軽やかに叩く自分の手。まるで勝手に演奏しているみたいに幾つもの鍵盤が上下する姿。それがただ、好きなだけだったのに。


「どうしてできないの?」


 頑張ってるけど、出来ないんだ。


「年下のあの子は、もうできたんでしょう?」


 だってあの子と私は違うもの。


「ちゃんと練習したの?」


 したよ、毎日毎日、鍵盤と向き合っている。もう、鍵盤なんかきれいだと思えないくらいに、叩いている。

 もう、好きじゃないのに。


 ◇


「五年前に、やめたけど」


 自分の手を広げて見ると、あの頃の手よりも大きくなったのがわかる。あの頃鍵盤が遠いと思ったけれど、今ならもうちょっと近く感じるかもしれない。

 でも、もう弾けない。もう、何年も弾いてない。


「なんで?」
「さあ、なんでだったかな。気がついたら……っていうか今忘れてるだけかもしれないけど、ピアノは家からなくなっていた」


 なんで、やめたんだろう。

 私が、嫌になって放棄してしまったのかな。

 今また弾きたいと思うほど好きだったわけじゃないから、私から手放したのかもしれない。

 ただ、少し残念だなと思う。以前は弾けたものが弾けなくなっているなんて。あんなに練習していたのに。もう、聞かせてあげられないんだ。



 壱くんはそれ以上なにも言わずに、口を閉じたままふたりで黒猫のところまで戻った。

 止めてあった自転車は当然そのままの状態で、私の前かごの中にいる黒猫は、離れた時と同じ体勢のまま、気持ちよさそうに眠っている。

 壱くんが「のんきだな」と言って顔を勢いよくぐりぐりと撫で回すと、身体を瞬時に硬直させて「んー」と唸り声を発した。


「なにをするんだ!」
「別に、嫌がらせ」


 平然とそう答えながら自転車にまたがる壱くんを見ていると、まるで子どもみたいに思えて顔がほころんだ。黒猫の怒った顔も、かわいい。

 出来るなら。もう少しだけ思い出さずに過ごしたいと思う。

 思い出してしまうと、きっと今みたいに私は笑えないんじゃないだろうか。壱くんと黒猫の掛け合いを、私は今のような気持ちで笑ったり出来るのか自信がない。