◇◆ MONDAY
きょうも布団が重たい。
「祈(いのり)、起きてる? きょうのごはん代、テーブルの上に置いとくからね」
ドアの向こうからキッパリした声が聞こえた。朝から元気だなぁと思いながら、あたしは半分だけまぶたを持ち上げる。
「はぁい」
ぼやけた世界のなか、かすれた声が出た。
おかーさんのことはすごく好きだ。こんなにきれいで強い女性はきっとほかにいない。おかーさんは世界でいちばんの自慢だ。
だから、そのお腹から産まれ落ちたこと、あたしはとても誇りに思っている。
おかーさんは『美人デザイナー』とかなんとか呼ばれてる、業界ではそれなりの有名人。らしい。仕事のことはよく知らない。聞きたくもない。
「ちゃんと学校行くんだよ? ごはんも買うか、食べに行くかしてね。お昼も」
「はぁい」
おかーさんにとっていちばん大切なものは仕事らしい。
小さいころはよくわからなかったけど、あたしだってもう17歳になるんだし、さすがにわかってきたよ。あたしがイチバンじゃないってことくらい。それをいまさら悲観するつもりもない。
「じゃあ私、仕事行くね。いってきます、祈」
全部ドアの向こう側でしゃべったおかーさんに、どうしてもいってらっしゃいは言えなかった。
時計の針はすでに8時の10分前を指している。そろそろ準備して家を出ないと、朝のHRどころか、1時間目にも間に合わないなあ。
起きぬけの頭でぼんやりそう思いながら、それとは裏腹に、ぼふんとベッドにころがった。鉛みたいに重たい布団を頭までかぶる。
きょう、学校、休んでしまおうか。どうせおかーさんはいないし、眠たいし、身体だるいし。
うん。そうしよう。あたしはきょう、40度の熱が出ているってことにして。
おかーさんが仕事ばかりでも、ほんとに悲観はしてないんだ。
おかーさんに、あたしはすごく愛されていると思うから。
授業参観や運動会、文化祭、そういう学校の行事にはできるだけ来てくれるし、お正月やクリスマスもできるだけいっしょに過ごそうとしてくれるし。
なんでもない日だって、時間の許す限りあたしといっしょにいてくれる。あたしのしょうもない話を楽しそうに聞いてくれる。どんなに疲れていても、休日はどこへでもいっしょに出かけてくれる。
祈、大好きだぞって。もう17にもなる娘に対して、恥じらいも後ろめたさもなく、まっすぐにそう伝えてくれる。
それは全部、お父さんのいないあたしにさみしい思いをさせないように。
仕事もきっと同じ。あたしに不自由させないために、おかーさんはがんばってくれているんだ。わかってる。
おかーさんはスゴイよ。
立派な社会人であり、美しい女性であり、優しい母でもあるんだから。
だからなんにも悲観はしてない。素敵な母親を持てて幸せだって思っているのは本当だ。
でもやっぱり、さみしくないわけじゃないんだよ、おかーさん。
だって、あたしはどうがんばってもおかーさんにとって2番目の存在なんだもんね。
知っているんだよ。
おかーさんが命がけで仕事をしていること。おかーさんがなによりも仕事を愛していること。仕事に換えられるものなんてなにひとつないってこと。
でも、出かけるときもひとりで、帰ってきてもひとりでさ。ひとりぼっちの家の静けさも、返事のない「いってきます」や「ただいま」のむなしさも。
あたし、ほんとは大嫌いなんだ、おかーさん。
「――ん……」
いつの間にかすっかり寝こけてしまっていた。
窓から差しこんでいた朝日はもう夕日に変わっている。人間って本気を出せばいくらでも寝ていられるんだなぁと、寝ぼけた頭でバカなことを思う。
「……もう4時か」
普段だったら6時間目の授業を受けている時間。
学校に連絡入れるの、すっかり忘れていた。あのまま寝落ちてしまっていたよ。
急に脇のあたりがぞわりとした。
ズル休みというものをしたのは生まれてはじめてだ。小学校なんて6年間皆勤だったっけね?
高校も、そういえばきのうまでは皆勤だったんだ。去年の冬にインフルエンザで休んじゃったけど、それって公欠でノーカンだし。
そこまで考えて、なんだか自分のしょうもない記録に小さな傷がついてしまったような気がして、おかしな罪悪感がほんの少しだけ芽生える。
それでも、なんだろうね、やっぱりなんか、やってやったぜって気持ちのほうがぜんぜん大きいよ。ついにグレちゃったのかもしれない。あたしもぜんぜん知らないうちに、どこかイカれちゃったのかもしれない。
おかーさんには連絡いっているかな。おたくの娘さん無断欠席ですよって。
怒られるかな。
でもおかーさん、仕事が忙しくて電話なんて出られないか。
「……起きようっと」
身体が痛い。寝すぎるのもよくないんだな、人間。
リビングに行くと、千円札が一枚、テーブルの上にさみしそうに横たわっていた。
そういえばお腹がすいてる。夜ごはん、なに食べようかな。お昼は寝ていてお金使わなかったから、千円ぜんぶ夕食代にまわせる。
なんかつくろうかなぁ。
とか言いつつ、料理なんてまったくできないけど。
家事は一応ひと通りできるつもりだけど、料理だけはからっきしダメ。こればっかりはおかーさんのDNAを受け継いでしまった。
どうせ似るなら、美人なところとか、強いところとか、要領がいいところとか、そういうのがよかったんだけどな。
あたしは、おかーさんとは似ても似つかない、平々凡々、どこにでもいる女子高生だ。
冷蔵庫をチェックすると、ニンジンとレタス、あとはじゃがいもが少しあった。
今夜は切って盛りつけるだけの野菜サラダと、切って煮るだけのカレーライスにしよう。このメニューならあたしの料理スキルと千円だけでどうにかなりそうだ。
それに、カレーなら置いておけるし、おかーさんも食べてくれるかもしれない。
おかーさんはだいたい、夕食は外食で済ませてくる。自分が料理ダメっていうのももちろんあるんだろうけど、ごはんなんかつくってる時間がないんだ。つまりそれほど帰りが遅いってことだ。
そのくせ、あたしが外食とかコンビニで済ませると、『なんかつくったらいいのにぃ』とか勝手なことを言ってくる。
あたしがつくったら、おかーさんもうちでごはんを食べるかな? 外で食べてくる時間が減るぶん、早く帰ってきてくれるかな?
――リビングがなんともいえない香りに包まれていた。
「焦げてんじゃんか……」
信じらんない。うそでしょ。こんなのってアリかよ?
鍋のなかで黒っぽくうずいているカレーを、しばらくぼう然と眺めていた。知らないうちに濡れた髪からバスタオルがするりと落ちている。
しまったな。火を止めることをすっかり忘れて、優雅に半身浴なんか楽しんだりするから。
そりゃあ2時間も放置していたら焦げるに決まっているよ。IHヒーターは途中で勝手に止まってくれていたみたいだけど、それもすでに手遅れだったらしい。
おいしくなれなかったカワイソウなカレーが、うらめしそうにあたしを見上げているような気がした。
「サイッアク……」
鍋にルウを投入したところまでは完璧だったのに。
『切って煮るだけ』のカレーすらまともにつくることもできないんじゃあ、これは完全に料理のセンスはゼロで間違いなさそうだ。これから嫁のもらい手が見つかるかしら。
それとも、あたしもおかーさんと同じに、男の人には頼らないで生きていくのかな。
無理だろうなぁ。あたしとおかーさんじゃちょっとモトのスペックが違いすぎるもん。
そんなくだらないことを考えながら、もうできあがって冷蔵庫にしまってあった野菜サラダを取り出して、食卓にならべる。ついでにスプーンとフォークも。
「しょうがないか。食べよう」
白いお皿に白いごはんを盛る。その上に、カレーと呼ぶには申し訳ないくらい真っ黒ななにかをぶっかける。
あーあ。もう見た目からして絶対においしくないのまるわかりで、お腹はすいているのに、ごはんがぜんぜん楽しみじゃないよ。