「勝手に触らないようにねー」
「っあ、す、すみません!」
レジに座っていたおじさんが苦笑交じりに言葉をかけてきて、はっとして顔を上げる。ピアノの上には大きな文字で『触れないで!』と書かれている紙が貼り付けてあった。
なにも見えてなくて、つい触れてしまった。
恥ずかしさでペコペコと頭を下げながら、逃げるように店から出て行く。ピアノばかり見ていてあんな大きな張り紙に気づかないなんて。
「ピアノ、弾けるのか?」
「うん……」
一緒に店を出て隣を歩く彼が言った。
触れた自分の右手を見つめていると、懐かしい感覚が蘇ってくる。ピアノに触れるのは何年ぶりだろう。もう、五年くらい触ってなかっただろう。
もう、手は以前のように動いてくれないだろうし、弾きたい、と思っているわけではないけれど、久々に叩いたあの鍵盤は、やっぱりきれいだった。
◇
初めてピアノに触れたのは、三歳くらいのとき。
一足先にピアノを習いだした姉に、父が買って家に届いたそれを見たとき、私は幼いながらになんてきれいなんだろうと思った。
叩けば必ず音の出るそれは、私のおもちゃのような感覚だった。
ちょっと上にある黒い鍵盤が特に大好きだったのを覚えている。
理由なんてよくわからないけれど、私はそれが好きだった。
きっと真っ白の鍵盤の中で浮かんでいるようなそれがとてもきれいだったんだろう。
「茉莉は、上手ね」
そう言って、ほめてくれたのはお母さんだった。
姉の練習をじっとみていたせいで、簡単な部分だけは勝手にひけるようになった私を、母は嬉しそうに見つめてくれた。
「茉莉邪魔しないでよー!」
そう言っていたけれど、いつも私のそばで練習していた姉は、たまに私に教えてくれることもあった。
小学生に入る頃になって、姉の通うピアノ教室に通いだしたときは本当に嬉しかった。誰よりも練習していたし、誰よりもうまくなりたいと思っていたあの頃は、純粋に楽しんでいたんだろうと思う。
「ねえ、今日はあれが弾けるようになったよ」
「ほら、聴いてよ。好きでしょう?」
帰ってくるといつもそう言って、ピアノの前で過ごしていた。
だけど、私はそれでよかった。そのくらいでよかった。
褒められるのが、楽しんでくれるのが大好きだっただけ。だけど、次第に楽譜は複雑になってきて、楽しいとは思えなくなり始めた。それに加えて学校のテストもある。
今思えば小学校時代のテストなんてかわいいものだったけれど、当時はやっぱり毎回緊張したし、答案用紙の点数を見るのは怖かったっけ。
どちらも頑張らなくちゃいけない。
なのにどちらも私には難しくなってきて、特にピアノに関しては手が動かないことも多くなった。