「そういや、あんた、名前は? 学年は? 俺、タメ口でいーの?」
自転車を押して河原を上がりながら、男の子が私に問いかける。
「ま、茉莉、です。一年、だけど」
「タメか。俺、壱(はじめ)。猫は?」
「名前なんてものは人間が呼ぶために作るだけのものだ。おい、かごに入れろ。歩きたくない」
なんてわがままで傲慢で偉そうな猫なんだろうと、改めて思う。
私の自転車のそばで命令口調で言われてしまい、なにも言い返せない。無言で猫を抱えてかごの中に入れると、今度は「痛い」と文句を言い出す。
かごの中に猫が入るせいで、カバンを背負わなくちゃいけないのに、文句ばかり言われるのは納得出来ない。
はあっと小さなため息を落として、カバンの中から小さな教科書を取り出して下に敷いてあげた。なんで私は猫の言いなりになっているのだろう。
「んじゃ、クロとか猫とかでいいか」
「安直だな、きみは。猫でさえもうちょっと頑張って考えるっていうのに」
「頑張んなくったっていいだろそんなもん。めんどくせーな」
カバンを背負って自転車を道まで押していると、男の子、壱くんと猫が言い合っている。
道にたどり着いて、自転車にまたがる。
まだ太陽は真上には届いていない。そういえば私は、どのくらいの間眠っていたんだろう。冷たい空気はまだ朝の雰囲気を残したままだ。
「今一〇時か。夕方までには着けるんじゃねえかな」
一〇時。となると、もう学校は始まっていて、私がサボっていることはもうみんなに知れ渡ってしまっただろう。
……みんなって、誰のことを指しているのかは、自分でもわからない。
思い出そうとしても浮かばない、みんなの名前や顔。出来事。
忘れる前、私は全てを忘れたかった。
忘れてしまった今、嫌な思い出もなくなって、嫌だと思う気持ちすらなくなった。そう思っていたな、という記憶だけがある。まるで自分のことじゃないみたい。
何もかもを忘れたわけじゃない。自分の名前や、顔、学校とか家とかは思い出せる。その中で、ピンポイントで忘れることが出来るだなんて……本当に不思議だ。逃げ出そうと思って、本当にこうして、記憶からも逃げ出すことが出来るなんて、思っても見なかった。
嫌な思い出がなくなって、気持ちもなくなって、私の心は今、たしかに軽い。
なのに、朝、自転車を学校と逆方向に走らせた時のあの開放感は、もっと、今よりももっと、自由な気がした。
自転車の前かごには、なぜか会話のできる黒猫。
私の前を走る、初対面の、不思議なちょっと無気力っぽい男の子。
今までの私にとって、どちらもありえない組み合わせだ。そんな一匹とひとりと、一緒にちょっとした自転車の旅に出る、なんて。
なんだかおかしなことになったなあ。
すうっと息を深く吸い込むと、冷たい空気が身体の中に入ってきた。空の雲は、朝よりも白さが増したような気がする。
コートとマフラーについた草を軽く払いながらペダルを漕ぎ、川沿いを彼と猫と一緒に走る。
自転車が風を切って走りだすと、マフラーのフリンジがふわふわと揺れながら、私についてきた。