すうっと息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出す。

 頑張れ、と自分を叱咤するようにぐっと力を込めてすっくと立ち上がった。そして、ゆっくりと彼の背中に近づいていく。脚を動かすごとに、土と雑草がカサカサと鳴り響いた。


「……だから、嫌なんだ」


 私が隣に並んだがわかってから、彼がつぶやく。ひとりごとのようなそれは、闇の中に消えていく。


「頑張ったって、無意味だ。俺だけが頑張ったって意味がない。どいつもこいつも、自分のことしか考えない」


 ポケットの中からスマホを取り出して、自嘲気味に「ふ」と笑ったのが聞こえた。


「さっきの、おかん」


 突然明るい声を発して、くるっと私の方に振り返った。


「二回も浮気して、最終的に俺らを捨てたおかん。最低だろ?」


 ここで、泣いたら、駄目だ。

 直感的にそう思って、ぐっと唇を噛んだ。
 私が泣いたら駄目だ。壱くんが、泣けなくなる。

 壱くんは、そんなもの見たくないだろう。だから、私は我慢しなきゃいけないんだ。


 今日、一日一緒にいたけれど、彼はそんなに笑う人じゃなかった。
 今みたいに、明るく、口を開けて笑う人じゃなかった。
 そんな、無理して笑うようなことは、一度もなかった。

 彼が今、どれだけ頑張っているか、苦しいほど伝わってきて、私はそんな彼にどんな言葉をかけるべきなのか、わからないんだ。


「……ちょっと頑張ってみたらこれだもんな。ほんと、無意味っつーか、むしろ最悪っつーか。ほんと、くだらねえ」


 ぎゅっと、スマホを握りつぶすくらいに力が込められた。


「ふざけんなよ! なんだよ『頑張れ』って言ったり『もういい』って言ったり! 『頑張る』って言ったり『やめた』って言ったり! なんでそんな勝手なんだよ!」


 振り上げた拳。その中にあったスマホが、地面にたたきつけられる。

 土の上で軽くバウンドしたそれは、チカチカと点滅していて、誰かからの受信を知らせていた。


「もう、勝手にしろよ……俺に構うなよ、放っておいてくれよ、なんだよ、親父も、おかんも、弟も、好き放題しやがって……あいつも、勝手なこと言って勝手に怒って。全員どっかいけよ!」
「じゃあ、壱が捨てればいい」


 壱くんの叫びを打ち消すような、場にそぐわない舌っ足らずの、淡々とした声が冷たい空気の中に響いた。

 いつの間にか壱くんと私の間に転がったスマホ前に、ちょこんと、今までずっとそうしていたかのように座り込んでいた。黒猫は、暗闇の中で黄色の瞳を壱くんに向ける。小さな月が、ふたつ浮かんでいるみたい。


「嫌なら壱が捨てればいい、こんなもの。嫌なんだろう?」


 前足で軽く、壱くんのスマホを触った。コツコツ、とおもちゃのように何度も弄る。


「ああ、いらないね、そんなの。それが、俺を縛るんだ。馬鹿げてるだろ」
「じゃあ、捨てればいい」
「捨てれるなら捨ててるよ!」
「捨てれるよ」


 その瞬間、黒猫はスマホを前足で弾くように飛ばした。


 ——ポチャン、と水が跳ねる音が聞こえてきて、すぐにそれは消えた。


 残された音は、遠くを走る車と、どこかの犬が鳴く声と、流れる水の音。