「っな、なにすんだよ!」
「壱くん!?」
スマホのあとを追いかけるように、川に飛び込んでいく。
水しぶきが大きく跳ねて、黒猫はそれをさっとよけながら、川の中にいる壱くんの方に視線を向けた。
「なんで? いらないんだろう?」
「いらねえけど! ないと困るんだよ!」
「ないと困るものは、いらないものじゃないよ」
「お前みたいな猫の考えとは違うんだよ! あーくっそ!」
じゃぶじゃぶと聴こえる音。ひざ上まである川の中で必死にスマホを探している彼の姿に、私は動けなかった。まだ、冬だ。川の水は冷たい。飛沫でさえ、肌に触れたら痛むほどの冷たさだった。
「風邪……ひくよ……」
「そんなもんどうでもいいよ!」
「そんなのどうでもいいくらい大切なものなんじゃないか」
「うっせーな!」
ばしゃんと、黒猫の方に向けて水を投げつけると、黒猫はそれも器用にひょいっと避けて、またちょこんと彼の方を向いて座った。
「誰かがどうかとかじゃなくて。きみは、どうしたいんだ?」
「……うる、せえな、ほんとに」
「きみたちはもっと自分の気持ちを自分で理解すべきだ」
猫が、そう言って、場違いな欠伸をした。大きな欠伸をひとつして、必死な壱くんをあざ笑うように前足で頭を軽くかく。
「ねえ」
「なんだよ!」
「悲しいとか、寂しいとか、悔しいとか、きみたちはなんでそれをおろそかにするのか、ぼくにはわからないんだよ」
壱くんは、川の中で動きを止めて、ゆっくりと黒猫に顔を向けた。
そう見えただけで、彼にはなにも見えていないのかもしれない。呆然と突っ立って、スマホを探すのをやめて、ただ、水に浸かっている。
悲しいとか、寂しいとか、悔しいとか。
私たちは色んな感情を抱いているはずなのに、どうして、気づけないんだろうね。猫に言われて初めて気づく、自分と、彼の気持ち。
彼がここまで来た理由とか、彼が震える手でチャイムを押した勇気だとか、無理して笑ってみせる意地だとか、怒って堪える悲しみだとか。
彼をみて、胸が痛む私の、気持ちとか。
本当の気持ちを隠してしまう、弱さとか。
——『茉莉もうちょっと頑張らないと』
——『茉莉は、お姉ちゃんみたいにならなくちゃ』
——『お姉ちゃんは、できるのにねえ』
ぎゅっと、拳を作って顔を上げた。
コートを脱いで、そのまま、川の中に入ると、思った以上の冷たさが針のように肌に突き刺さって顔をしかめてしまう。
「……お前」
「探そう、一緒に」
ひとりで探すよりも、ふたりのほうがいい。
見つかるまで、きっと壱くんは水からあがってこない。
川の底に手を伸ばし、何度も何度も探る。そんなに遠くに行ったはずはないのに、夜空の下ではどこにあるのかさっぱりわからなくて、私も壱くんも無言でスマホを探した。