勝手にチャンネル替えんなよ。


「おまえな。そんなこと言ってっと、あれだぞ。結婚できねーぞ。死ぬまで処女だぞ」

「しょっ……!?」


晶は、圧倒的に強いし、口も脚癖も悪いし、頭もわけ分かんねーほど良いけれど。

たったこれだけで顔を真っ赤にして右ストレートをぶちこんでくるんだから、人ってのは見かけによらねーなあと思うわけだ。


「……あたしは、燿とは違うから」

「なにがだよ」

「あたしはね、あんたみたいにテキトーにホイホイ色んなひとと付き合ったりできるほど、器用でも、スレてもないんだよ」


言ってくれる。俺がこの5年間、どんな想いを抱えてきたのかも知らねえで。

俺だって、自分なりに悩んで、自分なりに選択しながら生きてんだ。好き勝手言ってんじゃねーよ。ふざけんな。


「バッカじゃねーの。玉砕が怖くて告白もできねーようなやつにとやかく言われたくねーよ」

「あんたにあたしの気持ちなんか分かんないよ」

「ぜんっぜん分かんねーな。分かりたくもねえ」


人通りの少ない道でよかった。高校生にもなって、外でこんなに派手な姉弟喧嘩をすることになるなんて思わなかった。


分かる。晶が本気で怒っているのか、そうじゃないのかなんて。17年もこいつの弟をやってきたんだ。当然だ。

そしてたぶん、晶も分かっている。

これがいつもの言い合いなんかじゃなくて、結構な本気バトルだってこと。


「……少なくとも俺は、おまえなんかよりぜってー行動してるよ」


苛々する。晶にこんなに腹が立ったのは、小学5年の運動会以来だ。

あのときも同じだった。

6年生にして初めて選手対抗リレーに出場することになってしまったと、晶がいつまでも鬱陶しくうじうじしていたから。怒ったんだ。うぜーな、もしかしたら1位かもしれねーだろって。

そしたらあいつ、「足の速い燿には分からないよ」って、めちゃくちゃキレてきやがった。こっちは応援してやろうと思ってんのにだぜ。

だったら、毎年当たり前のように選手対抗リレーに選ばれていた俺のプレッシャーが、おまえには分かってたのかよ?


たしかに俺に晶の気持ちは分からないかもしれない。

……でも。


「おまえだって……いつも俺の気持ちなんか分かってねーだろ」


勝手に失恋する気満々になりやがって。この俺がこんなに協力してやってんのに。


「そんなに失恋してえなら、健悟さんの前でもヤンキーみてーな喋り方すればいいし、スカートなんか穿かなきゃいいだろ。めんどくせえんだよ。うぜえんだよ。あーうっぜえ!」

「う……うぜえのはどっちだ! 一方的に喋りやがって!!」

「俺はちゃんと日和さんに好きだっつったぞ」

「うるせー!」


勢いだけでそう言い放った晶の顔が、次の瞬間、豆鉄砲を食らったような間抜けヅラに変わった。


「……は。あんた、いまなんて……?」

「だから。俺は日和さんに玉砕覚悟で告白したぞって」

「なに? 日和? え……ちょっと待って、燿って日和のこと好きなの?」

「だから告ったっつってんだろうが」

「い……いつから!?」

「はじめて会ったときから。詮索うぜえ」


晶には死んでも言わないでおこうと決めていたのに。それこそ絶対に振られるんだ。それが姉貴の友達にだなんて、あまりにもかっこ悪すぎる。

晶はひどく困惑しているようだった。まさに百面相。

俺も突然おかしな恥ずかしさが込み上げてきて、ふたりで馬鹿みたいに変な顔をしていたと思う。


「そ、そっか……。日和かわいいもんな。なんつーか、その……が、がんばれ?」

「うるせーな。こっちは5年も前からがんばってんだよ」

「……うん。さすがにちょっと同情した」

「マジでぶっ飛ばすぞテメェこの野郎」


顔が熱い。だから晶のほうは見れなくて、ふいっと顔を逸らしたまま歩みを進めた。すると、左側から小さな笑い声が聴こえて。

……これだから嫌だったんだ。言わなきゃよかったぜ。


「ごめんね、燿」

「は? なにが」

「あんたの捨て身のビンタは受け取った」

「さんざん殴る蹴るの暴行をしやがったのはおまえだろ。DVだかんな」

「心のビンタだよ、分かってないな。あとこれ愛の鞭だから。鍛えてやってるだけだから」


調子のいいやつめ。おまえのどこに愛があるっていうんだ。


ただ、息を吐いて笑った、その吹っ切れたような横顔を見て、不覚にも。たしかにうちの姉ちゃんはきれいなのかもしれないなと思ってしまった。

晶もいつの間にか女になって、きれいになっていたんだな。知らなかった。


「仕方ないからジャンプ3か月分に延長してやんよ。慰謝料も含めて」

「おーおー。やっすい慰謝料だな」

「あー間違えてサンデー買ってきちゃったらどうしようかなー」

「……ぜひジャンプ3か月分でお願いします」


なぜ俺はこんな姉の恋愛沙汰にてんてこ舞いなのだろうと、我ながら疑問に思う。

でも、たぶん。こればっかりはどう足掻いても仕方ないのだろう。それが姉を持った弟の宿命ってやつなんだ。もう半分は諦めている。


もしかしたら俺は、17年間きっちりこいつに育て上げられてきたのかもしれないな。これが教育の賜物かよ。

ふとそう思って、俺はまたひとつ、うちの姉の恐ろしさを思い知った。





ぶっ飛ばす

間抜けな寝顔と

その腹を


 3.ソファで寝るなよ。




月曜の朝から早速後悔した。


2年生の教室はいつ来てもやっぱり好きじゃないなあ。

ガラ悪いのばっかりだし、うるさいし、チャラチャラしているし。こんなところでうちの弟が毎日生活しているのかと思うと、背中のあたりが少し寒くなる。


「おー、晶」


2年1組への道のりの途中。うしろから名前を呼ばれて振り向くと、朝練を終えたばかりの燿が、制服をきちんと着ないままで突っ立っていた。

こいつはまた、本当にだらしない。


「あんたさ、ネクタイくらいきちんと締められないの?」

「あっちーんだよ」


そう言いながら、わざとらしく襟をパタパタとさせて、弟はくちびるを尖らせる。かわいくない。

腰まで下がったズボンを見ながら大きなため息をついてやった。すると間髪入れずに「見てんじゃねーよ」という文句が飛んできた。


そして燿は不機嫌な顔を隠そうともしないまま、こちらにずいっと手を伸ばす。


「ジャンプ」


あたしはジャンプじゃねーよ。

心のなかでそう毒づきながら、コンビニの袋をがさがさと漁って。ずしっとした雑誌を手渡すと、弟は満足げに笑った。


「サンキュー」


燿はこういうところがある。どれだけ機嫌が悪くても、へこんでいても。食べ物や、大好きな漫画やらゲームやらを渡してやると、瞬時にすべてを忘れるらしい。

馬鹿なのか、切り替えが早いのか。まあどっちでもいいけれど、廊下の真ん中で突っ立ったままジャンプを熟読し始めるのはやめてほしい。

「……ていうか。来週から帰ってからでいいでしょ? 毎週ここまで来るの面倒なんだけど」


17にもなって真剣な顔で漫画雑誌を読み込む燿にそう告げると、その顔が物凄い勢いでこちらを向いた。眉間に深く皺を刻んで。


「は? 無理」


なんだとこの野郎。


「こっちだって無理なんだよ。なにが悲しくて朝っぱらからあんたの教室に来ないといけないの」

「はあ? ジャンプ3か月分って約束したの、おまえのほうじゃん」

「買うとは言ったけど持ってくるとは一言も言ってない」

「んなもん、買うのと持ってくるのはハッピーセットに決まってんだろーが」


全然ハッピーじゃねーよ。とんだアンハッピーセットだよ。


「あのな、俺の一週間はジャンプ無しに始まらねえんだよ」


いつもより半音低い声でそう言い放った弟は、雑誌を顔の横に添えて、得意げにふふんと鼻で笑う。


「……いや、ぜんっぜんキマってねーから」


今朝、一緒に朝食を摂っているときも、同じような台詞を言われた。

月曜はジャンプを読まないと一日を乗り切ることができないらしい。じゃあ火曜から金曜はどうしてんだって話だ。面倒なのであえて訊かなかったけれど。

それでも駄々をこねるので仕方なく持ってきてやったのに。なんだろう、この態度。


「勝手に月曜の朝から終わってろ。とにかく持ってこないからね」

「あーせっかく健悟さんとのこと協力してやろうと思ってんのになあ。おまえって弟不孝なんだなあ」

「くっ……」


いちいち水谷先輩をネタに持ってくるの、いい加減にしてほしい。そして同じくらい、なにも言い返せない自分もいい加減にしたい。

本当は回し蹴りをぶちかましてやりたかった。でも、さすがに学校の廊下だし、それに。


「――あ。晶さん、はよっす」


爽やかな声に名前を呼ばれたので、上げかけた脚を思わず地面につけていた。


「あー大河くんおはよう。大河くんからもなんか言ってやってよー!」

「あはは、また痴話喧嘩っすか?」


きっと彼も朝練が終わったばかりのはずなのに、ネクタイはきちっと結んでいるし、ズボンもだらしなく下がったりしていないし。

彼はいつ会っても100%の好青年だ。こんな好青年がよくうちの弟なんかと仲良くしてくれているもんだと、いつも感心する。


……それに比べてうちの燿は。

再び雑誌に集中し始めた燿を横目で睨みつけていると、大河くんが歯を見せて笑った。


「あ、もしかしてジャンプのデリバリーっすか?」

「そうそう。朝から持ってこいってうっさいんだよ」

「めずらしく朝練に持ってきてねーから訊いたら、きょうは晶さんが持ってくるって。いやー、ご苦労さんっすね」

「ほんとだよ。なんであたしがわざわざ持ってこないといけないんだろうねー」

「いやいや、でもおれとしては晶さんに会えて嬉しっすけどね」


なんだと。またこいつは。さらりとなにを言うか。

大河くんはとっても好青年だけど、わりと軽率にこういうことを言うから困る。べつに本気になんてしていないけれど。

これだから2年生という学年はこわいんだ。こんなのは完全なる偏見だけど。

相変わらず掴みどころのない大河くんに、あたしも彼と同じような笑顔を向けた。そしたら彼も嬉しそうににんまり笑ってくれるんだから、心がほんわかする。

おい、そこでアホ面ぶら下げて漫画を読みふけっている弟よ、見るがいい。この笑顔こそが男子高生の最骨頂だとは思わんか。


「あ、あと、こないだ試合見に来てくれて嬉しかったっす! ぜひまた来てください!」


そんなかわいい笑顔でそんなことを言われたら、毎回でも見に行ってしまうよ。


「彼氏さんと!」


それでも、付け足された爆弾のような単語に、思わず咳込んでしまった。


「――げふっ」

「あれ。違うんすか?」


もちろんそうなればいいなとは思っている。……けど、そんなおこがましいこと、口に出せるわけがなくって。

曖昧に笑うしかないあたしに、今度は燿が反応した。ジャンプの向こう側から、気だるげな瞳だけがぎろりとこちらを見ている。


「いいからまた試合見に来いよ、健悟さんと」

「へあ?」


ぶっきらぼうに、だるそうに。ぼそりとこぼしたその一言に、へんな声がでてしまった。そしたらまた燿の眉間に皺が寄る。


「『へあ』じゃねーよ。じゃ、小テストの勉強するわ」


かわいくない顔のまま、かわいくない声で吐き捨てると、弟は自分勝手に教室のほうへ去ってしまう。

実は燿のほうが何枚も上手(うわて)なんじゃないのかと思った。いつの間にかずいぶん広くなった背中を眺めながら、ちょっとだけ、おかしな淋しさが込み上げた。

「……ケンゴさん」


ぽけっとしているあたしの耳に飛び込んできた、もうずいぶんと聞き慣れた名前。

ただひとつ、それを呼んだのが弟の声じゃないってのが、違和感だ。


「――ってのが、晶さんの彼氏候補の名前なんすね!」

「大河くん……いい笑顔してるね……」

「だってひとの恋バナって面白いじゃないっすかー」


そんな爽やかな笑顔でそんな台詞を言い放つなんて、なかなかいい性格をしていらっしゃる。でも、これくらい強かな彼だからこそ、うちの弟と上手くやっていけているのではないかと思う。

いつも弟がお世話になっております、キャプテン。


「ちらっとしか見てないっすけど、イケメンでしたもんね」

「も、もうこの話突っ込まなくていいよ!」

「燿もケンゴさんのこと尊敬してるって言ってました。すっげーいいひとだって」


あいつはどうしてこうもぺらぺらと。どうせ「晶には釣り合わねー」とか言ってんでしょ。クソ野郎。

早くこの話題を終わらせたくてハイハイと相槌を打っていると、大河くんがふと、「でも」と声のトーンを変えた。


「燿だって実は、すっげー自分に厳しくて他人に甘い、いいやつなんすよねー」

「えー……そう?」


あたしには自己中心的なワガママ坊やにしか見えないけれど。

弟だからって小さなころから甘やかされてきたのを、あたしは誰よりも知っている。そのせいで姉はいつも我慢ばかりだった。


「そっすよ。現にいまだって、なんだかんだで晶さんのこと応援してるし。部活でもそうなんすよ? 実はすっげー努力家で熱いやつなんですから。

……ほんとは晶さんも知ってるくせに」


大河くんはこわい子だなあと、時々思う。目の前でにこっと笑いかける大河くんに、返す言葉がなにも見つからなくって、そのままうつむいた。