「つい、お前ができちゃうから、もっと出来るはずだと思ったって」


 ゆっくりと視線を壱くんに向けていく。
 彼は、初めて見る優しい微笑みを私に向けてくれていた。


「あとは、今日か明日か、明後日か、しらねーけど。ちゃんと話せば? あのあと話したけど、すげえ落ち込んでたし」
「……うん」
「お前、すげえわがままなこと言ってたな」


 しょんぼりとうなだれて頷くと、それが面白かったのか彼がくつくつと喉を鳴らして笑った。


「あんなに泣くの初めてみた、俺。俺の弟でもあんな泣かねえよ」
「っわ、わかってるよ! 落ち込んでるのにそんなふうに言わないでよー!」


 あはは、と笑いながら私の頭を数回、軽くポンポンっと叩く。
 まるで子供扱いだ。……昨日の私は、本当に子どもだったけれど。

 でも、すごく、心が軽くなっているのが分かる。全速力で、逃げ切った感じだ。言い逃げとも言う。


「俺も、頑張るよ」
「……うん」
「帰るか。また、自転車だけど」
「うん」


 これでよかった、なんて言葉は言えないし思えない。

 だけど、これも、よかったのかもしれないと思う。
 恥ずかしくてかっこ悪くて、多分間違いだらけだと思う。けれど、ここまで〝できた〟よ、私。


 そっと振り向くと、ちょこんと座った状態で黒猫が私を見ていた。黄色のビー玉が私を映し出している。毛並みのいい黒猫。


「ねえ、きみの名前、は?」


 黒猫は一回だけしっぽを大きくぱたん、と動かした。それだけで、返事はしない。


「きみは、ピアノ?」
「やっと、思い出してくれたんだね」


 にんまりと、微笑んだような気がした。

 ピアノ。大好きだった、私のピアノ。こんなところにいて、私と話ができるなんて、そんなのありえない。

 でも、瞳は、私が何度も励まされてきたものだ。悲しくて、悲しくて、いつの間にか私はその記憶もなくしてしまっていたんだとやっと気づいた。



「茉莉ちゃんー、壱くんー?」


 台所から、おばあちゃんが私たちの名前を叫ぶ。ふたりして顔を上げて「はあい」と返事をすると「ご飯よー」と明るい声が返ってきた。


 そして、振り返った先に黒猫は、いなかった。