「こんなおっさんの人生なんか、ジェーケーにはきっとつまんねえよ」
前置きみたいにおじさんは言った。
「両親が、中学2年のときに死んだ」
こわいほどに落ち着いた声。
「飲酒運転のクルマと正面衝突で即死だったらしい。妹――未奈(ミナ)っつうんだけど、あいつはまだ6歳で、両親の遺体を見てもわけわかんねえって顔してたな。でも俺にしがみついて大泣きしてた」
その後、おじさんとミナさんは施設で育ったらしい。
おじいさんとおばあさんもそのときすでに亡くなっていて、頼りになる親戚もおらず、そうなるのは仕方なかったって。むしろ施設に入れてもらえるだけでも幸せだったと、おじさんは穏やかな口調で言った。
「当時まだ赤ん坊だったさくらは、近所の犬好きの家庭に引き取られて――」
それからおじさんは高校に上がり、バイトをしながらなんとかひとり暮らしをしていたらしい。
家族で住んでいた家の近くにあるボロアパートを借り、社会人になるとミナさんを引き取って、貧しいふたり暮らしが始まって。ちなみにこのころにはもう、おじさんはおかーさんといっしょ仕事をしていたらしい。
「何年かして、貯金もそこそこ貯まって、収入が落ち着いてきたところで、さくらと、そのときには生まれてたよもぎをまた引き取って、ペット可のマンションに移った。未奈がどうしてもさくらとよもぎと生活したいってきかなかったんだよ、あいつはちょくちょく会いに行ってたみてえだし。
で、当時婚約してた女ともゆくゆくはいっしょに住むつもりで、俺たちはこの部屋に越してきた」
婚約――結婚の約束。
おじさんには無縁なものだって思っていたからちょっと意外だった。人並みに恋愛をしていたんだろうなとは思っていたけど、コンヤクシャって、ちょっと重たい響きだよ。こんなタイミングで胸が痛い。
「まあ、未奈とさくらが死んでとても結婚どころじゃねえし、あっさり破談になったんだけどな。そのタイミングで仕事もやめた。
ゆりさんはすげえ心配してくれてたよ。いまだにいろいろと気にかけてくれてるのはそのころの俺があまりにもひどかったからなんだろうな。ほんと、すげえ世話になったよ。感謝してるんだ、おまえのオカアサンには」
本当に頭が上がらねえよ。と、おじさんは続けた。
「ミナさんは……どうして、亡くなったの?」
踏みこんでもいいことなのかわからなかったけど、おじさんの顔を見ていたら、なんだか聞かずにはいられなかった。
「ああ……あいつも交通事故だよ。さくらの散歩中に信号無視のトラックにはねられて、未奈もさくらもそのまま。よもぎはここで俺と寝てて無事だった。
よりにもよって俺が二日酔いでぶっつぶれてた、日曜の朝に起きた事故だったし、正直すげえ後悔してる。普段はふたりで行く散歩をひとりで行かせたのが間違いだった」
おじさんは、ひとりだ。
「未奈はそんな理由で死んでるし、両親は飲酒運転のクルマにやられてるし、俺はそれから酒がめっきりダメだな」
この男は、なんでもない顔で語るけど、あんまりにもひとりぼっちだ。
だからずっと閉ざしてきたんだ。もう誰も失わないように。
きっと婚約者のこともすごく愛していて、だからこそ破談にしたんだ。大切な存在だったから、自分の手で消したんだ。消えてしまう前に、消したんだ。
だってこわいに決まってる。臆病になるよ。おじさんは、あまりに多くを失くしすぎてる。
でもおじさんは、こわいってことを婚約者に伝えられなかったんじゃないのかな。誰にも伝えられていないように思う。
おじさんってそういう男だよ。不器用な男。大切なものを失ってきた、さみしいひと。
いとおしい――と、思った。
そんな気持ちはよく知らないけど、きっとこれがそうなんだってなんとなくわかった。
いとおしい。
佐山和志という15も年上の男が、こんなにもいとおしくてしょうがない。
「祈が泣くことじゃねえだろう」
気づけば涙がぼとぼと落ちていた。それをぬぐおうと手を伸ばしてくれた彼を、先にあたしが抱きしめていた。
「消えないよ」
そして言った。こみ上がってくるおえつを噛み殺して、一生懸命に声を出した。なにがなんでも伝えたかった。
おじさんの体がこわばっているのがわかる。大きな体。でもとても、とても小さな体だ。
「あたしは、消えない。和志さんの前から絶対、絶対に消えたりしないっ」
消えない。おじさんが消えてなくなるその日まで、あたしだけはずっとここにいる。
ほんとだよ。一生をかけて証明したっていい。そんなバカげたこと、けっこう本気で思っているよ。
腕にぎゅっと力をこめる。おじさんのうなじのあたりをつかんだ。痛いくらいに強い力で。あたしの存在を知らせるために。彼の存在を確かめるように。
「ああ……そうだな。おまえにまで消えられたら、さすがに困る」
それはどういう意味?
あたしがいなくなったら、おじさんは困る? 困ってくれるの?
それは、あたしが少しでもおじさんにとって意味のある存在だって、うぬぼれてもいい?
「ありがとうな、祈」
あたしの髪を撫でながら、おじさんはとても優しい口調で言った。それはいつもの子どもをあやすみたいなのとはちょっと違う。
「なあ、もう、泣きやめよ」
あたしはこの男のことがどうしようもなく好きなんだと思った。いままでのどんな“恋”とも似ていない、この気持ちは、もっと特別な想い。
シクシク胸が痛むけど、この世でいちばんあたたかなもの。
◇◆ SATURDAY
朝のアトリエは独特のにおいがする。
木の湿ったようなにおい。草を乾燥させたようなにおい。なんだかなつかしいような気もする、新しい香り。
少し車を走らせればイマドキの都会の景色が広がる街に、こんなにも穏やかな空気が存在しているって、たぶんとても貴重なことだね。
黙々と作業をしているおじさんを、少し離れた場所からぼうっと眺めていた。きっとあたしの存在なんかすっかり忘れてる。それくらい作業に没頭しているおじさんの真剣な横顔が好きで、気付けば何時間もたっていることだってある。
いつもはやる気のなさそうな顔が男らしくなるんだもん。額に汗をかいたりもしてる。どきっとする。
「楽しいか?」
手を止めたおじさんが、こっちを向いてあきれたように言った。
「楽しいよ」
「見てるだけだろ」
おじさんはなんにもわかってないな。そういうのが、いいんだよ。
「おまえもこっちでいっしょにしたらいいのに」
いままでもたびたびアトリエに遊びに来ることはあったけど、最近はほとんど毎日、こうやってついてきている。邪魔だったりしないのかなとも思うけど、おじさんはいつも連れてきてくれる。そしてずっとこうして傍に置いてくれる。
たまによもぎも連れてくるよ。そういうときは駐車場でいっしょに遊んだり、河川敷が近いので、よもぎとふたりで散歩をして帰ってくることもある。
こういうのがずっと続いていけばいいな。穏やかで優しい毎日が、ずっと。
でも最近、同じくらい不安になる瞬間が、たまにあるんだ。
「そろそろメシにするか」
てきとうなところで作業を切りあげたおじさんが言った。
いちばん大きな机を片付けてふたりぶんのお弁当を広げる。お重みたいなそれに詰まっているもの全部、わたしの手作りだ。こうしてアトリエにお弁当を持ってくるのも最近は日課みたいになった。お弁当箱はわがまま言って買ってもらった。
最初のうちはぜんぜんダメだったよ。なにをどんなふうに詰めたらいいのかわからなくて、スッカスカのクソまずいお弁当しかできなかった。いまはちょっとマシ。
それでもおじさんは毎日全部食べてくれる。相変わらず、オイシイとも、マズイとも言ってはくれないけど。
きょうはしょうが焼き弁当にした。おじさんの好物。
ほかにもいろいろ入っているよ。きんぴらごぼう、きゅうりのごま和え、エトセトラ。たまごやきは毎回入れるけど絶対に甘くないやつ。甘いのはどうしても苦手なんだ。
それにしても、味付けのりをぐるりと巻いた俵おにぎりを頬張るおじさんの食べる姿を見て、やっぱりとてもきれいだなあと思う。
「箸の持ち方とか、食べ方とか、いちいち品があるよね。マナーとかむずかしいことはあんまりよく知らないけど」
早口で言って、きゅうりをぼりぼりかじった。
おじさんはのんびり口を開いた。
「まあ、親がいねえからってナメられたくなかったし」
ちょっとわかる気がする。そういう変なところをわかってしまうこと、どこかでうれしくも思っている。
お弁当が半分ほどなくなったところで、ふと、スマホが震えた。サユからのLINEだった。
「ねえ、サユ、背泳ぎで8位入賞だって、県大会」
「へえ、すげえな」
「三宅は自由形優勝だってさ」
そういえば7月の頭に大会があるって言っていたね。なんの大会かはよく知らないけど、去年もこれくらいの時期にそういうのがあったっけなあ。
すごいな。サユも、三宅も。いいな。熱中できるものがあって、いいな。部活をがんばっているふたりのこと、素直にかっこいいって思うよ。
同時に、あの嫌な感じがぽこっと顔をだした。
なんともいえない不安な感じ。背中をじりじり責めたててくるような、気持ち悪い、焦りみたいなもの。
「……あたしは、このままでいいのかな」
思わず言葉に出してしまっていた。
おじさんとよもぎと過ごす毎日は、とても穏やかで、幸せで、夢みたいだよ。ずっとこの毎日が続いてほしいって思う。ずっと“こっち側”にいたいって思う。ぶっきらぼうで優しいおじさんの、傍にいたいって。
でもきっとそれは無理なんだろうなってこと、なんとなくわかる。
「あたしはいつまでここにいられる?」
言ってすぐに後悔した。
その日までのカウントダウンを、自分から始めてしまったような気がした。
「おまえはいつまでここにいたいと思ってんだ」
おじさんは箸を置いて言った。ちょっとまじめな言い方だった。
「そんなの、ずっといたいよ」
おどけたように返事をしたのはわざとだ。
「ずっとってなんだよ」
「死ぬまで」
「バカか」
もちろん半分は冗談だよ。
それでも半分は本気。
おじさんは受け流すみたいに少し笑って、またお弁当を食べ始めた。
「……ねえ。あたしって、なんにもないじゃん」
言葉にするとずっと重たい。なんにもない。
サユや三宅には水泳があるのに。おかーさんには仕事があるのに。おじさんには、染めものがあるのに。
あたしにだけ、なんにもない。
「将来の夢もない。それどころか、学校にすら……ちゃんと行けてない」
それをワルイコトだとも、間違ったことだとも思わないけど。
でも決して正しいわけではないってことも、ほんとは知っている。
あたしは、いつまで逃げるんだろう?
いつまで“あっち側”を毛嫌いするんだろう?
いつまでおかーさんやおじさんに甘えるつもりなんだろう?
「学校行って夢を持つことだけがエライってわけじゃねえよ」
おじさんは言った。はっきりと、凛々しい声で。そこには大人の威厳さえあるように思えた。少しナナメの正義がおじさんのなかにはあって、こういうのを信念っていうんだろうなって思う。
「でもきっと、価値はあることだよ」
凛々しかった声が少し丸みをおびる。
「なんとなく学校行って、友達としょうもねえことしゃべったり、いろんなこと仲間とがんばったり。ああ授業だりいなって思うことさえ、きっとすげえ価値のある、愛しいことだよ。学生時代、特に10代ってかけがえのないもんだ。おまえも10年後にわかるよ」
遠い思い出を語るみたいな顔。あたしにとってリアルなこの瞬間は、おじさんにとってもう10年も前の話なんだって実感する。
「そんなの意味ないよ。いま、かけがえないって、愛しいって思えないと、ぜんぜんなんの意味もない。10年後なんか知らない」
「まあ、そうだな」
「過ぎてからじゃないとわかんないなんて、人間はバカだ」
「ああ、ほんとにな。俺もバカだ」
おじさんはくつくつ笑っている。でもあたしは笑えなかった。だって、けっこう真剣に言っているのに、笑って流されてる。気に食わない。
目の前のおじさんをにらむと、彼は気だるげなたれ目をこっちに向けて、笑った。ほほ笑んだ。優しい顔。出会ったころは見せなかった表情だ。
「……でも、あたしも、バカだよ」
まるで頭と心が分離しているみたい。ううん、もしかしたら頭も心もひとつずつじゃなくて、あたしのなかにたくさんあるのかもしれない。
「このままじゃダメだってわかってるんだ。学校行かなきゃって思ったりもする。でも……マジョリティーの世界に飛びこむのはこわい。あっち側に行くのはこわい。みんなと同じになりたいのに、そんなの絶対ヤダって思う」
矛盾した気持ちがぐちゃぐちゃになって、混ざりあうこともなくて、気持ち悪い。