「沙都子ォ」


玄関のドアを挟んで兄の声が聞こえる。
今、緩んだばかりの心が、きゅっと固まった。


「兄さんは賛成できないなぁ、年下の男なんて」


こつん。

そんな音が聞こえる。

こつん、こつん、こつん。


兄が爪でドアを叩いているのだ。

こつん、こつん、こつん。

まるで私を包囲していると言いたげな、その音。


「少し、待ってて」


そのまま、帰って。

私は心底願いながら、シャワーを浴び着替えた。
爪の音は止んでいたけれど、兄がそこで待っているだろうことは気配で察せられた。

家を出る前にLINEを送る。

葦原くんにだ。

『申し訳ないのだけど、今夜泊めてくれませんか?』

すぐに『了解しました』という返事がきて、安堵した。

部屋を出ると、すかさず兄が言った。


「二子玉川まで送るよ」


「遠慮するわ。電車の中でお客さんにメール返しちゃいたいし」


兄はそれ以上食い下がらず、私たちは学芸大学駅で別れた。


「沙都子が戻ってくるのを、俺は待ってるからな」


兄がホームでつぶやいた言葉だけがいつまでも耳に引っかかっていた。