「…それは、あなただけの番号ですか」
「まさか。このエリアに42番めに配属されたってだけだ。配置が変われば変わるし、前があけばくり上がる」
くり上がる。
自分より番号が若ければエリア内での先輩で、大きいほど新参者か。
なるほどね、とわかりやすいシステムに納得しかけて、それが意味することにふと、目の前が暗くなった。
くり上がるのは、先に配属された死神が、仕事を終えたからだ。
すなわち、誰かの命が終わったからだ。
「くり上がったら、名前も変わっちゃいますね」
「安心していい、ひとつの仕事の間は、番号は保持だ。きみたちが混乱するから」
「そんなにくるくる変わる名前なのに、気に入ってるように見えますが」
「当然だろう」
まだ遠慮なく荷台に座ったままの死神は、長い脚を組んで胸を張る。
「今、このエリア内に、42号という担当者は、俺だけなんだぞ」
「…それがそんなに、誇らしいですか?」
ぽかんとすると、死神もぽかんと目を丸くした。
「自分だけの番号だぞ?」
「でも、今だけのものでしょう?」
「たとえ今だけでも、俺だけのものなんだぞ。それを誇りに思えないんなら」
――きみたちの誇りとは、いったいなんだ?
■
そこそこ持っている本に服にCDに、音楽データ。
ゲーム機もソフトも、いつもみたいに私の時間をつぶしてはくれなかった。
部屋のベッドに仰向けになって、なんだか空っぽだと思った。
何ひとつ、私だけのものなんてない。
本だって服だって、同じものを持ってる人が山ほどいる。
写真は?
写真はどうだろう。
いやあれも、ただのデータだ。
いくらでもコピーできて、気に入らなければ消して。
私だけのものなんて気、全然しない。
伸二さん、笑ってごめんなさい。
あなたの名前は、確かに唯一です。
ああ、それを言ったら、私の名前は変わってるから、フルネームならもしかして、自分だけのものかも。
目立つし男みたいだし、大嫌いだったこの名前。
こんなものしか今は、手元に残らない。
「あーちゃん、帰ったのお?」
「起きた? 今ごはんつくるよ」
「いらない…食欲ない」
開けっぱなしのドアの向こうを、ふらふらとおぼつかない足取りの影が通りすぎた。
危なっかしいなと思い、ベッドを飛びおりて追いかける。
さっき綺麗にしたばかりのダイニングにウイスキーの中身を点々とこぼしながら、母親はご機嫌に歌っていた。
「あーちゃん、今日も可愛いわねえ、私にそっくり」
「はいはい、何か食べたほうがいいよ、せめて牛乳かお豆腐くらい、食べない?」
「湯豆腐!」
突然ひらめいたように、大げさに両手を広げて叫ぶと、楽しくなってしまったらしく、キャハハと笑う。
その自制心を感じさせない、唐突な大声は、母のゆらゆらと安定しない心を如実に表していた。
こういうのもキッチンドランカーっていうのかな?
家中ふらふらしてるから、別にキッチンにばかりいるわけじゃないんだけど。
冷蔵庫を確認すると、あるものでできそうだった。
湯豆腐なら、たいして時間もかからない。
座ってて、と無駄と知りつつ声をかけると、やっぱり母は、はーいと返事だけして、あちこちぶつかりながらダイニングを出ていった。
季節外れすぎて白菜がなかったので、かわりにキャベツ。
豚肉だとキャベツの甘みとケンカしそうだから鶏の薄切りにして、ポン酢でさっぱり食べよう。
手早く仕上げて食卓を整える頃には、母はリビングのソファで寝息をたてていた。
小さな音でテレビを見ながら、母の隣でひとりで食べた。
このクソ暑いのに湯豆腐って。
でも暑い時に熱いものって、実は健康にいいんじゃなかったっけ。
そんなくだらないことを考えて、母の寝顔を眺めた。
18で私を産んだ、年若い母。
まだ36歳なのに、何年もアルコールに侵された顔は、もっとずっと上に見える。
なんでこんなになりながらも、毎日メイクはちゃんとしてるのかなあ。
服だって不思議といつも流行りのものを身に着けてるし、女心ってすごいなあ。
ていうか、いつ外出してるんだろう。
「これは“未練”か?」
「うわあ!」
ガチャンとお取り皿をとり落とした先に、たまたまグラスがあって、派手な音と共に中身をぶちまけた。
同じソファの、母の向こう隣にゆったりと腰かけた伸二さんは、それを見て笑う。
「騒々しい家だ」
「誰のせいだと」
「だがにぎやかではない」
「…慣れない言語でちょっとうまいこと言ったからって、そこまで得意げな顔しないでください、ていうか、靴」
ぴしゃりと言うと、彼は不満げに顔を曇らせ、少し顎を動かしただけで、足の先からスニーカーを消した。
「褒めても罰は当たらない」
「靴を忘れてこなくて偉かったですね」
「靴の話じゃない」
完全にすねた様子で、母の飲み残しのウイスキーに口をつけて、うえっと顔をしかめる。
「未練て、なんですか」
「辞書を常に手の届くところに置いている家の子供は、頭がよくなるらしいぞ」
「ありますよ、そこの棚に。引きたきゃどうぞ、意味は知ってます」
「いやに攻撃的だな。未練とは、言葉どおりだ。俺はそれを解消するためにいる」
そうだ、と唐突に人見さんが立ちあがった。
母が一瞬の隙に散らかしたリビングを、音もなく歩き回りながら、手振りをまじえて朗々と語る。
「まだ説明していなかったな。俺の仕事は、きみが満足して人生を終える手助けをすることだ。未練の解消しかり、終末の演出しかり」
「演出?」
「何かあるだろう、人目につかないところでとか、もしくは報道されるくらい派手にとか」
「…死にかたってことですか」
「直截に言えば、そうだ。俺はそれを、きみの希望どおりに仕立てあげる、いわばプランナー兼プロデューサーだ」
窓辺で振り返ると、ぴっと私を指さして、にこりと笑う。
…死神の仕事って、そんな軽い響きでくくられるものなのか。
名刺くださいと言ったら本当にくれそうなので、やめておくことにした。
「母は、未練じゃないです」
「そうか、何よりだ」
私がいなくなるくらいのショックは、むしろ母が立ち直る、いいきっかけになってくれるだろう。
誰かが母に、やんわりと私の事情を伝えてくれて、しばらく面倒を見てくれれば、の話だけど。
「そのあたりは心配ない。事前に言ってくれさえすれば、事後のことも少しは請け負える」
「私、父親が誰だかわからないんです」
「そうか、きみの父親は、この村の村長だ」
だし汁で濡れたラグを叩く手がとまった。
かなりの重大事のつもりで言ったんだけど。
そんなあっさり。
「…村長が、母と? ってことですか?」
「ってことだ。まあ当時はただの村職員だが。高校を出るか出ないかのきみのお母さんをカドワ・カシ・タ。ん?」
「たぶらかした?」
「それだ」
自信がないなら翻訳しないでほしいな、と誰にともなく悪態をついて、伸二さんは窓のカーテンを指で揺らした。
はす向かい、といっても間にぶどう園があるので、そこそこ距離があるけれど、そこに村長の邸宅はある。
たわわに実ったぶどうと葉のシルエットの向こうに、贅沢な玄関の明かりが見える。
ひとりで私を産んで、育てた母。
と思ったら、父親はこんな近くにいた。
去年、村をあげて村長の還暦のお祝いをしたから、母とそういうことになった時は、えーと、42歳とか43歳とかってことか。
うんまあ、あの村長なら、わからないでもない。
精力的で活力にあふれて、リーダーシップがあると言えば聞こえはいいけど、とどのつまり、ただのワンマン親父。
気に入らない職員は飛ばし、当然のように村内のお店では飲み代を払わない。
横暴な嫌われ者の偏屈親父。
弥栄杉久(やさかすぎひさ)村長。
林太郎の、お父さん。
「他に未練は? きみの担当である限り、きみの周辺事情を俺は入手することができる。なんでも提供する」
ひとつ小さな仕事をしたせいか、晴れ晴れとした顔で伸二さんが笑う。
私はなんだか、急激にくたびれて、のろのろと首を振るのがやっとだった。
「これまでどおり、普通に暮らしたいです」
結局、そういう人は多いんだろう。
でも伸二さんは、それを口に出さずにいてくれた。
優しく微笑んで、うなずくだけで。
お前は最後の最後まで他の誰とも変わらない、つまらない平凡な存在だなんて、言わずにいてくれた。
静まったリビングに、テレビの絞った音と、母の軽いいびきが響く。
伸二さんが気持ちよさそうに薄く開けた窓から、林太郎の部屋の明かりが見えた。
ねえ林太郎。
私たち、兄妹なんだってさ。
血が繋がってるんだって。
家の前の道で、林太郎と遭遇した。
林太郎は眠そうに目を細め、おはよ、と笑う。
「そっち、こんな時間で間に合うの?」
「んー、寝坊しつんた」
「ならさっさと行きなよ」
ほやな、とうなずいておきながら、急ぐ様子も見せず、私と並んで自転車をこぐ。
進学校でしょ、遅刻したら怒られるんじゃないの、なんてわざわざ言わないけど。
対向から来た軽トラックが、大げさに林太郎の自転車をよけて、のんきなクラクションを鳴らした。
「危ないぞおっ、林ちゃん」
「ごめんのぉ」
村のおじさんだった。
仲よくなー、と窓から手を振って去っていく。
「あっちゃん、昨日言ったの、考えてくれた?」
「昨日って?」
「夏休みの話、したが」
ああ…と自転車のカゴの中で弾むバッグを眺めた。
なんて言えばいいんだろう。
たぶんその頃には、私はもうこの世にいないんだよね、なんて言ったところで、誰が信じるよって話なわけで。
「ごめん、やめとく」
「忙しんか」
「わかんないけど」
林太郎は少し黙って、ほうなんか、と残念そうに言った。
柔らかそうな髪がさらさらと、風に揺れる。
今日も朝から青い空、白い雲、ぎらつく太陽。
お昼ごろにはきっと、立っているだけでやけどできるくらい気温が上がるだろう。
「夏祭りは、行くん?」
「いつだっけ」
「来週の今日や」
頭の中で、指を折って数えた。
来週の今日ってことは、私が伸二さんに会ってから、九日目にあたる日だ。
──だいたい一週間から10日くらいの間かな。
「…微妙だな」
「予定、あるんか」
「いや、うん、予定というか、まあ」
…予定だね、と目を泳がす私に、林太郎が首をかしげた。
「どっちやの」
「読めない日ってあるじゃん」
「ちーちゃんは? 去年ふたりして、来年は絶対彼氏と来るって豪語してたが」
「智弥子だけでしょ、私はそんなこと言ってない」
「ほやったっけ」
「ほやったよ」
伝染った。
林太郎が、白い歯を見せて笑う。
こういう顔すると、小さい頃の面影が濃く出て、私の胸はどうしてだかぎゅっとつかまれたように痛む。
駅前の信号につかまった時、のぉ、とふいに林太郎が、私の自転車のハンドルに手を置いた。
重みで自転車ごと少し、そっちに傾いた。
「もし、行けるようなったら、僕と行こっさ」
熱い指が、わずかに私の手に触れる。
照れくさそうに微笑んで、だけどまっすぐに私をのぞきこむ、善良な坊ちゃんの瞳。
せっけんの匂いがした。
「…林太郎さあ」
「ん」
「私が死んだら、泣く?」
一重の、和風の目がまばたきをする。
たぶん唐突な質問に戸惑ってるのと、誘いをはぐらかされたのとで、傷ついたような表情を浮かべて。
それでも律儀に考えこんでから、わからん、と首を振った。
「泣かないかもって意味?」
「違うわ」
のぞきこむようにして、私と視線を合わせる。
こいつ、こんなふうにしないと目線が並ばないくらい、背が伸びてたんだ。
「泣くくらいで済むんやったらいいなあって」
恥ずかしそうに、その顔がほころんだ。
「ほういう意味や」
ハンドルに置かれた手が、かすかに動いた。
手を握られるのかと一瞬緊張した。
けど林太郎は、遅刻や、と今さら慌てだして。
信号が変わるなり、ほなの、と言い残して猛スピードで先に行ってしまった。
耳が赤くなってるのが見える。
サッカークラブの練習がある日らしく、背負ったスポーツバッグが重たげに揺れてる。
林太郎、ごめん。
ごめんね。
私たち、兄妹なんだよ。
血が繋がってるの。
「何を泣いてる」
「泣いてません」
なんだってこんな、一番会いたくないタイミングで。
げんなりしたところに、ふっと影が差し、顔を上げると、伸二さんが自転車のカゴにとまっていた。
「何を笑ってる」
「鳥みたいだなって思って」
「俺はそんなに忘れっぽいか」
「トリ頭と言ったわけではありません」
ここまで来ると、翻訳機能のミスなのか伸二さんの語力の限界なのか、もはやよくわからない。
彼は、そうか、とあっさり納得し、ふわりと浮いて、次に気づいた時にはうしろの荷台に座っていた。
「よく眠れたか」
「そんなわけないでしょう、出しますよ」
「何をだ?」
「自転車をです」
マジックか、と嬉しそうに手を叩く。
「発進しますよって意味です」
「なんだ」
急につまらなそうになった伸二さんは、重さも感じさせないのに、自転車の出発に合わせて揺れるという凝った芸当を見せた。
うしろ向きに座って、遠慮なしに私に寄りかかり、今後について何か希望はないかと訊いてくる。
「特に思いついてないです」
「そうか」
「伸二さんたちは、全部の生き物に対して、その、仕事をするんですか?」
いや、と温かい背中が言った。
「終わりに納得を求めるのは、ヒトと一部の動物だけだ、俺たちが担当するのは、そういう生き物だ」
「一部の動物っていうのは、犬とかですか」
「そうだな、賢い個体や、人間と長く過ごしたりした動物は、何か手を打ってやらないといけないことが多い」
「成仏できないってことですか」
「そう、ジョーブツだ。これができないと、魂が還元されず、ひたすら漂うことになる」
還元ってのは、生まれ変わるってことだろうか。
疑問を口に出した覚えはないのに、近い、と伸二さんがうなずいた。