ふと、私は〝逃げ出してもいいんだ〟と思った。


  ◇



 自転車で学校に向かう途中、風の中から春の気配がかすかにした。

 バレンタインも終わり、ホワイトデーも間近になった三月上旬。まだまだ寒い日が続いていて、春の近い季節じゃない。けれど、間違いなく春はやってくる。


 鎖骨辺りまでの長さの、ほんのりと毛先がカールした髪の毛は、白と黒のボーダー柄のマフラーから飛び出していて、冷たい風が首元を通り抜ける。反射的にぎゅっと奥歯を噛んでそれを凌ぎながらブレーキをかけた。

 自転車を車輪を回していた脚を地面につけると同時に、自分の体が突然ズシンと重く感じる。
 春はやってくる。このまま、同じような日々を過ごしていればいつの間にか暖かい日差しと、心地いい風に変わっていく。私の身の回りも、春が来れば変わっていくだろう。

 だけど、私は変わらない。

 平日は学校に行くだろうし、学校に行けば気を使う日々を過ごすだろう。もしくは虚しい日々がやってくるだけ。そして、机に向かってひたすら勉強をするんだ。

 足元をじっと見つめていると、自分の身体がどんどん地面にめり込んでいくような気がした。

 どうしてこんなことを急に考えてしまうのか、自分でもよくわからない。
 いつまで続くかわからないこの日々は、今までだって過ごしていたはずだ。


〝なんのために頑張ってるんだろう〟
〝いつまで頑張るんだろう〟


 どうして今更、こんな疑問を、恐怖を、抱いてしまうんだろう。


「……学校……」


 行かなくちゃ。
 そう思っているのにそれを口にすることすらできない。

 今日までどんなに行きたくない状況でも休むことはなかった。もうすぐ期末テストだってあるこのタイミングで授業を受けなかったら、すぐにわからなくなってしまう。ノートを借りれるような人だって、私にはいない。

 それでも脚は動いてくれない。ズブズブと地面に沈んでいく。


『茉莉はよく出来るのね』
『茉莉ちゃんはいい子だよね』
『なんでもしてくれるんだよ』
『なに考えてるかわかんない』


 思い出すと、自分がどこに、どうやって立っていればいいのかわからなくなってきて、今度は地面がグラグラと揺れ始めた。

 なんで、こんなことになったんだっけ。私、どうすればよかったんだろう。私、こんなことになるために頑張ってたの?


 無性に泣きたくなってしまい、慌てて空を見上げた。

 きれいな水色の空に、真っ白な大きな雲。冬の澄んだ空気。すう、と大きく息を吸い込むと、身体の中も澄んでいくような気がする。今まで、どれほどの黒ずんだ思いを抱いていたのかも思い知らされる。

 こんなにきれいな空が頭上には広がっているのに、私はまた、いつもの灰色の日々を過ごしに学校に行かなくちゃいけないんだ。


「行きたくないなあ……」


 ぽつりとこぼれた本音。それは、今まで何度も飲み込んできた言葉。

 吐き出してしまうとどこまでも飛べそうなほど体が軽くなって、〝逃げ出してもいいんだ〟と思った。嫌なこと、辛いこと、苦しいことから逃げ出してしまえばいい。


——もう、頑張りたくない。


 なんのために頑張らなくちゃいけないんだろう。なんで、頑張り続けなくちゃいけないんだろう。もう、どうだっていいじゃないか。



 地面を蹴って再び自転車を漕ぐ。

 学校と逆方向に向かって、風に乗るように勢いよく走っていく。景色がびゅんびゅんと通り過ぎていって、私の身体が軽くなっていく。制服のスカートが風になびいてめくれそうになったけれど、そんなのどうだってよかった。

 思わず笑顔がこぼれた。
 

 ああ、なんだ、こんな簡単なことだったんだ。
 なんだ、もっと早くこうしていればよかったんだ。