傷つけたくない 抱きしめたい








「ねえ、みんなで海に行かない?」


梨花ちゃんがそんなことを言い出したのは、明日から夏休みが始まる、という終業式の日の午後だった。

私たちはいつもの四人で連れ立って駅前の商店街に行き、ファストフード店でお昼ご飯を食べていた。


「は? なんだよ、唐突に」


嵐くんがチーズバーガーにかぶりつきながら眉を上げて訊ね返すと、梨花ちゃんが答える。


「だって、夏だよ? 高校生の夏休みだよ? なんか特別なことしたいじゃん」

「はあ、まあな」

「でしょ? で、夏といったら海! 不思議調べも一段落ついたことだし、遊びに行こうよ」


梨花ちゃんのわくわくした顔を見ていると、なんだか私も楽しみになってきた。


「ほら、美冬も行きたそうな顔してるし」


梨花ちゃんにぴっと指を差されて、そんなに分かりやすかったかな、と恥ずかしくなる。

でも、私は今まで、休日や夏休みに一緒に出かけるような親しい友達がいなかったから、誘われただけで嬉しかったのだ。


「まあ、美冬が行きたいなら、行くか」


嵐くんがそう言うと、梨花ちゃんが唇を尖らせ、「私はどうでもいいってこと?」といじける。

すると嵐くんはおかしそうに笑って、「ばーか」と梨花ちゃんの額を指で弾いた。


そんな二人の様子を見ていて、仲が良いなあ、と思う。


もしかして、いい感じなのかな。

二人が付き合ったりしたら、すごくお似合いだし、私まで嬉しくなる気がする。


「じゃ、日にちも決めちゃうか」

「早いほうがいいな。八月になるとどんどん暑くなっちゃうし」

「じゃ、さっそくだけど、今週の土日とか。俺はどっちも空いてるよ」

「あ、私、土曜は習い事あるから、ごめん」

「なら日曜か。美冬は? なにか予定ある?」

「ううん、大丈夫」

「よし。雪夜はどうだ?」


これまで黙って外の景色を見ていた雪夜くんに視線が集まる。

雪夜くんはゆっくりと振り向いた。


「……海?」


聞き取れないほど小さな声で、独り言のように呟く。

そう、海、と梨花ちゃんが返した。


「ふうん」と雪夜くんは小さく言って、また窓のほうへ顔を向けた。


「なによー、その気のない返事は」

「べつに」

「乗り気じゃない感じじゃないの」

「……お前らだけで行けばいいんじゃないか」


梨花ちゃんが眉根を寄せた。


「そんなのつまんないでしょ。三人だとバランス悪いし」

「そうか?」

「そうだよー。なに、雪夜、行きたくないの?」

「………」

「海、嫌い?」


その言葉を聞いた瞬間、雪夜くんが視線を戻して、私をじっと見つめてきた。

どきりとして、私も見つめ返す。


「――べつに、嫌いじゃない」


はっきりとした声で、噛みしめるように、雪夜くんは答えた。


「海は、嫌いなんかじゃない」


どうしてそんなふうに真剣な顔で言うのだろう。

不思議に思っていると、雪夜くんはまた、ふい、と外に目を向けてしまった。


「嫌いじゃないならいいじゃん。よし、決まり!」


梨花ちゃんが嬉しそうに宣言して、今週の日曜日の九時に待ち合わせて海へ行くことになった。



その日の夜。

夕食の用意を終えて、リビングのソファに座ってテレビを見ていた私は、海辺の砂浜の映像が流れるのを見て驚きに目を見張った。


「そっか……海ってことは」


思わず声が出てしまった。

それくらい予想外というか、思ってもみなかったことなのだ。


「水着……」


砂浜で寝転がる人、歩いている人、海で泳ぐ人、遊んでいる人。

考えてみれば当たり前のことだけれど、海に遊びに来ている人は、大人から子供まで、みんな水着姿だった。


血の気が引いたような、逆に頭に血が昇ったような、複雑な気持ちになる。


自分の間抜けさが笑えた。

『海に行く』と聞いて、てっきり私は『海を見に行く』ということだと思ったのだ。

そういえばもう何年も海を見ていなかったから、見たいなあと思って誘いに乗ったけれど、『海に泳ぎに行く』というのは思いもしなかった。


でも、きっと、世間一般的には、海に行くというのはきっと、水着で泳ぎに行くということだろう。


どきどきしながらスマホを手に取り、梨花ちゃんの電話番号を押した。


『はーい、もしもし、美冬?』

「あ、うん。ごめんね梨花ちゃん、こんな時間に」

『ううん、全然。どうしたの? 電話なんて珍しいよね』

「うん……あのね、今日、海に行くって話、してたでしょ?」

『うん』

「それってね、やっぱり……水着?」


一瞬、沈黙が流れる。

梨花ちゃんがぽかんとした顔をしているのが目に浮かんだ。


『そりゃそうでしょ、海なんだから水着じゃないと、濡れちゃうもん。普通の服で泳いだら溺れちゃうよ?』

「……だよ、ね……」


思わず黙り込むと、しばらくしてから梨花ちゃんの『もしかして』という声が聞こえてきた。


『美冬、水着持ってないとか?』

「うん……学校のプール用の水着はあるけど、変だよね」

『スクール水着? それは、うん、あれだね』

「だよね。あの、だから、今回は私は遠慮しようかなって……」


そう言った途端、梨花ちゃんが『えっ?』と驚いた声を上げた。


『ちょっと待ってよ、美冬。そんな、水着ないってだけで行かないなんて……美冬がいないと寂しいよ。ねえ、お父さんにお願いして買ってもらったら?』

「うん、それはそうだよね。私も海には行きたいし。でも……そもそも、水着で行くって思ってなかったから、恥ずかしくて……」


本当は、こっちが本心だった。

私は学校の授業以外では水着なんて着たことがなくて、たくさんの人がいる場所で水着を着て歩くというのが、どうしても恥ずかしかったのだ。


『え? 恥ずかしい? 水着が?』

「うん、すごく恥ずかしい」


Tシャツよりも短い袖のものなど着たことがないし、肩の素肌を見せるというのは、私にとってはとてつもなく恥ずかしい。

ビキニタイプの水着でお腹を丸見えにできる女の子たちは、本当にすごいと思う。

私には絶対無理だ。


「……ねえ、どうしても、水着じゃないとだめかな」


数秒間の沈黙があってから、ふふっと笑う梨花ちゃんの
声が耳に届いた。


「もう、ほんと恥ずかしがりやだよね、美冬って。水着くらいなんてことないのに」

「そうかな……いや、やっぱり恥ずかしいよ」


梨花ちゃんはきれいなスタイルをしているし、肌もきっときれいに手入れをしているだろうから、露出をすることに抵抗はないのかもしれない。

でも、私はそういうことに疎くて、きっとみじめな姿をしていると思う。


『よし、分かった!』


自分の暗い考えに沈んでいたら、梨花ちゃんの明るい声が私を浮上させた。


『確認だけど、海には行きたいんだよね?』

「うん。海、見たいなって思ってたから」

『よかった。それなら、別に無理して苦手な格好することなんかないよ。美冬はさ、水着の上にTシャツでもカーディガンでも着てればいいから。それでも海は見れるでしょ?』


「え……いいの?」

『上に着たままだと泳げないけど、水に足つけるくらいならできるし、あとは砂浜のほうで待ってるとか』

「あ、うん、それでいいよ。よかった、なんかほっとした」


ありがとう、と呟くと、梨花ちゃんはくすくすと笑いながら『どういたしまして』と答えてくれた。


『でもさ、さすがにスクール水着に上着ってわけにもいかないから、お金が大丈夫そうなら、普通の水着買いなよ』


お金は、お小遣いとお年玉をほとんど使わずに貯金してあるから、大丈夫だ。


『ねえ、せっかくだから、一緒に買いに行かない?』

「え?」

『私も新しい水着欲しいなって思ってたんだよね。今もってるの、中一のときに買ってもらったやつなんだけど、背が伸びたせいかちょっと窮屈で。美冬がよかったら、明日か土曜日の午後か、どう?』


友達と買い物に行くなんて、いつぶりだろう。

たぶん小学校の五年生以来くらいだ。


嬉しくて声が上擦るのを自覚しながら、私は「うん、行こう」と答えた。


電話を終えてから、私はピアノの蓋を開く。

鍵盤を気の向くままに押さえながら、写真立ての中のお母さんに心の中で語りかけた。


高校生になってから、嬉しくて楽しいことばかりだ。

友達と一緒に買い物に出かけたり、夏休みに海へ遊びに行ったり、まるで青春小説や少女漫画のようなことを私が経験できる日がくるなんて、中学の頃は思いもよらなかった。


清崎高校に入って、あのクラスになって、よかった。

私をどんどん引っ張ってくれる梨花ちゃんと嵐くんに出会えて、そして雪夜くんにも出会えてよかった。

無愛想だけど、最近は少し話せるようになってきたし。


そんなことを考えながら、ふと思う。

普通の家の女の子たちは、家に帰ったら、例えば一緒にお茶をしたり、家事を手伝ったりしながら、お母さんとこんな話をしているのかな。


周りの女子たちの話を聞いていると、休みの日にお母さんと二人でショッピングに行った、というのも聞いたりする。

そういうときにカフェで甘いものを食べたりしながら、学校の話をしたり、好きな人の話をする子もいるらしい。


少し羨ましい気もしたけれど、私にはお父さんと佐絵がいる。

二人が帰ってきて夕食を終えたら、いつも一時間くらいはお喋りをする時間がある。


ちょっと照れくさいけれど、今日の嬉しい話をしよう。









日曜日。

待ち合わせ場所に行くと、すでに梨花ちゃんと嵐くんがいた。


「おはよう。早いね、二人とも」


そう声をかけると、梨花ちゃんがにやにやしながら嵐くんを見た。


「嵐ったらね、楽しみすぎて早く起きすぎたんだって」

「そういう梨花だって同じじゃないのかよ」

「私は十分前集合がポリシーなだけですー」

「うそつけ」

「ね、それよりさ、電車の乗り換えって……」

「あ、調子が悪くなると話変えるんだからなー、お前って」

「ねえ美冬、乗り換えの駅分かる?」

「おいこら無視すんな、ばか」

「いたっ、もう、叩かないでよね、ばか」


楽しそうに言い合いをしている二人を微笑ましく見ているうちに、五分が過ぎ、さらに十分が過ぎ、いつの間にか待ち合わせ時間を越えていた。


「……雪夜くん、遅いね」


腕時計に目を落として小さく呟くと、二人がはた、と顔を見合わせた。


「たしかに……もう時間過ぎてるのにな」

「ほんとだ。珍しいよね、雪夜って待ち合わせに遅れたことないのに」

「意外にな」

「意外にね」

「どうしたんだろうな、何かあったかな……」


嵐くんが心配そうな顔になり、スマホを取り出して電話をかけるような素振りをする。

そのとき、向こうから歩いてくる人影に気がついた。


「あ、雪夜くん」


私が声をあげると、二人もそちらへ視線を投げた。


雪夜くんは、いつものように猫背でこちらへ歩いてきた。


でも、あれ? と私は首を傾げる。

いつもよりも足取りがゆっくりで、そして、どことなく元気がないような気がした。


「おはよ、雪夜。珍しいね、寝坊?」


梨花ちゃんが声をかけると、雪夜くんはゆっくりと顔をあげて、それから手首の時計に視線を落とした。

そこで初めて時間が過ぎているのに気がついたようで、かすかに眉を上げた。


「……ごめん、遅れた」


ぽつりと謝るので、梨花ちゃんが驚いたように目を丸くする。

嵐くんが「気づいてなかったのかよ」と笑いを含んだ声をかけたけれど、雪夜くんは何も答えない。


その横顔を、私はじっと見つめる。

彼はもともと色が白いほうだけれど、その頬は、いつにもまして青白いような気がした。


「……雪夜くん、大丈夫? 具合、悪い?」


気がついたときには、そう問いかけていた。

雪夜くんが気だるげに首を巡らせて、無表情で私を見る。


「悪くない。ただの寝坊だ」


きっぱりと言われて、そう、と返すしかなくなる。


「遅れて悪かった。行こう」


雪夜くんはそう言って、駅に向かって歩き始めた。


やっぱりいつもの彼と雰囲気が違うような気がしたけれど、どうすれば、何を言えばいいか分からず、黙ってその背中を追った。