「帰りたいんだろ、きみたちは」
「そりゃ……帰りたいけど、それはそれで大変というか、頑張らなくちゃいけないっていうか」
「そのまま頑張らずに帰ればいいじゃないか」
「あのな、だから……」


 はあ、と壱くんがため息を落とした。けれど、黒猫はそれを無視して言葉を続ける。


「きみたちは、まるで帰りたくないみたいだ」


 するっと、こたつから抜けだして窓際の方に歩いて行く。畳の上では爪が床に当たる音は聞こえない。まるで、空気みたいに音もなく歩く。


「いつも理由を探しているな」


 そんなことはない。そんなつもりはない。けれど、言い返す言葉がとっさに出なかった。


「やりたくないならやらなきゃいいのに、やらなくちゃいけない理由ばかりを口にする」


 そのとおりだ、と思った。


「本当はやりたいんじゃないのか? 頑張りたいんだろ?」


 苦しいと思ったことはたくさんある。
 もう頑張りたくない、楽になりたいと思ったことだってたくさんある。
 歪な笑顔で我慢したり、やりたくないと思いながらもやろうとした。

 その気持ちは、本当にやりたくなかったことなんだろうか。

 だって私は、みんなに好かれたかった。みんなが好きだったから。

 お母さんに認めてもらいたかったから。美和子と、ずっと仲よくしたかったから。


 間違っていたかもしれないけれど、やりたくなかったわけじゃ、ない。


「頑張りたいなら頑張ればいいし、逃げたいなら逃げればいいし、やりたいことがあるならやりたいようにすればいいのに、なんでやらないんだ?」
「……でも」
「理由なんて全部どうでもいいじゃないか」


 私たちの並べる理由は、言い換えれば、ただの言い訳に過ぎない。少なくとも、黒猫にとっては。


 私も、壱くんも、もう、黒猫になにも言えなかった。

 口にするものが全て、言い訳で無理やり作り出した理由かもしれないと思えてきてしまって。あとは、この黒猫を納得させるような答えが、見つからなかったから。


「少なくともきみたちは、あれこれ言ってるけど、逃げることができてるじゃないか」


 逃げたかった。捨てたかった。忘れたかった。
 その一歩を今、私たちは現に、踏み出して、ここにいる。
 あれだけ逃げたいと思っていたのに、逃げられないと思っていたのに、ここにいて、遠く離れた場所にたったふたりで、やってきた。本来の目的通りの現状。


 私は、逃げた。


 逃げることが〝できた〟んだ。〝頑張って〟〝逃げた〟。

 その瞬間、家の前に車が停まるエンジン音が聞こえてきた。
 心臓がぎゅうっと縮まって痛む。ぐっと唇を噛んで、目も瞑る。ドクン、ドクン、と心臓の音が体中に響き渡っているのが分かる。そっと瞼を開けると壱くんが少しだけ心配そうに私を見つめていた。


——『思い出して、ちゃんと、逃げる方向を見つける』


 これは、私が今日告げた言葉だ。

 ちゃんと、逃げなくちゃ。ううん、ちゃんと、逃げたいから。頑張る。