「そろそろ行くか」
話題を切り上げるように壱くんが呟いた。
立ち上がるとまた強い風が吹いて、身体をぎゅっと縮こませた。さっき坂道を登っている時に汗をかいたせいもあるのだろう。朝よりも身体が冷えている。日の当たる場所に移動すると、ほんの少しだけ温く感じられた。
入ってきたドアの方に歩いて行き、壱くんはまた南京錠をかける。
黒猫を抱きかかえようとすると「かごは飽きた」と言ってひょいっと逃げられた。
「歩こう」
「はあ? なんで? めんどくさいだろ」
「面倒くさいにんげんがなにを言ってるんだ」
全く聞き入れないで、私の足許をくるくると回る。
このまま歩いて行くなんて、本当に何時におばあちゃんの家につけるのかわからない。かといって、猫をここに置いていくわけにもいかないし、無理やりかごに入れるのも可哀想だ。
壱くんと顔を見合わせると、彼ははあーっと大きなため息を落としてから、なにも言わずに自転車を引いて歩き出した。小さな声でブツブツと文句を言っているのが聴こえるけれど、黒猫に従うつもりらしい。
「今日中に、着けるかな?」
「さあ? 嫌なら猫を説得したら?」
そんな投げやりに言わなくても……。そんなこと出来ないのをわかっているくせに。
壱くんほどではないけれど、小さなため息を吐き出して、さっきまで私たちのいたグラウンドをなんとなく見つめる。
フェンス越しの、誰もいないグラウンドと、サッカーボール。それが、記憶にあるなにかと景色が重なった。高校の、グラウンドだ。校門をくぐってから、道沿いに歩くと学校のグラウンドのそばを通る。その景色と、似ている。
それは毎日見ている景色だけれど、思い出したのは夕暮れのグラウンド。誰かがそこにたったひとりでいたのを、見たことがある。
何かをしていたわけじゃない。ただ、グラウンドを見つめていた人。
——『茉莉は、好きな人がいるの?』
いつだったか、美和子に投げかけられた質問が、頭のなかに響いた。そのときに思い出した景色が、よみがえる。
頑張っている人だった。
背中だけの彼は、私の目指すもののようにも見えたし、私のようにも見えて、彼は頑張っているんだと思った、
私はその彼の背中に〝頑張れ〟と心のなかで告げた。同時に〝頑張ろう〟と思えた。だから、私は毎日、なにかを頑張り続けることが出来たんだと、思う。
なのに、顔も名前も思い出せない。
それは、私がなくしてしまいたいと思った記憶の一部だからだろうか。それとも、はじめから知らない人なのだろうか。好きな人は、と聞かれて一番に思い出す人なのに、全く知らないなんて、おかしい。今まで思い出せなかったなんて、信じられない。
忘れたのだとすれば、私は、どうしてそんな人のことを思い出したくないと思ったんだろう。