「普通なら"いつも"とか"今日の"だと思って、少し引っかかってたんです」
ただの言い間違い?
それならそうだと言えばいいだけだ。
なのに、水樹先輩は何も話さなくなってしまった。
さっきまで私を見ていた綺麗な瞳も、今は目の前にある体育館をぼんやりと映している。
それは、夏休みが始まった頃に、屋上があまり好きじゃないと呟いた先輩を思い出させて。
ううん、それだけじゃない。
夏休みに入る辺りから、こんな先輩を幾度か見ている。
そして……私はその度に聞きたかった。
「……水樹先輩、何かあったんですか?」
先輩が何を思っているのかを。
不意に、自分の発した言葉で、水に濡れた日、同じことを水樹先輩から聞かれたのを思い出した。
今の私は何かあるのだと確信して聞いているわけじゃない。
でも、水樹先輩の様子に時々違和感を覚えていたから、何かある気がして。
だから、知りたくて自然と出た言葉。
水樹先輩も……そうだった?
私に何か違和感を感じていたから、聞いてきたのだろうか。
体育館裏に入ると、水樹先輩は短いコンクリートの階段に腰を下ろして、私を見ないまま唇を動かす。
「どうしてそう思うの?」
「え……あの……時々、水樹先輩の言葉を不思議に思う時があるというか……」
普段からマイペースなところがあるし、たまに噛み合わない会話が出る人だから、いつも通りと言われればそれまでなんだけど。
それでも、それではないものを感じているから。
それと……
もうひとつ、気になっていた事。
「高杉さんに会いに行った日の朝も、先輩……寝ぼけて私に謝ってたんです」
"ごめん。君をまた"
覚えている言葉を口にすると、水樹先輩の肩が少しだけ跳ねた。
横顔が少しだけ強張っているようにも見える。
これだって、ただの夢だよって言えば終わる会話。
けれど水樹先輩は。
「何かあるとしても、大丈夫。真奈ちゃんが笑ってくれてればそれでいいから」
だから、この話は終わりにしよう。
水樹先輩は
私を優しく拒絶して
子猫たちを見つめた。
アスファルトには陽炎。
空気を震わす蝉時雨と、体にまとわりつく真夏の熱。
私はそれらを感じながら、駅のホームに立っていた。
先ほど流れたアナウンスは、反対側の電車が来ることを告げていた。
私の乗る電車は5分後に到着予定。
今日は生徒会のみんなでバーベキューをする日。
開催地はひとつ隣の駅にあるキャンプ場だ。
遅刻もせず、このまま何事もなければキャンプ場には余裕を持って到着できるだろう。
私は電車を待ちながら、今日の手順を頭の中で確認。
駅に到着したらまず水樹先輩とキャンプ場で合流。
その後、近くにあるスーパーへ買い出しに。
キャンプ場に戻ったら、管理棟で受付を済ませ、みんなが集まるまで待機。
ちなみに、キャンプ場の予約は副会長がしてくれたらしい。
それと、キャンプ場で借りれないようなものは会長と赤名君が持ってきてくれる手はずだ。
きっと今日も騒がしく楽しい一日になるだろう。
ただ……気になるのは、水樹先輩のこと。
昨日、あの後の水樹先輩は普通だった……と、思う。
体育館裏から戻るときも、帰りも、私に対する態度はいつもと変わらなかった。
だからきっと、私が水樹先輩の言葉の真意を知りたがり、しつこく触れたりしなければ問題はない。
気になるけど、先輩が望まないなら踏み込んじゃダメ。
でも、もしも──
「それが、消えてしまう原因だとしたら……?」
不吉なことを口にした途端、私の中に不安が広がっていく。
と、そこへ電車の到着を告げるアナウンスが流れて顔を上げたら。
「望月」
名前を呼ばれ、声のした方向に顔を向けると、ピンクのTシャツに七分丈のパーカーを羽織った藍君が立っていた。
両手はベージュのクロップドパンツのポケットに突っ込まれている。
「あれ? 藍君はまだ早くない?」
藍君は集合まであと1時間くらいは余裕があるはずで問いかけると、彼は小さく首を縦に振った。
「少し気になることがあるから確かめたくて早めに出た。あんたは買い出しだっけ」
「うん。ところで、気になることって?」
バーベキューに関して何かあるのだろうかと思って聞いたんだけど……
「……ちょっとな」
藍君はそれだけ答えて、到着した電車に乗り込んでしまった。
私も藍君に続いて車内へと乗り込む。
夏休みとはいえ、お盆休みも終わった電車内は比較的人もまばらだ。
隣の駅までは5分くらい。
その間、何か考えているような藍君と私は、二言か三言くらいしか会話を交わさなかった。
キャンプ場に着くと、まだ待ち合わせより10分早いせいか水樹先輩の姿は見当たらない。
予約の時間が決まっているから、受付も出来ないし、とりあえずロビーの椅子に座って待っていようかと考えていたら。
藍君が、キャンプ場の入り口に立っているのに気付く。
彼は、青々とした芝生が広がる景色をぼんやりと眺めていた。
「どうしたの?」
藍君の横に並んで話しかけると、僅かな沈黙の後──
「……夢で見るんだ、ここ」
零すように話す。
「夢?」
聞き返すと藍君は眩しそうに目を細めて。
「ここで、あの女の人を追いかけて駆け回る夢」
夢の内容を教えてくれた。
あの女の人と言われて思い当たるのは、1人。
「それって、学校で見たっていう人?」
「そう。あの人が出てくる、子供の頃の夢」
子供の頃?
私が首を傾げたのを知ってか知らずか。
「子供なのは俺だけ」と告げてから、藍君は話を続ける。
「知らないはずなのに……でも、知ってる気がするんだ。懐かしい感じっていうのかな」
「名前は呼んでた?」
「呼んでない。でも、夢を見るようになったのは"えっちゃん"ってのを聞いてからなんだ。その夢で、ちっさい俺は"ねーちゃん"って呼んでたけど……俺、年上の知り合いも姉もいないし」
知らないはずなのに、知ってる気がする。
そして、藍君しか見てないという女の人。
これはもしかしたら……
「……やっぱり藍君の知ってる人で、神隠しにあったってことなのかな?」
「さあ? 試しに家族に聞いたけど、そんな面倒見のいい知り合いは覚えがないって」
それはそうだろう。
高杉さんの言葉やケースを考えても、みんな忘れてしまうんだし。
「でも……ありえなくはない、気がする」
「え?」
藍君の肯定的な言葉に、私は瞬きしながら彼を見つめると、その視線がようやく私を捉えた。
「うちの親、結構年行ってんだ。両親が結婚して10年以上経ってから俺が生まれてるから」
そう、か。
高杉さんの彼女さんが消えたとされる頃と年齢を照らし合わせて計算すると、確かに繋がる気がする。
「高杉さんの彼女さんが……藍君の、お姉さん?」
疑問をそのまま口にすると、藍君は苦い笑みを漏らした。
「だとしたら薄情だよな。家族全員しっかり忘れてるなんてさ。高杉さんは、しばらくは覚えてたみたいなのに」
言いながら、まるで自分を責めるように薄く笑う藍君に、私は首を横に振って否定する。
「藍君は忘れてないよ。学校で姿を二度も見たし、夢でも見てる。それはきっと忘れてないからだよ。だから、ちっとも薄情なんかじゃないよ」
慰めでもなく、ただ、私が感じているありのままを伝えると。