逃げるなら……葦原くんはそんなことを言ったけれど、私は逃げない。
彼の気が済めばすべて解決なのだから、一夜の情事で今夜見たことは忘れてもらおう。
それが一番。

さほど待たずに葦原くんがバスルームから出てきた。


「逃げなかったんですね。じゃあ、こっちにきて」


葦原くんもシャツにスラックスという姿だった。
スモーキーな涅色の髪だけが少し濡れている。

私はおずおずと立ち上がり、絨毯を踏みしめ彼に歩み寄る。

ベッドの横、立ったまま唇を塞がれた。
ファーストキスだ。

女の子が10代くらいで済ませてしまうものを30歳で経験していることがおかしい。だけど、自分を笑おうとすればするほど、怖けて手が小刻みに震えた。

キスはそれ以上深くなることはなく、すぐに離れた。
あっさりとした接触にこんなものかと驚くと、葦原くんが私の瞳を覗き込んだ。


「九重さん、処女ですよね」


「……」


キスくらいでわかるものなんだろうか。
私は一気に狼狽し、またしても指先に震えを感じた。きっと顔は青ざめていると思う。
葦原くんは私の怯えた表情を楽しそうに見下ろす。