「これもいる」
どんどん荷物が
増えていく
6.余計なもんは捨てろよ。
右脚が復活してからの毎日はとても忙しかった。部活、部活、アンド部活。おかげで後期の中間テストはぼろぼろで、終わってみれば再試が3つもあった。
テスト翌日から始まる、恒例の放課後日替わり再試。俺は、そのなかの数学ふたつと英語に、だいたい毎回いる。
「あー疲れた……死ぬ……」
どうして走ってばかりの部活より、ただ座っているだけの勉強のほうが疲れるんだろう。
帰るなりソファに倒れ込んだ俺に、母さんが「制服のまま寝ないでよ」と声をかける。
「どうだったの、再試は」
「……びみょー」
「ええ? だからお母さん言ったでしょ、無理して晶と同じ高校になんか行かなくていいって。入ってからがつらいんだから」
べつに晶がいるから西高に入ったわけじゃねえけどな。俺がこの高校を選んだのは、ほかでもない、日和さんがいたからだ。
でもそういやそうだったか。受験のときは晶を理由にしたんだっけな。姉ちゃんがいると楽だから西高に行きたいとか、テキトーなこと言って。
「晶と同じもん食って同じとこで寝てんのに、なーんで俺だけこんなに馬鹿なのかなー」
「それは頭の構造がお母さんに似たからでしょ」
「たしかになー。そうだよなー」
「ちょっと燿。ちょっとは否定しなさいよ」
ばりばりの銀行マンの親父と、名門大学にさらりと合格した姉。ふたりは本当によく似ている。母さんと俺が似ているのと同じくらいに。
疲れた身体を引きずりながらメシを食って、風呂のなかで再試の記憶をすべて浄化した。うっかり湯船で寝てしまいそうになった。相当疲れている。やっぱり頭使うのは慣れねえわ。
どうしてだろう。バスケだって、なにも考えずにやってるわけじゃねえのにな。ガードは頭使うんだ。
それでもやっぱり数学だけは本当に無理だ。あいつとはソリが合わない。サインコサインタンジェントなんて、これからの人生で絶対使わねーよ。
いや、しかし。こんなことばかり言っていて、果たして俺は春から受験生をまっとうできるのか。
ドライヤーをかけ、歯磨きを終えるころには、すでに俺の両目は半分ずつしか開いていなかった。さっさと寝てしまおう。
そういえば晶の姿が見えなかったけれど、あいつはもう寝てんのかな。いいな。晶はすでに受験終わってんだもんなあ。
電気を消して、ベッドに潜り込んだ。意識が遠ざかっていく気持ちよさに身体をゆだねていると、ふと、壁越しに、変な声が聴こえた。
「なんだよ……?」
声というか、鼻をすする音に近い。暗闇のなかで聴くそれはなかなか不気味で、思わず起き上がって電気を点ける。
晶の部屋に隣接している壁に耳を押し当てた。
姉が泣いていた。たぶん、確実に。あいつが泣いているところなんかほぼ見たことがないから、にわかには信じがたいけれど。それでも、たしかにあいつは隣の部屋で泣いていると思う。
……なんかあったのかな。あの晶が泣くほどのことが。
放っておきたいのはやまやまだ。もう寝てしまいたかった。それくらいには眠たかったし、晶もきっと泣き顔なんか見られたくないだろう。
でも、なんとなく、無視する気にはなれなくて。
余計なお世話だとは思う。でも、滅多に泣かない晶がいまひとりぼっちで泣いている。そう思うと、居ても立っても居られねえよ。だって俺、弟だもん。
「――晶?」
ノックはしなかった。いつもは忘れるだけなんだけど、今回はわざとだ。
「ひっ、ひか……!?」
「夜中にずびずびうるせーよ」
どうして憎まれ口しか叩けないんだろうと、自分でも嫌になる。
晶はベッドの隅で膝を抱え込んでいた。涙に濡れた頬が姉の顔にはあまりにミスマッチで、上手く言えないが、なんつーか、すげえ気持ち悪かった。
「いや、え、ちょ、待……」
「なんかあったんだろ?」
「いやいや……いきなり入ってきて、あんたね」
顔面はもうごまかしきれないほどびしょびしょのくせに、晶は急いで涙を拭う。
それでもあとからあとからあふれるそれを止めることはできず、彼女は途中で諦めたのか、開き直ってわんわん泣いた。子どもかよ。
「見んなばかっ。どっか行け!」
「やだ」
だって俺がいまどっか行ったら、またこいつはひとりぼっちで泣くんだ。晶はそういうやつだってこと、俺がいちばんよく知っている。
ベッドに腰かけた。すると、30センチ右にある細っこい手が伸びてきて、俺の肩をぐいぐい押しのけた。
「……かる」
「は?」
「ひかるう……っ」
やっていることと言っていることがちぐはぐなんだから困る。返事の代わりにぼりぼり頭を掻くと、変な沈黙が落ちた。
晶は相変わらず泣いている。俺の肩を押しのけながら。困った姉ちゃんだ。
「……健悟さんとなんかあった?」
「な……なんで分かんだよっ」
「そりゃおまえ。むしろ晶の悩みのタネっつったらそれしかねーわ」
晶は俺にとってずっと、世界でいちばん目ざわりで、こわい存在だった。なにがってわけじゃないが、いつもなんとなく、姉の全部が鬱陶しかった。
高圧的でふてぶてしい、神経質で口うるさい。晶はいつだって、俺の前では姉でいて。いい意味でも、悪い意味でも、完璧に姉をしていて。
それなのに。そんな姉貴が、いまは女の顔をしている。
「……どうしたんだよ。話せよ」
「燿のくせに優しくしてんじゃねーよハゲっ」
「ハゲてねーよデブ」
健悟さんと再会してから。健悟さんに恋をしてから。健悟さんと付き合ってから。晶は別人のように、急激に女の子になり始めたように思う。
健悟さんのことはそりゃもちろん大好きだけど、やっぱりそれなりに悔しいよ。だって俺、晶のこんな顔、17年間で一度も見たことがなかったんだ。
ふたりのつながりだって、もともとは俺の存在があってこそのものなのに。いまではもう俺なんか蚊帳の外で、ふたりの世界って感じだもんな。嫌になる。
同時に、こんなことを思う自分も、嫌になる。
「……あたし、東京、行かない」
晶が信じられない言葉を放った。
「は? マジで言ってんの? S大蹴るのかよ?」
「うん……こっちの大学受け直す。センターはいちおう申し込んであるし……」
「いやいや。そういうことじゃねーだろ。まさか健悟さんと離れたくないからとか言わねーよな?」
そう問うと、その目はばつが悪そうに伏せられて、そのくちびるは言葉に詰まった。どうやら図星らしい。
我が姉ながら、これはちょっとひどすぎる。
「だ……だっせ……」
「はあ!? こっちは真剣に悩んでんのに……!」
「いやおまえ、それはさすがにだせーよ」
もし自分の彼女がこんなことを言いだしたらと思うだけで、正直ゾッとする。
たしかに、晶の離れたくないって気持ちはよく分かる。俺だって好きなやつとはそりゃ一緒にいたいし、実際いざ離れるとなればきっと想像以上に淋しんだろう。健悟さんだって同じだと思う。
でも、男としてはさ。そこはやっぱり笑顔で「行ってこい」って言ってやりたいところなんだよ。間違っても「行くなよ」なんて、口が裂けても言えねーよ。かっこわりいじゃん。
晶はちょっと男心ってもんが分かってなさすぎる。
「健悟さんはなんて言ってんの」
「『応援してる』って……」
ほらな。
晶はいったいなにが気に入らないのだろう。なにをそんなに泣いてんだろう。
「でもさあ、先輩は全然淋しそうじゃないんだよ。あっさり笑顔でそう言ったんだよ。なにそれって感じじゃん……」
「あー」
「もしそれが本心ならそれはそれで嫌だし、本心じゃないとしても嫌だしさあ……! なんなんだろう!!」
「あー」
頭が良いやつってのは面倒くさい。そんなに深く考える必要ないんじゃねーかと思うのは俺だけだろうか。素直に「ありがとう」って言っとけばいいのになあ。
男と女とでは感性が違うのかな。まあ、脳の作りも違うって言うしな。
それにしたって面倒くせーよ。彼女にこんなこと言われたら喧嘩になる自信あるわ。
「ちょっとあんた聞いてんの」
「聞いてんじゃん」
「ずかずか勝手に乗り込んできたかと思えばその態度! なにそれ!!」
「なんで俺が怒られてんだよ……」
よくこんな女に付き合っていられるなと、ちょっと健悟さんに同情した。姉が本当にお世話になってます。ほんとすいません。
「おまえさあ。仮にこっち残ったとしても、そんなんだったら続くもんも続かねーぞ?」
「……じゃあどうしたらいいの」
「健悟さんを信じて東京行けよ」
……で、黙るのか。やっぱり腑に落ちないらしい。
俺は晶に比べたら相当馬鹿だし、男だから、こいつの気持ちなんか全然分かんねーな。健悟さんの気持ちのほうがよっぽど分かるよ。
思わずため息をついてしまった。すると、晶はまた隣でぴーぴー泣きだした。
「……どうして燿も先輩も、そんなに余裕があるの」
「なにが」
「離れても絶対大丈夫なんていう保証がどこにあるんだよ……っ」
晶は、たぶん。中学のころからずっと健悟さんのことが好きだったんだ。なにも言わなかったし、本人もきっと自覚はしていなかったと思うけど。俺はずっと、なんとなくそうなんだろうなと思って見ていた。
それが高校生になって偶然再会して、色々あって、付き合うことになって。しかもそれがはじめての彼氏で。それまで男の陰すらなかった晶にとっては、世界がひっくり返るような出来事だったと思う。
ピュアなやつなんだ。面倒くさいけど。それもきっと、だからこそなんだろう。
遠距離恋愛なんていまどきめずらしい話でもないのに。まるであした地球が終わるみたいな顔で泣いてんだから、恋ってのはすげえんだなあとしみじみ思うのであって。
年甲斐もなく、そしてガラにもなくびいびい泣いている姉を、どうしようもなくいじらしいと思ってしまった。
「なに見てんのっ」
「べつに」
「半笑いじゃねーかよっ」
「ブスが泣くとさらにブスだなーと思って」
「……ぶっ飛ばすぞテメェ」
健悟さんの前では絶対そんなこと言わねーくせに。
自分を泣かせた彼氏の前ではかわいこぶって、こうして話を聞いてやっている弟はサンドバッグにするのかよ。上等だ。
「なあ……おい、そんなに泣くなよ、姉ちゃん」
おまえが泣いてると調子狂うんだ。なんか俺も泣きたくなる。
俺が泣いているときは、晶はいつだって背筋を伸ばして叱咤激励してくれていたのにな。情けねえな。
やっぱり俺は、どんなにかっこつけたって、こいつの前では弟なんだ。
・・・
本当は、俺から健悟さんになにか言おうかとも思っていた。でも俺がそうする前に、彼は翌日の朝からうちに来ていた。
「おお燿、おはよう。そしてお邪魔してます」
「……え?」
週末の朝ほど気持ちいいもんは無いと思う。10時起床、最高。部活がなけりゃ夕方まで寝ていられるほど、睡眠は好きだ。
きょうもいつもと変わらない土曜だった。10時に設定しておいたアラームに起こされて、枕元の眼鏡を手探りで装着し、あくびをしながらリビングに向かう。正直、結構な間抜けヅラだと思う。
まさかこんな寝起き姿を健悟さんに見られる日が来ようとは、想像すらしていなかった。
「えっ、なん……えっ? えっ!?」
ただでさえ回転の遅い頭が、さっきまで寝ていたせいでもっと回らない。「え」しか言えない俺に、健悟さんはからからと笑った。
その笑顔はまるで、週末の朝の太陽みたいに眩しかった。
「ほら燿、ちゃんと挨拶しなさいよ、お世話になったひとなんだから。そんなだらしない格好で恥ずかしい」
母さんが横目で俺を睨む。
そうか。健悟さんは中学のときの部活の先輩なんだから、母さんも当然知っているのか。母さんは健悟さんを「水谷くん」と呼んだ。
「それにしても、まさか晶の彼氏が水谷くんだったなんてねー。燿が中学生のときからイケメンだと思ってたのよお」
健悟さんは困ったように笑っていた。その隣で、晶はむすっと口を尖らせていた。
……いやいや。ちょっと待てよ。いったいなにがどうなってこうなってんだよ!