向こうにとってはいらない情報かもしれないけれど、これもひとつの出会いだと思い名乗ると、死神が足をとめて目を丸くした。
私をじろじろと上から下まで眺めて、なあんだ、とひとりで納得する。
「女だったのか」
「え?」
彼はつかつかと歩いてくると、やけに友好的な調子で右手を差し出した。
「探してたんだ、よろしく」
条件反射で、その手を握る。
思わず安心してしまうような、わずかに温かい乾いた手。
「よろしくって…」
「まあ、だいたい一週間から10日くらいの間かな。俺もそんなに腕の劣るほうじゃないから、安心していい」
はあ、と呆然とあいづちを打つ私を、気楽な声が元気づける。
「この年頃の子は珍しい。精一杯いい仕事をさせてもらう」
「…あの」
「“アノ”は、俺にはわからない」
「今の話は、こういう理解でいいですか。つまり私は、あと一週間かそこらで死ぬと」
「そのとおりだ、一緒に頑張ろう」
「あなたは本当に、死神なんですね」
彼は握った手にぎゅっと力を込めると、水臭いな、とにこっと笑った。
「伸二でいい」
駅のシンボルであるけやきの巨木から、蝉の声が一気に噴き出す。
何の変哲もない、7月のある酷暑日。
私は突然に、自分の寿命を知った。
翌朝目を覚ますと、世界はきらきらと輝き、かけがえのない宝物のように見えた。
なんてことはなかった。
別に私の感覚が鈍いとか、死への恐怖が薄いとかいうわけではなく、かといってハートの強さを自慢したいわけでもない。
単に眠れなくて、ゆえに目を覚ましもしなかっただけだ。
ひと晩中、携帯を充電ケーブルに繋いでサンクスノベルズを読んでいた。
昨日はカキコがなく、小説も更新されなかったので、これまで書かれたぶんをくり返し、くり返し。
――トワは唐突に生まれた。
これがノベルズの冒頭だ。
この他にトワに関する説明らしい説明はいっさいなく、ただ彼は“ありがとう”という言葉に対してだけ反応する自分に気づく。
トワが最初に出会う“ありがとう”は、怪我でサッカーチームから離脱した男の子がつぶやく言葉だ。
病院のベッドに届けられた、自分の背番号入りの新ユニフォームを抱きしめて。
見捨てないでくれてありがとう。
信じてくれてありがとう。
その瑞々しい感謝の心はいかにも男の子という感じで、私が管理人を“彼”と呼ぶのも、そのためだった。
一番最初に書かれたこのエピソードは、管理人自身の記憶なんじゃないかと思ったからだ。
その後、数日を経て、掲示板にはいくつかのエピソードが書きこまれる。
こんな離れ小島になぜ、と思い検索してみたところ、管理人はそこそこいろんなところに、カキコを促す投稿をしていた。
と言っても「トワは“ありがとう”を探しに旅立った」という謎めいた一文と、掲示板へのリンクだけだ。
勘のいい人たちが書きこみはじめ、じわじわとエピソードは集まっていった。
それを管理人は少しずつ肉づけしたり脚色したりしながら、小説にしていった。
「新ぁ、変なもん教えないでよ、徹夜しかけたじゃん」
「ハマるでしょ」
登校するなり智弥子が眠たげな声で迎えてくれた。
その顔は確かに寝不足らしく、メイクでも隠しきれないクマがくっきり目の下に見える。
「トワがかっこいい、いじらしくて可愛い」
「やっぱり智弥子も、トワを男の子だと思ったんだ」
指摘すると、えっと大きな目が見開かれた。
「そう書かれてなかった?」
「どこにも書いてないよ。でも私もそういう気がしてる」
そしてそれはたぶん、管理人自身を男の子だと感じているのに由来している。
なんとなく、トワは管理人の分身のような、自分を投影した存在なんじゃないかと思えるから。
「男ってだけじゃなくて“男の子”か、言われてみれば確かに」
「まあ、わかんないけどね」
性別がどちらかわからない場合は“he”だと習ったせいで、つい“彼”と心で呼ぶうち、自然と男性だと思いこんだだけかも。
それにトワの生まれたてのイメージが重なって“男の子”になったってだけかもしれない。
よほどじっくり読んだのか、徹夜しかけてもなお智弥子はノベルスを読破していないらしく、今夜の楽しみができたわーといそいそと自分の席へ戻っていった。
「やあ、待たせたな」
「待ってませんし、待ち合わせた覚えすらないです」
人見さん、ととりあえず呼ぶことにした死神は、今日は正しく靴を履いていた。
私の視線に気づいたらしく、裏門の外に立っていた彼が、ハイカットのスニーカーの脚を掲げて満足げに微笑む。
「昨日、教えてくれたから」
「こっちのルールに慣れてるのか慣れてないのか、はっきりしてほしいです」
「忙しくて、時々混乱するだけだ」
「忙しいったって、基本はこっちにいるんでしょう?」
「俺たちが自席でのデスクワークを免れてるなんて、誰が決めた」
そんなこと言ってないし、自席ってどこよ。
心外そうに声を荒げられ、こっちこそ心外だと思っていたら、周囲の生徒たちからの視線に気がついた。
思わずセーラー服の脇のファスナーを確認してから、はっと思い当たる。
「人見さん、私以外には、本当に見えてないんですね」
「人見って奴は多いから、伸二と呼んでくれたほうが助かる」
「人見なんて苗字の人、そんなに知りませんよ」
「“人”の話なんてしてない」
…死神の話ってこと?
とりあえず話の続きは人目につかないところでしようと、自転車を押しながら、私はいったん口をつぐむことにした。
横を歩く死神は、今日も白いTシャツにジーンズだ。
平均身長の私は、少し見あげるようにしないと目を合わせて話すことができない。
整った顔立ちだけど、目を引くほどかと言われるとそうでもなく、かといって断じて地味ではない。
外見からは、職業にふさわしいおどろおどろしさとか暗さなんて、いっさい感じられない。
しいて違和感をあげるなら“黒すぎる”髪と瞳だろう。
彼の漆黒の髪と瞳は、じっと見ていると時折、表面がちらっと虹色に輝く。
地面に漏れた車のオイルみたいな、あんな感じに。
それだけが唯一、彼が確かに普通の人間じゃないのかもと思える要素だった。
駅前のコーヒーショップで、キャラメルシロップ入りのドリンクを買った。
いるかと訊いたらいらないと言うから私のぶんだけ買ったのに、店舗を出た死神は、やけにじろじろと手元を見てくる。
「…飲みます?」
「いつ礼儀を思い出してくれるのかと思ってたんだ」
差し出すと、ほがらかにそう言って、当然のように受けとった。
駅ビルを抜けて、裏手の神社に行こうとしていた私は、これって礼儀だったっけと首をひねる。
上から目線のわりに、子供みたいににこにこして、死神は一気にそれを飲み干した。
「ちょっと」
「返そう」
ぽいとほうるように渡されたプラスチックのカップは、元どおりなみなみとドリンクで満たされている。
狐につままれたような気分でそれを受けとると、死神が「俺には甘すぎる」と舌なめずりをしながら不満げにぼやいた。
「減ってませんが」
「俺たちがここの食物を摂取できるわけないじゃないか」
「でも、甘すぎるって」
「"体験"することはできるんだ」
わかるようなわからないような。
土埃が木漏れ日にきらめく境内の中は、予想どおりひんやりと涼しかった。
日光を遮る木々のせいもあるだろうけれど、やっぱりこういう場所は、暑さを忘れさせるような、特有の空気が流れていると思う。
と考えて、はっとした。
「俺たちを"神"と呼ぶのはこの国くらいだ。実際はただの労働者だから、別にこういう場所もなんともない」
「よく考えてることがわかりましたね」
「十字架を向けられたり、念仏を唱えられたりは、日常茶飯事だからな」
神聖なものに触れると頭がキーンとするとか、いきなり苦しみはじめるとか、そういうのもちょっと期待したんだけど。
死神はどこ吹く風で、木の上のカラスに威嚇されている。
「カラスとは折りあいが悪いんですか」
「何ぶつぶつ言ってるんやし」
突然の声に、ドリンクを落としそうになった。
はっと振り返ると、同じく自転車を押しながら、不思議そうに眉をひそめている男の子の姿があった。
「なんでチャリ乗らんの?」
「あ、あんたこそ」
あせりのあまり、声が必要以上にきつくなった。
弥栄林太郎(やさかりんたろう)は、ちょっと傷ついたように言葉を切る。
お坊ちゃん高校の、真っ白なシャツと紺のパンツがきりりと爽やかで、いつもならイラっと来るところなんだけど、今日はなんだか、そうでもなかった。
「ついて来たの?」
「だってひとりやのにずっと押してるで、なんか変やったで」
「乗るよ、乗る乗る」
「何怒ってるん」
「怒ってないよ!」
「どう見たって怒ってるが!」
じゃあ怒ってるってことでいいです!
ああもう、結局こうだ。
林太郎はいわゆる幼なじみだ。
ていうか狭い村だから、近所の子みんな幼なじみみたいなもので、智弥子も今は隣町に引っ越してしまったけど、同じだ。
というわけでごくごく小さい頃は、しょっちゅう一緒に遊んでた。
小柄で華奢で病気がちだった林太郎は、私のあとを必死でくっついてまわっては怪我をしたり熱を出したり、可愛かった。
ふと横を見ると、死神が難しい顔をして、じろじろと林太郎を見ている。
おおかた林太郎の言葉がデータベースにないとか、キャッシュがなくてすぐに出てこないとかそんなとこだろう。
林太郎は当然、視線どころか死神そのものにも気づかず、むっと口を閉じたまま、自転車に手を置いている。
少し曇ったその顔は、いつも感心するくらい純和風で、短く切られた髪は、さわるとびっくりするほど柔らかいのを私は知ってる。
小学校に上がる前、こいつはなんでかお母さんと実家で暮らすことになり、当時は果てしなく遠く思えた、西の土地へ引っ越していった。
中学に上がる頃に戻ってきて、その時にはもう、こんな喋りかたになってた。
誰だこいつと思った。
背も伸びて。
声も低くなって。
よくわからない言葉喋って。
骨とか筋肉とか、普通に男の子で。
地元のサッカークラブとか入っちゃって。
「なんかあっちゃん、ちょっと久しぶりやね」
なのにあっちゃんとか、そんなとこだけ昔のまんまで。
気の弱そうな微笑みとかも、変わってなくて。
「あんたが毎日遅いからでしょ」
「最近は、ほうでもないで。僕んとこ、試験やったで」
あっそ、と自転車にまたがり、その場を去ろうとした。
林太郎の前だと、なんでか憎まれ口ばかり出てくるから、そうなる前に逃げたかったのだ。
なんせ私は、あと一週間ほどでいなくなるわけで。
それなのにわざわざ林太郎を不快にさせたところで、申し訳ないような気がするわけで。
ドリンクのカップをカゴにほうりこみ、境内の奥から抜けようとペダルを踏むと、あっちゃん、と呼びかけられた。
「母さんが会いたがってるで、夏休み、どこも行かんのなら、一緒にあっち、帰らん?」
どくんと心臓が鳴った。
息ができないのを悟られないように、懸命に自転車をこいで社の裏まで一気に走り抜けた。
林太郎、帰るってどこによ。
あんた、どっちの人間よ。
林太郎のお母さんは、林太郎と一緒に村に帰っては、こなかった。
今でも遠くの実家で暮らし、何かにつけ林太郎も、はるばる会いに行ったりしてる。
奴のあの言葉がいつまでたっても戻らないのは、そのせいだと私は思ってる。
優しくて綺麗で、大好きなおばさんだった。
ずっと会ってない、私だって会いたい。
でもね、林太郎。
私に夏休みは、来ないんだ。
「あれは“未練”か?」
「わあっ!」
突然荷台がずしりと重くなり、ハンドルをとられて激しく蛇行した。
タイヤが土の上を滑る音がする。
「脅かさないでよ、人見さん」
「その苗字は1-3というエリアナンバーの当て字だ。1が国、3が県、このあたりの同僚は全員人見だ。伸二と呼んでくれ」
さんざんよろめいた自転車が危なっかしく停止すると、荷台の重みはふっと消えた。
まだ死神は、優雅にそこに横座りしたままなのに、だ。
「なんで日本が1なんですか?」
「去年の平均寿命ランキングだ」
「…意外に俗な基準ですね」
「WHO調べだぞ?」
「データの信憑性を疑ってるわけじゃありません。もしかして、伸二も当て字ですか」
そのとおり、と偉そうに死神がうなずき、42号だ、と誇らしげに言う。
「…それは、あなただけの番号ですか」
「まさか。このエリアに42番めに配属されたってだけだ。配置が変われば変わるし、前があけばくり上がる」
くり上がる。
自分より番号が若ければエリア内での先輩で、大きいほど新参者か。
なるほどね、とわかりやすいシステムに納得しかけて、それが意味することにふと、目の前が暗くなった。
くり上がるのは、先に配属された死神が、仕事を終えたからだ。
すなわち、誰かの命が終わったからだ。
「くり上がったら、名前も変わっちゃいますね」
「安心していい、ひとつの仕事の間は、番号は保持だ。きみたちが混乱するから」
「そんなにくるくる変わる名前なのに、気に入ってるように見えますが」
「当然だろう」
まだ遠慮なく荷台に座ったままの死神は、長い脚を組んで胸を張る。
「今、このエリア内に、42号という担当者は、俺だけなんだぞ」
「…それがそんなに、誇らしいですか?」
ぽかんとすると、死神もぽかんと目を丸くした。
「自分だけの番号だぞ?」
「でも、今だけのものでしょう?」
「たとえ今だけでも、俺だけのものなんだぞ。それを誇りに思えないんなら」
――きみたちの誇りとは、いったいなんだ?
■
そこそこ持っている本に服にCDに、音楽データ。
ゲーム機もソフトも、いつもみたいに私の時間をつぶしてはくれなかった。
部屋のベッドに仰向けになって、なんだか空っぽだと思った。
何ひとつ、私だけのものなんてない。
本だって服だって、同じものを持ってる人が山ほどいる。
写真は?
写真はどうだろう。
いやあれも、ただのデータだ。
いくらでもコピーできて、気に入らなければ消して。
私だけのものなんて気、全然しない。
伸二さん、笑ってごめんなさい。
あなたの名前は、確かに唯一です。
ああ、それを言ったら、私の名前は変わってるから、フルネームならもしかして、自分だけのものかも。
目立つし男みたいだし、大嫌いだったこの名前。
こんなものしか今は、手元に残らない。
「あーちゃん、帰ったのお?」
「起きた? 今ごはんつくるよ」
「いらない…食欲ない」
開けっぱなしのドアの向こうを、ふらふらとおぼつかない足取りの影が通りすぎた。
危なっかしいなと思い、ベッドを飛びおりて追いかける。
さっき綺麗にしたばかりのダイニングにウイスキーの中身を点々とこぼしながら、母親はご機嫌に歌っていた。
「あーちゃん、今日も可愛いわねえ、私にそっくり」
「はいはい、何か食べたほうがいいよ、せめて牛乳かお豆腐くらい、食べない?」
「湯豆腐!」
突然ひらめいたように、大げさに両手を広げて叫ぶと、楽しくなってしまったらしく、キャハハと笑う。
その自制心を感じさせない、唐突な大声は、母のゆらゆらと安定しない心を如実に表していた。
こういうのもキッチンドランカーっていうのかな?
家中ふらふらしてるから、別にキッチンにばかりいるわけじゃないんだけど。