始まっている。

誤って落ちるような場所じゃない。

茂みや建物の陰もくまなくのぞきながら歩いたけれど、母の気配はなかった。


くたくたになって家の前まで戻ってきた時、林太郎が遠慮がちに切り出した。



「あっちゃん、よかったら、僕んち来ん?」



じっと見あげる私に、早口でつけたす。



「その、ひとりやと、心細いやろ、ほやって」



あっちこっちに視線をさまよわせながら言う林太郎を見て、ああ、と思った。

私たち、こんなに離れたんだ。

林太郎が遠くに引っ越すまでは、お互いの家を好きに行き来して、しょっちゅう泊まって、同じ布団で寝た。

もっと小さい頃は、お風呂だって一緒に入ってた。


でも林太郎が村に戻ってきた時には、お互い中学生だったこともあって、そんなつきあいではもちろんなくなっていて。

でもやっぱり、お向かいさんで、幼なじみで。

外の子たちと比べたら、一番近い存在だと思うこともあるし、けど小学校時代をまったく一緒に過ごさなかった欠落もある。


今じゃもう。

家に来いってひと言に、こんなに緊張する始末。



「でも、おじさん、いるんでしょ」

「ううん、今日は帰ってこんで」



不思議なことに私は、林太郎のお父さんが、昔からひそかに苦手だった。

声も身体も大きくて怖かったのもあるし、林太郎と全然似ていないので、どう接したらいいかわからなかったのもある。

だから、いないと聞いてほっとしたのもつかの間、てことはふたりっきりってことじゃん、と気づいた。

目が合った林太郎は、暗がりでもわかるほど赤くなる。



「別に、変なつもりや、ないで、大町(おおまち)さんやって、いるし」

「わかってるよ」



大町さんていうのは、お手伝いさんだ。

離れに住んで、昔からあの一家の面倒を見ている。



「でも、やっぱりいい」



首を振ると、林太郎はほっとしたような、でもやっぱり少し、傷ついたような顔をした。



「ほうか」

「林太郎が、うち来てよ」



え、と目を丸くする。



「お母さんが帰ってくるかもしれないから、私はうちにいないと。だから林太郎が来て」



夜は、心をさらけ出せる時間帯らしいから。

私も少しくらい、本音を出したって自分を許せるだろう。

今、ひとりになるのは嫌だ。

無益に最悪の事態ばかり想像して、最後にはそんな自分に嫌気がさすに決まってる。

じっと返事を待つ私を見ながら、林太郎は少しの間、顔に戸惑いを浮かべて。

やがて優しく、私を安心させるようにうなずいた。



「わかった」





真面目な林太郎は、一度家に帰った。

高校生の男子が、向かいの家に外泊するのに、いちいちお手伝いさんに伝言なんてするなよ、とあきれもするけど。

その律儀さと気遣いが、らしいといえばらしい。


リビングで林太郎を待った。

時計を見ると、ちょうど日付が変わったところだった。

なんとなく携帯をとり出して、サンクスノベルズをチェックしようと、ブラウザを起動させる。

更新があったことを示す数字に、こんな時ですら気分が高まった。


偶然にも、最後のカキコがついさっき行われたところなのが、タイムスタンプからわかった。

“管理人”と何かを共有できたような気分で、最新のカキコを開き。

読み進めるうちに、私は自分の目が信じられなくなった。



「ごめん、遅なって」



林太郎がリビングに駆けこんできた時も、携帯から目を離すことができずにいた。

あっちゃん? とそばに寄ってくる気配がする。



「お腹減ってるやろ、大町さんが、持たせてくれたで」

「ねえ、これ、お母さんじゃないかな」

「え?」



風呂敷包みをローテーブルに置いた林太郎が、携帯をのぞきこんだ。

時間をかけてそれを眺めてから、慎重な声で言う。



「…おばさん、こういう服、持ってるんか」

「持ってる、花柄の水色のマキシワンピ、最近気に入って、よく着てるの」



林太郎は賢くも、サンクスノベルズ自体について、何も訊かなかった。

これはなんだとか、誰が書いてるんだとか、今はそういうことを話す時じゃないって、私の雰囲気から感じとったんだろう。

携帯を持つ手に、力が入った。

最新の小説は、不思議な女性に遭遇した、あるドライバーの話だった。

その人は、大きな鳥居のそばで、ふわふわと漂うように歩く、女の人を見つける。

炎天下、日傘も持たず、帽子もかぶらず、だけど楽しげにひとり歩く女性に、ドライバーである男性は声をかけた。



『どちらへ行かれるんですか』





くるんと振り返った女性は、透きとおるような白い肌に、可憐な顔立ちで、現実のものではないように思えた。

ドライバーの心音が高鳴ったのが、トワにはわかった。

女性は小鳥のように首をかしげ、訊き返す。



『ごめんなさい、なあに?』

『いや、どちらへ行かれるのかなと。同じ方向なら、乗りませんか、暑いでしょう』



言ってから、変な誘いと勘違いされたらまずいと思ったのだろう、慌てたドライバーをよそに、女性はふわりと右手をあげて。

延々とまっすぐ続く道の先を、ぼんやりと指さした。



『あっちのほうへ、行くんです』

『山の上ですか?』

『歩いて行きます』



とんちんかんな答えに戸惑う。

女性はにっこりと微笑んで、車の窓から離れていった。



『こんなにいい天気なんだもの、でも気にかけてくれて、ありがとう』



真っ白な腕を、日光を抱きしめるみたいに広げて。

またふわふわと歩き出した彼女を、夢を見ているような心地で、ゆっくりと追い抜かしたドライバーが。

ふとバックミラーをのぞいた時には、女性の姿は、どこにもなかった。






夏の日のメルヘンて感じの一幕だ。

これを母だと思ったのは、日付と女性の特徴が一致したからってだけじゃない。

ノベルの中にある、鳥居の描写のせいだった。


“横木の上に、三角屋根のある、一風変わった鳥居”


「合掌鳥居やな」

「だよね、これって全国でも、そう多くないんでしょ」



林太郎がうなずく。

この地域ではポピュラーな鳥居の形状で、笠木の上に、木材が手を合わせているみたいな、三角の装飾がある。



「まっすぐな道にあって、車で“下を通過”できるくらい大きな合掌鳥居っていったら」

「あこやな、山道の入口の、大鳥居」



やっぱりそう思う? と食いつく私の横で、林太郎が携帯をとり出した。

手早く番号を呼び出して、猪上さん? と呼びかける。



「僕やけど、山王さんへ続く道、あるやろ、そこに行ってほしいんや」

「ちょっと林太郎、まだ、ほんとかどうかもわかんないのに」



慌てる私を片手で制して、林太郎は冷静に話をつけて、電話を終えた。



「僕らが行くには遠すぎるで、まずは、車で向かってもらお」

「でも、いきなり消えたとか、この話、どこまで本当か」



林太郎は笑いもせずに、首を振る。



「ミゾやと思う」

「え?」

「あの道の両端には、深い側溝が走ってる、おばさん、たぶん、そこに落ちたんや」

「あっ…」



血の気が引く思いがした。

そうだ、なんで思いつかなかったんだろう。

あの道には山からの水を逃がすため、大人の背より深い側溝が掘られて、草に隠れてる。

近隣の子供が、小さな頃から、絶対に近づいちゃいけないと教えこまれる場所だ。



「それで、消えたように見えたってこと…」


あの深さに落ちたら、どのくらいのケガをするんだろう。

ノベルどおりのことが起こったんだとしたら、日のあるうちに落ちたってことだから、最悪もう、半日近くもあの中にいる。

ぞわぞわと、パニックの気配が肌を駆けのぼってきて。

あっちゃん、という林太郎の声に、かき消えた。



「食べよっせ」



いつの間にかテーブルに並べられた小ぶりのお重には、お稲荷さんとおにぎりが並んでいる。

手を出せずにいると、ん、とひとつを突きつけられた。



「おばさんが見つかったら、駆けつけてあげんとあかんのやで、あっちゃんがしっかりしてえんくて、どうするんやって」



たしなめるような、諭すような。

そんな口ぶりに、私は今、自分がひとりじゃないことに、ものすごく感謝したくなった。

この不安を、ひとりきりで抱えずに済んだことに。


涙と一緒に食べるお稲荷さんは、残念ながら味をほとんど感じなかったけれど。

温かいごはんが、大丈夫や、という林太郎の言葉を、後押ししてくれているような気がした。





やけにまぶしいと感じた。

目の前に伸二さんがいた。

はっと身を起こすと、隣で身じろぎする気配があって、見れば林太郎だった。

どうやら病院の待合室のソファで、寄っかかりあって寝てしまったらしい。

少し離れたところに座っている伸二さんは、明るい声で言った。



「俺を呼べばよかったのに。お前の母親に、まだ“予定”はない。訊いてくれたら、すぐに教えたのに」

「…命を落とすばかりが、最悪の事態じゃないでしょう」



なんで私のほうが負け惜しみみたいになってるんだ。

まだ眠気の残る頭で、なんとか言い返した。


確かに今思えば、伸二さんに頼ることを思いついてもよかったはずで、それが頭からすっぽ抜けてたことに驚く。

泣きながら林太郎に助けを求めたのが、今さらながらに恥ずかしく、ついでになんか悔しい。


私が体勢を変えたせいで、支えをなくした林太郎の頭が、ことんと肩に落ちてきた。

いつの間にそうなったんだか、私たちは手を繋いでる。

今離したら、林太郎を起こしてしまいそうで、できない。