けれど、きっと、なにを言っても彼を納得させることは無理だろう。
言ってもいないのにそう思うことはおかしいけれど、自分が口にしたところで、この真っ直ぐな黒猫に通用するとは思えない。
心の中で、かすかに、そのとおりだ、と思っている自分がいるからなおさら。それを、この黒猫はきっと痛いほど突いてくるだろう、と思う。この真っ直ぐな視線は、きっとウソとか誤魔化しを受け入れてはくれない。
瞬きもなく向けられるその目を見つめていると、無性に泣きなくなる。早く視線を逸らしたいのに、なぜかそらせない。
そんな私に手を差し伸べるように、強い風がぴゅうっと微かに音を立てて私たちの間をすり抜けた。風に何かがのっていたのか、猫の視線があさっての方に向けられてそのなにかを追いかけるように椅子から飛び降りて草むらの方に走っていく。
さっきまで私と話していたなんて夢でも見てたんじゃないかと思うほど、猫。隅っこで何かを捕まえようと、くるりと丸まった手で地面を何度も押している。まるで肉球スタンプでも押しているみたいだ。
「なーなー、茉莉だっけ? お前本当に忘れてんの?」
ぼうっと猫を見つめていると、壱くんが問いかけてきて「うん」と返事をした。それに対して彼は「へー」と初めて会った時と同じように、興味深そうに呟く。
「……どうして?」
「別に。マジだったら便利だよなあって思っただけ。コツとかあんの?」
コツ、と言われても自分でもどうして忘れたのかわからないからうまく答えられない。忘れたい、と思っただけ。
「わかんないけど、壱くんにも、忘れたいことあるの?」
そう聞くと、彼はなにも言わずに私から視線をそらして空を見上げた。
長すぎず、短すぎない彼の睫毛が、何度か瞬きによって揺れる。栗色の髪の毛がそばにある草木と同じように風に吹かれていた。
「別にない」
考えているんだろうと彼の言葉を待っていたけれど、返ってきたのはそっけないものだった。
「忘れたいと思うほどのもんなんかねーな。全部どうでもいい」
「……全部? 嫌なこととか、ないの?」
「ない」
間髪入れずに返ってきたハッキリとした言葉は、拒絶のように冷たく感じた。
忘れたいような過去がなにもないなんて、そんなことあるのかな。でも、迷いなくそう答えられる彼を羨ましくも思う。
私は、こんなにもウジウジしてて、悩んでばかりで、逃げ出した弱虫なのに。何にも興味がないような彼のことを、羨ましいと同時に悔しく思える。
どうしたら、こんなふうに過ごせるんだろう。振る舞えるんだろう。