とても賢くて、いつも私のそばについてきた黒猫だった。抱きかかえるといつも気持ちよさそうに目を細める。柔らかくて気持ちのいい毛並みを抱き締めるのが私は大好きだった。
当時、始めたばかりのピアノの黒色に似ているから、と名前をつけたのは私だったと思う。
「ピアノが好きな猫だったの」
思い出すと笑みが溢れる。
家にあるピアノにすぐに飛びついて、私が弾くといつもそばでくるくると踊るように回ったり、大人しく聴いていたり。心なし表情も楽しんでいるように見えて、私はいつもピアノのために弾いていた。ピアノが喜ぶ姿を見るために弾くのはとても楽しかったんだ。
私がピアノを習っていたのは、ただ、ピアノのためだった。
「……今は?」
壱くんは少し考えてから私に問いかける。それは、答えをわかっているからだろうと思った。
「小学校の時に、いなくなった」
滅多に外に出かけない猫だったのに、その日は珍しく外に出たがった。
今日と同じような、寒いけれど日差しの暖かい、冬。
そのまま三日間、ピアノは帰ってこなくて、探しまわった結果、冷たくなって横たわっているのを少し離れた公園で見つけた。
抱きしめるといつもにゃあ、と私を見て鳴いてくれたけれど、もうなにも言わない。大きな黄色の瞳で私をまっすぐに見てくれることはもうない。
落ち込む私を心配して美和子が家に毎日やってきた。
ピアノを弾くことすらも悲しくて、閉じこもっていた。
「私の、唯一の逃げ場だった」
頑張っても頑張っても頑張れなかったあの頃。
お母さんに怒られたり、ピアノが上手に弾けないと、いつもピアノを抱きしめてあの大好きな瞳を覗き込んだ。
もういやだ、と泣きついたこともあったし、どうして?と返ってくるはずもない疑問を投げ続けたり。
なにも語らないあの瞳はいつも、私を応援してくれているような気がしたんだ。
『もうやめるの?』
『もう諦めちゃうの?』
『頑張って』
『頑張ればきっとできるよ』
ずっと、そう言ってくれていると思っていた。勝手にそう思い込んで、自分の背中を押し続けた。ピアノがいたから、誰かが応援してくれているんだと思うことができたんだ。
……でも、きっとピアノはずっと、違うことを私に教えてくれていた。あの日、何度も私に問いかけたことを、ずっと、私に言い続けていたのかもしれない。
——『きみは、どうしたいの?』
サア、と冷たいけれどすべてを洗い流してくれるような風が私たちの間を通り過ぎた。
私は、どうしたいかな。
私たちは頑張ってたよね。私たちなりに、一生懸命頑張っていたと思うんだ。
その方向が、方法が、間違えていたかもしれないけれど、頑張っていた。私はそれを、胸を張って言える。
逃げ出したけれど、逃げ出すことができたから、また、頑張れる。
今度はもう少し、上手に頑張れたらいいなと思う。
「頑張るのって、なりたい自分になるためなのかもしれないね」
「……そうかもな」