おじさんがあきれたように笑った。
「おまえは泣いてばっかりだな」
だって、おじさんが言ったんだ。泣き虫でもいいって。
あたしの頭を抱き寄せ、ぽんぽんと優しく撫でてくれた彼の背中に思わず手をまわす。力いっぱいしがみつく。
そして泣いた。わんわん泣いた。おじさんのシャツがぬるいしずくで濡れていくのがわかる。
「心配しなくても俺は大丈夫だから。よもぎもいるんだし」
耳元で、低い声が言った。まるで心を見透かされているみたい。
「……なあ、おまえは優しいな。ありがとうな。祈、俺のために泣いてくれるのは、たぶんもう、おまえだけだよ」
泣くよ。いくらでも。その心に灯りをともせるのなら。少しの救いになるのなら。このしょっぱい水滴が枯れても、おじさんのためにあたしは泣く。
佐山和志は、悲しい男。さみしい男。それでいてとても優しい男。
あたしの、好きな男。
「……あたし、絶対に後悔する」
「なにを?」
「ここを出ること。でも、きっと……おかーさんのところに帰らなくても、後悔する」
「そうか」
人生はニガイ選択ばかりで、嫌になるね。
「和志さん、あたし、どうしたらいいかなあ? 正解がわかんない。わかんないよ……」
卑怯なことを言っているって、わかってる。でも絶対に間違えたくないんだ。ここだけはなんとしても正解を選びたいんだ。
おじさんが引き止めてくれるなら、あたしはここに残る生活を選ぶと思う。でも、おじさんがそんなことをしないひとだって、あたしはもうじゅうぶんすぎるくらいに知っている。
「正解なんてどこにもねえよ」
鼓膜を揺らしたのは、とても強く、まっすぐな声だった。
「もしあったとしてもそんなのは完全じゃない。たとえば誰かの言ってることが正しいとして、おまえが間違ってる理由にはならねえし、逆も同じだろ?」
「……うん」
おじさんの手のひらがそっと背中に降りてきた。そして、ぽんぽん、あやすみたいな手つき。
「だったら自分で考えろ。自分で決めろ。拙くても、それが“正解”になるから」
圧倒される。やっぱりおじさんは大人だなって思う。
この絶対的な差に振り払われないようにもっと強くシャツを握りしめると、おじさんは今度は優しくあたしの背中を撫でた。
「……でも、ゆりさんのところに帰ること、すげえ『正しい選択』だと思うよ。祈とゆりさんは家族なんだから、そうするのがいちばんだろうって、俺は最初から思ってたよ」
おまえにはいっしょにいられる家族がいるんだから――と、言われているような気がした。
「それに、家に帰ったからってもう会えなくなるわけじゃねえよ。その気になればいつだって会える」
「……うん」
「だからびいびい泣くな。永遠の別れじゃない」
そうなんだけど。それは、わかってるんだけど。
おじさんがどうとかじゃない。ほんとは、あたしがさみしい。おじさんと過ごす時間を手放すこと、あたしのほうが、さみしくてしょうがないんだ。
「夜ごはん、食べに来てね」
「ああ、気が向いたら」
「よもぎの散歩にもいっしょに行かせて」
「そうだな。よもぎも喜ぶと思う」
「アトリエ、いっぱい遊びに行っても怒らないでね」
「わかったよ、うるせえな」
だっておじさんって、知らないうちに消えてしまいそうだから。実体のあるうちに、さわれるうちにつなぎとめておかないと、もう二度と会えなくなる気がするんだよ。
「ちょっとずつ荷造りしねえとな」
できればあたし、おじさんと“家族”になりたい。
とても軽率な、子どもっぽいこの願いを口にしたら、この男はどんな顔をするんだろう。なにを言うんだろう。
◇◆ SUNDAY
個展『流動』は、県でいちばん大きな駅前にある、小さなビルの一角で、7月17日から開かれた。開催された初日におじさんに連れられて行った。日曜だった。
お師匠さんに会う前、おじさんといっしょにぐるりと観覧した。いろんなものが展示されていた。手ぬぐいとか、のれんとか、壁掛けとか、いかにもって感じの。
一着、着物があって、すごくきれいだと思ったよ。薄い水色の布に、やわらかいピンクの桜が散っている着物。圧倒された。まるで本当に春の空に桜が散っているみたいだった。おじさんのお師匠さんだもん、スゴイに決まっているね。
でも、やっぱり違うんだなって思う。
おじさんの作品とはぜんぜん違う。なにがって言われたらわからないけど、なんか違う。作品の全体的な雰囲気っていうのかな? お師匠さんの作品は、おじさんのに比べてとがっているような気がした。どことなく強い感じで……。
染めものって、簡単そうに見えるけど、誰にでもひょいひょいできるものじゃない。もろにそのひとのセンスが出るから。
フロアの一角には、おじさんの作品も、あたしの作品もあった。やっぱりちょっと恥ずかしかった。おじさんは「いいな」って言ってくれたけど、こうして見るとあたしに染めものは向いてないって思うよ。
「どうもお疲れさまです、真鍋(まなべ)さん」
ぐるりとまわったあと、和服を着た、いかにもそれっぽい初老の男性に、おじさんが声をかけた。
「ああ、佐山くん……と、きみが中澤祈さんですね? はじめまして、真鍋稔(ミノル)といいます」
なんだ。ぜんぜん『コワイじいさん』じゃなさそうじゃん。小柄なこともあってか、むしろおじさんよりもうんと優しそうに見えるよ。
こんなおじいさんがあの力のある作品を染めたのかって、変に感心してしまう。
「はじめまして、中澤祈ですっ」
「佐山くんから聞いていたとおり、かわいらしいお嬢さんですね」
そんなことを言っていたのか。と、うれしさ半分、照れくささ半分でおじさんを見上げても、彼はいつもの真顔で。
なんだ、真鍋さんのお世辞か、わかってたけどさ。
このたびはおめでとうございます、と言って、おじさんが行きしなに買った日本酒を真鍋さんに手渡す。おじさんはお酒を飲まないひとだからすごく悩んでいた。真鍋さんは日本酒に目がないらしい。
「ああ、すみません、ありがとうございます。それと、素敵な作品も本当にありがとうございました。きみたちのおかげで素晴らしい展覧会にすることができました」
うれしそうに紙袋を受け取った真鍋さんが言う。あたしを見てほほ笑んでくれたその顔を見て、『コワイじいさん』っていうのはおじさんのいつもの冗談だったって確信した。
「そういえば、佐山くん。僕のお師匠がきみに会いたいと、きょういらしてるんですよ」
「俺に?」
「以前からきみの作品に非常に興味を持っていらしてね。一度話したいと何度もおっしゃっていたものですから、お呼びしてしまいました」
おじさんの、お師匠さんの、お師匠さん。職人の世界ってのはタテのつながりがすごいんだ。おじさんはお弟子さんをとらないのかなあと、ぼんやり思った。
「――こんにちは、岡本ミチです。遅くなってしまってごめんなさいね」
いい意味で低い、おばあさんって感じの声。
ふいに落ちたそれに振り向くと、ベージュと黄色のあいだっぽい色の着物を身にまとった、小さくて小太りのおばあさんが立っていた。
いつの間にか体ごと彼女に向き直っているおじさんを見て、あたしもあわててまわれ右をした。
「岡本先生、こちらが佐山和志くん、こちらが中澤祈さんです」
真鍋さんが紹介してくれるのに合わせて、おじさんが頭を下げるので、真似をした。ぎこちない会釈になってしまった。
「はじめまして、ずっとお会いしたかったのでとてもうれしいわ」
「こちらこそ……岡本先生にお会いできるなんて光栄です。ありがとうございます」
ふたりが頭を下げあい、握手をする。岡本さん、エライひとなのかな。おじさんも真鍋さんも『先生』って呼んでる。
「こちらの作品も拝見させていただきました。あなたの作品はいつも拝見しているのよ。あなた、本当に優しい染めものをするから、私、大好きなんですよ」
岡本さんが言う。おじさんはまた小さく頭を下げた。
「ところで、少し折り入った話をしたいのだけど、いいかしら。大切な話よ」
ていねいで、品のあるしゃべり方だけど、とても力のある言い方だった。相手に『ノー』とは絶対に言わせないような。職人の世界で生き残ってきた女性ならではの強さみたいなものをひしひしと感じた。
おじさんも圧倒されていた。いつものポーカーフェイスなんだけど、たじたじって感じ。おじさんは、あたしにとってとても大人だけど、この世界では若造なんだなあって思う。
こうやって時代は進んでいくんだって、おかしなところで感心したよ。
あたしより大人なおじさんより、もっと大人がいて、そのまたもっと大人な存在がいる。そしてあたしも、誰かにとっては大人で……。なんだか途方もないな。
「真鍋さん、祈ちゃん、ごめんなさいね。佐山くん、少し借りるわね」
岡本さんが申し訳なさそうに言った。続けておじさんが「いい子にしてろよ」って言った。いつまでも変にガキ扱いして、ほんと、腹立つなあ。
真鍋さんとならんで、ふたりのことを見送った。裏に事務所があるからそこで話をするらしい。真鍋さんの個展なのに、当たり前のように事務所に出入りできる岡本さんは、やっぱりスゴイひとなんだと思った。
ふたりでなんの話をするのかな。あたしが聞いたらマズイ話なんだろうか。
「佐山くん、いい顔をするようになりました」
ふたりの姿が見えなくなるなり、ふと、真鍋さんが言った。ひとり言みたいだった。でもなんとなく、話しかけられているのかもしれないとも思った。
「祈さんのおかげですね。ありがとうございます」
深々と頭を下げられる。何事かと思う。
「佐山くんに『17の女の子を預かることになった』と言われたとき、はじめ、僕は反対したんですよ。……彼の妹さんのこと、きみはご存知ですか」
うなずくと、真鍋さんも小さくうなずいて、あたしから視線を外した。つられてあたしも正面を向く。同時に、展示品のいろんな色が目に飛びこんできて、なんだかまぶしいような感じがした。
「正直、心配でした。17歳――妹さんが亡くなった歳と同じ年齢の女の子と同居するなんて、彼の傷を開いてしまうようなことではないのかって。僕が彼と出会ったのは妹さんが亡くなった直後なんですが、当時の彼はまるで廃人でしたから」
「え……」
優しくくぼんだ目がこっちを向いて、悲しげにほほ笑む。
「佐山くんと出会ったのは、7年前、ちょうど僕が個展を開いているときでした。痩せこけた、青白い顔の男性が、フロアにあるベンチに一日中腰かけていてね、ぼうっとしているものですから、思わず声をかけたんです」
おじさんは最初、声すら出そうとしなかったらしい。目の焦点は定まっておらず、髪もひげも伸び放題だったって。生きているのか死んでいるのかわからないほどだったって。
「たまらず家に連れ帰り、あたたかい食事を出しました。佐山くんは食べながら泣いていました。そうして、ご家族のこと、話してくれたんです。『自分はなんのためにここに生きているのか』と、繰り返し言っていましたよ。もういっそ死にたい、とも」
心臓がずくんと痛くなった。体がこわばる。
真鍋さんと出会っていなかったらおじさんはもうこの世にいなかったのかもしれないと思うと、いてもたってもいられなくて、叫びたいような気持ちになった。
「どうして僕の個展に来てくれたのかと問うたら、『妹は塗り絵が得意で』と言っていてね。それならと、彼をこの世界に引っ張ってきたんです」
そうだったのか。どうしておじさんがこの道を選んだのか、なんとなくずっと気になっていたけど、そんなことがあったんだ。
「こんなことあたしが言うのもおかしいですけど……。真鍋さん、ありがとうございます。おじさんのこと救ってくれて、ほんとに……」
真鍋さんとおじさんは運命的な出会いを果たしたんだと思う。でも全部が必然だったようにも思う。なにかがどこかで少しでも違っていたら、おじさんはいまここにいなかったのかもしれないし、あたしとおじさんは出会えていなかったのかもしれない。
不思議だね。この世界は、不思議。見えない力がはたらいてるんだろうなって思わずにはいられない。
「佐山くんは僕にとって息子みたいなものです。だからとても安心しているんですよ。きみとの暮らしが、彼にとっていい方向に動いたようで、本当によかった。彼、とてもまるくなりましたし、なにより、以前よりいいものを染めるようになりました」
真鍋さんが目を細める。そして、とびっきり優しいほほ笑みを向けてくれた。目尻に刻まれたいくつもの深い皺が素敵だと思った。
「きみのこと、とても大切な存在だと、彼は言っていたんですよ。あまりに穏やかな顔つきだったんで少し驚きました」
うそ……。
「祈さん、きみが彼を生き返らせてくださったんですね。ありがとうございます、これからも、彼を、どうかよろしくお願いしますね」
言えなかった。もう少ししたらおじさんのところを出ていこうと思っていること。
同時に、ものすごく大きな、恐怖みたいなものが胸を押し上げてくるのがわかった。
やっぱりあたし、あの部屋にいるべきなんじゃないかって、おじさんとよもぎといっしょにいるべきなんじゃないかって、こわくなった。
◇
最後のカボチャを食べ終えたおじさんがスプーンを置いた。夕食の夏野菜カレー。いっしょに煮込むんじゃなくて、ポークカレーに焼き野菜を乗っけたやつ。きのうテレビで紹介していておいしそうだったからこれにした。レシピはうろ覚え。
「ごちそうさま。あとでシュークリーム食うか」
ネットとかでもけっこう話題になっているらしい、郊外にある老舗店の限定シュークリーム。『きょうはありがとうね』と言って、帰り際に岡本さんがくれたんだ。
「うん」
うなずいて、最後のナスを口に放りこむ。ごちそうさまと手を合わせると、おじさんが当然のようにふたりぶんの食器を下げてくれた。
「そういや、荷造りは進んでんのか」
カウンターの向こう側から声をかけられる。シンクに流れる水の音のせいで聞こえないふりをして、無視を決めこもうかとも思ったけど、やめた。あまりに子どもっぽいんじゃないかと思ったから。
どうして突然そんなこと聞くんだろ。いままで一度もそんなこと言わなかったくせに。なんにも準備していないこと、もしかしてバレてるのかな。
「ぼちぼち」
進んでるとも進んでないとも答えたくない。いつ出ていくとか、そういう具体的な話をしたくない。自分で出ていくって言ったくせに、その日を迎えること、すごく恐れてる。
「ボストンバッグとキャリーケースのぶんだけだろ。すぐ終わるんじゃねえのか」
そんなふうに言わないでよ。それじゃまるで追い出そうとしているように聞こえるよ。
おじさんは最近また、前みたいに閉ざしているような気がするから、さみしい。