「清光さまは、どうしてこんなところにいらっしゃるの? 極楽でお会いしましょうと言ったのに」
不思議そうに訊ねる胡蝶に向かって、清光は少し身をかがめ、耳許に囁きかけるようにして小さく言った。
「………一刻も早く虫姫にお会いしたくて、地を這って参りました」
「まあ、虫姫ですって?」
胡蝶がぱあっと目を輝かせる。
「なんてすてきな呼び名なの!」
感動したように言われて、清光はぷっと噴き出した。
「参ったなあ。からかったつもりだったのだが」
「え? どういうこと?」
胡蝶がきょとんとしている。
「いや、お気になさらず」
「変なひとねえ。女装していたり、急に笑ったり」
清光が自分のまとっている着物を見下ろして、小さく笑った。
「この女装には意味があるのですよ。男の姿では忍び込めそうになかったので、下女のふりをしようと考えたのです。そうしたら怪しまれずにお屋敷に入れるでしょう?」
すると、今度は胡蝶がくすくすと笑った。
「まあ、間抜けね。そんなに大きな女はいないわよ。すぐにばれるわ。最初にあなたを見つけた男童も、立蔀のかげに男の人がいる、と言っていたそうよ」
清光は情けない顔で頭をかいた。
そのとき、胡蝶が突然、「あっ!」と声をあげた。
何事かと清光が目を向けると、胡蝶は目をまんまるに見開いて、清光の頭の上あたりをじいっと見つめている。
「いかがなさいました? 虫姫さん」
「そこに、とっても大きな毛虫がいるの」
胡蝶はほっそりとした白い指で、清光の頭の上に伸びている樹の枝を差した。
「まあ、すごい、そんなに大きな毛虫は見たことがないわ」
清光は胡蝶の視線を追って毛虫を見つける。
「なるほど、これは確かに立派な毛虫だ。見事なものだ」
それを聞いた途端、胡蝶は顔を輝かせた。
「分かってくれるの!?」
「ええ、分かりますとも。あなたがお望みとあらば、とって差し上げましょう」
「まあ、いいの?」
「もちろんですよ」
清光は長い腕をすっと伸ばして、ためらいなく毛虫を指先でつまんだ。
それを懐から取り出した畳紙にのせ、胡蝶に手渡す。
「はい、贈り物ですよ」
冗談めかして言うと、
「ありがとう! なんてすてきな贈り物なの!?」
と胡蝶が満面の笑みを浮かべた。
清光は思わず目を奪われる。
こんな笑顔は見たことがない、と思った。
まっすぐで、あけすけで、清らかで美しい笑顔。
―――この笑顔が自分だけのものになればいいのに。
気がついたらそう思っていた。
「烏毛虫(かわむし)の毛深きさまを見つるより とりもちてのみ守るべきかな」
唐突に歌を詠んだ清光を、胡蝶が驚いたように見上げた。
それを見下ろして微笑み、清光が言う。
「毛虫のように黒々と豊かで美しいあなたの眉や髪を見た瞬間から、あなたをとりもちで捕らえてしまいたい、そして側において見つめていたい、と思うようになりました」
胡蝶はしばらくぽかんとしていたが、歌の意味を理解して、弾けるように笑いだした。
「にせものの蛇を贈ってきたり、人をとりもちで捕らえたいと言ったり、まったく本当に変なひとねえ」
「あなたこそ、まったく変な姫君ですよ。そんなふうに全身に毛虫をくっつけて」
「あら、変かしら? こんなに可愛いのに」
「可愛いですが、変ですよ。我々はどちらも変なんです、似た者同士です。きっと前世から縁があるんでしょう」
清光は晴れやかに笑って、そっと胡蝶の手をとった。
それから、ゆっくりと顔を寄せ、愛らしい小さな耳に、何事かを囁きかける。
胡蝶は目をみはってから、頬をほんのりと上気させておかしそうに微笑み、こくりと頷いた。
【完】
*
最後までお付き合いいただき、まことにありがとうございます。
勢いで書き上げた作品なのですが、少しでもお楽しみいただけたら幸いです。
勢いで書き上げたので、虫の季節は無視です(ダジャレではありませんよ!)。悪しからず。
この作品の元ネタは、平安時代に作られた短編物語集『堤中納言物語』の中にある「虫めづる姫君」というお話です。
名前は便宜上、こちらで勝手につけさせてもらいましたが、姫君や御曹司のキャラもセリフも、内容はほとんど変えておりません。
言い方を現代風にアレンジしたくらいで。
姫君は本当に「人間というものはものごとの本質を見極めてこそ……」みたいなことを言っています。
平安時代の物語とは思えないその奥深くリアリティーのあるキャラ設定が、驚きです。
ちなみに、『堤中納言物語』には虫めづる姫君を含めて十編の物語が入っているんですが、どれも面白くひねりのきいた、斬新なものばかりです。
超プレイボーイが意中の姫をさらおうとしたら、なんと間違ってお婆さんを連れ出してしまうお話とか。【花桜折る中将】
急に男が訪ねてきて慌ててお化粧をしたら、白粉(ファンデーション)と間違ってはいずみ(アイブロウ、眉墨)を塗ってしまい、愛想をつかされた女の話とか。【はいずみ】
昔の人も、伊勢物語のような純愛ものや、源氏物語のようなどろどろ恋愛ものだけじゃなくて、
堤中納言物語のようなラブコメも求めていたんだなあ、と発見しました。
現代の私たちと同じですね!
全訳本もたくさん出ていますし、気になった方はぜひとも読んでみてください。
それでは、長々とお付き合いいただき、ありがとうございました。