「聖女様、この石像美しいでしょう?精霊王を模したものなんですよ」
マリアンヌは輝く石像を恍惚と見つめていた。
石像は長髪の男性の姿をしていた。
それは抽象的なものではなく、誰かが実際に見て作ったような、精巧な造りをしている。
その足元に魔法陣らしきものが浮かび上がってきているが、その輝きはまだ弱々しいものだった。
「精霊王?どうしてこの城に……?」
「不思議ですよねぇ。でも必然でもあるのですよ。魔物とは精霊になれなかった負の掃き溜めから発生しているので。川で砂金を浚おうとすると必ず泥を一緒に浚うでしょう。可哀想に、創造主を忘れられず奉っていたのですよ。文献通りでした」
マリアンヌは得意げに精霊も魔族も精霊王の創造物だと主張している。
混乱と危機感から、説明された言葉の半分も理解出来ず口を開閉していると、そんな紗希の反応を愉しむような笑みが向けられた。
しかし感情豊かな彼女は、ふと顔を顰めて輝く石像に抱きつく。まだ転移魔法が発動していないのか、魔法陣は淡い輝きでチカチカ点滅している。
「でも破壊されていたのは予想外です。まったく一体誰がこんな不敬なことを……」
マリアンヌが苛立った様子で吐き捨てる。
するとその頭上から突如、大剣を振り翳しバルトが現れた。
「ーー俺だが、悪いか?」
剣は石像の頭頂部に突き刺さり、そして剣の先から霜が降りてきたかと思うとドォンと雷鳴の如く身体の芯まで響く音が上がった。
それが粉塵と化して破壊されたのだと理解した刹那、マリアンヌの風魔法が解けたのか、身体が急降下する。
――ぶつかる!!
「ひっ……!!」
一瞬の出来事で目を瞑り声すらまともに出なかったが、しかし身体はバルトによってしっかりと抱き留められていた。
マリアンヌは撃破された石像に慄き悲鳴を上げる。
「あぁあっ!!精霊様の石像が……そんな、どうして……」
「行く手を阻んできた連中なら、まとめて檻に入れておいた」
バルトがエギルを侍らせるマリアンヌに向けて手を翳すと、たちまち水流で出来た檻が二人を取り囲んでゆく。
その檻は作られた傍から冷気を纏って氷と化し、マリアンヌが風魔法で切り裂くよりも先に彼女の両手まで氷漬けにしていた。
頭と変わらぬ大きさの氷塊がマリアンヌの手を凍結して、その重みに耐えきれなくなった膝が、がくりと地面に着く。
「うっ……打ちひしがれて執務室に篭り切りと聞いたのに……」
恨みがましくマリアンヌはバルトを睨みつけると、表情を変えず言った。
「エギルが念話で小言のひとつ送ってこないのが不自然だったからな。様子を見にきたらこのザマだ」
そして紗希を静かに下ろすと、マリアンヌの元へ歩み寄り、氷の牢屋越しに彼女の前に立った。
「それと俺は打ちひしがれてはない。自分の存在意義が分からなくなり内省していただけだ」
「バルトさん……」
不穏な空気を纏う背中に呼びかけたが反応はない。
次の瞬間、マリアンヌの身体は凍った。
まるであの時の蜘蛛のように。
バルトは氷像となった姿を暫し見つめてから、ようやく振り返った。
視線が交わったのは、ほんの僅かだった。
「遅くなりすみません。何か策があるだろうと疑ってはいたのですが、まさか花雫の乙女の力を使うとは……すぐにレギウスを覚まし、元の世界に返還する儀式をさせますので」
その瞳は紗希を一瞬だけ捉え、横を通り過ぎてゆく。
――避けられてる?
追いかけるように呼びかけた。
「バルトさん」
しかしバルトの歩みが止まることはない。
固まっているレギウスの身体にベタベタと触れながら何かを確認すると、今度はエギルを見遣り溜息を溢す。
それから感情の起伏のない声で一方的に告げられた。
「あぁ、マリアンヌですよね。彼女についてはご安心ください。生きてますよ。あなたが殺めることに抵抗があるようなので、このまま保管します」
レギウスのそばを離れたバルトはエギルを捕らえている氷の牢に向かって大剣を振りかぶり、破壊した。
エギルは気を失っており、その場に倒れ伏している。バルトは剣の先を地面へ突き立てると苛立ち混じりに続けた。
「これでも俺なりに折り合いをつけた最終判断です」
その姿があまりにも痛々しく、紗希は目を細めてバルトに向かって再度呼びかけた。
「バルトレッドさん、ちょっといいですか?こっち向いてください」
この胸の奥の重さをどうにかしなければ気が済まない。つかつかと歩み寄ってバルトの前に立てば、視線を逸らされたもののようやく返事が返ってきた。
「はい」
「私を元の世界に戻すって、本当ですか?」
自己完結されていた事柄を今は嬉しいと喜んでいいのか分からない。
真意を確かめるため問えば、バルトは力なく答えた。
「……――無理だと、言われましたから」
昨日の執務室でのやり取りだ。
確かに紗希は”今は”無理と言った。とてもまともに取り合える雰囲気ではなく、紗希自身も感情が乱れていたからだ。
バルトはそれを幕切れと違わぬ決別と捉えていたようだ。
「拒絶されても、あなたを傍に置ければいいと思っていました……でもやはり心も欲しい。なのにあなたを困らせることしか出来ない……」
珍しく陰鬱とした雰囲気でバルトは呟いた。
この城で魔王と呼ばれているのに、これでは不器用過ぎるただの男である。
溜め込んだ吐息を溢すとバルトはしおらしく続けた。
「それに俺があなたを愛することで危険な目に遭わせてしまうのなら、元の世界に戻して魂を見守るしかないじゃないですか」
「……え?」
随分と上品な言い方をしているが不穏な言葉が過っている。
魂を見守ると言ったのは何かの比喩だろうか。
「えっと。それは、世界を跨いで監視する気だってことですか」
頬を引き攣らせ尋ねると、バルトは思いつめたように切なげに乞う。
「駄目でしょうか。共に居られないのなら、せめて監視するだけでも」
「あの、そこは”想うだけでも”になるんじゃないでしょうか……」
どこに別世界の人間をストーカーしようとする人間が居るだろうか。
こんなのバルトぐらいだろう。実際出来てしまいそうなのが末恐ろしく、紗希は苦い笑みを零しては別の質問を投げることにした。
「レギウスさんが、私が帰ったらバルトさんが死ぬって言ってましたけど、そうなんですか?」
「大袈裟ですね」
今度は小さく笑われてしまった。
「確かに不死身ではなくなったので致命傷を受ければ死にますが。伊達に七年も魔王城に閉じ込められていたわけじゃありません。この城の魔物のことは熟知していますし、あなたを失う悲しみで自暴自棄になどなりませんよ。反逆者がいれば全員返り討ちにしますし、あなたが死ぬまで元気に生きて見守らないと」
眉尻を下げ諦めたように告げるバルトは、どうも違う方向で遠慮しているらしい。
監禁するつもりだった当初と比べれば多少はマイルドになっているのかもしれないが、しかしやっていることは相変わらずだ。
「……ブレませんね……」
肩の力が抜けてゆき、紗希は長い息を吐き出すと、静かにバルトを見上げた。
「はぁ……なんか、もう……うん。分かりました。もう、いいです」
「はい?」
バルトの瞳が不安げに揺れるのを見て、紗希は諦めと決意を込めてはっきりと告げた。
「まだ元の世界に返してもらわなくて、いいです」
目の前には困惑した顔があり、紗希はバルトの紫水晶のような瞳をじっと見つめた。
「バルトさんは七年ずっと私に気付いていたのかもしれないですけど、まだ私達ちゃんと出会ってから日が浅いんですよ。一方的に見てるだけじゃ分からないことなんて沢山あるんです」
ここに来てから戸惑うことばかりだ。
更新が途切れたとはいえ、自分がある程度知っている物語の世界だったはずが、気付けば全く異なる話を読んでいた。ヒロインのセレスティーナなんてまさにそうだ。
あまつさえ作者はバンシーという疑惑まで浮上し、あの物語がただの物語でないという。
「この世界のことも、バルトさんのことも、結構知ってる気になってました。バルトさんに言われた通り、私は実感していなかったというか……分かっていなかったんだと思います。実際、知らない事だらけです。この世界の宗教にしても、精霊のことも。与えられた文章を読んで理解していただけの、ただの読者だったので」
放置された小説の読者、それが紗希自身の定義だった。
けれどバルトに求められ、引き摺り出されるかたちでこの世界に来て、実際にバルトやセレスティーナ達の想いに触れてきた。
「バルトさんも同じですよね?」
バルトが七年もの間、紗希を感じ取っていたとして、だから愛していると言われればそれは根拠になるのかもしれないが、しかし互いにただ観測していただけに過ぎない。
「……そうかもしれませんね。確かに俺も、あなたを一方的に見ていた」
呟くように言ったバルトは眉間に深く皺を刻むと肩で大きく息をつく。
「そんな関係じゃ、いくら傍に居ても気持ちが重なることって多分ないですよ。まして異世界規模でストーカーされるのはかなり嫌です。人として最低です」
「っ……」
紗希が剣呑な面持ちで告げるとバルトが言葉を詰まらせた。
そのばつの悪そうな表情を見る限り、少しは罪悪感のようなものがあったかもしれない。
――だけど私は、まだこの人のことを深く知らない。
紗希は声音を和らげ、バルトの手を取った。
「だから、もっとお互い知り合いましょうよ。まずは名前を呼び合うことから始めませんか」
バルトの手はとても冷たく固い。
それに気付いたのだって今だ。
表面しかなぞってこなかったものに歩み寄るには、きっとまだ時間はかかる。
「好きだとか、愛してるとか、そういうのはもっと後じゃダメですか?少なくとも、あなたの気持ちを疑ったりしませんし」
言えばバルトは少し考えたあとに、耳を赤らめて呟いた。
肌が白いから照れているのがよく分かる。
「紗希……」
「はい。バルトレッドさん」
耳を赤らめているのに、しかしバルトの瞳は真っすぐ紗希を見つめていた。
「愛してます……」
重なった手は、手繰り寄せるようにバルトによって握り返される。
「いや、だから……」
――ちゃんと分かっているのかな。
伝わっているのだろうかと疑念の眼差しを向ければ、バルトは眉尻を下げて珍しく自然な笑みを零した。
「祈りの挨拶だと思ってください」
そう言った声音があまりにも切実で弱々しいものだったので、紗希はもうそれも込みでバルトなのだと思うことにした。
「……仕方ない人ですね」
――今までは、読者だった。
けれど、これからはきっと謎が渦巻くこの世界で、自分の物語を紡いでいくことになるのだろう。
【END】
マリアンヌは輝く石像を恍惚と見つめていた。
石像は長髪の男性の姿をしていた。
それは抽象的なものではなく、誰かが実際に見て作ったような、精巧な造りをしている。
その足元に魔法陣らしきものが浮かび上がってきているが、その輝きはまだ弱々しいものだった。
「精霊王?どうしてこの城に……?」
「不思議ですよねぇ。でも必然でもあるのですよ。魔物とは精霊になれなかった負の掃き溜めから発生しているので。川で砂金を浚おうとすると必ず泥を一緒に浚うでしょう。可哀想に、創造主を忘れられず奉っていたのですよ。文献通りでした」
マリアンヌは得意げに精霊も魔族も精霊王の創造物だと主張している。
混乱と危機感から、説明された言葉の半分も理解出来ず口を開閉していると、そんな紗希の反応を愉しむような笑みが向けられた。
しかし感情豊かな彼女は、ふと顔を顰めて輝く石像に抱きつく。まだ転移魔法が発動していないのか、魔法陣は淡い輝きでチカチカ点滅している。
「でも破壊されていたのは予想外です。まったく一体誰がこんな不敬なことを……」
マリアンヌが苛立った様子で吐き捨てる。
するとその頭上から突如、大剣を振り翳しバルトが現れた。
「ーー俺だが、悪いか?」
剣は石像の頭頂部に突き刺さり、そして剣の先から霜が降りてきたかと思うとドォンと雷鳴の如く身体の芯まで響く音が上がった。
それが粉塵と化して破壊されたのだと理解した刹那、マリアンヌの風魔法が解けたのか、身体が急降下する。
――ぶつかる!!
「ひっ……!!」
一瞬の出来事で目を瞑り声すらまともに出なかったが、しかし身体はバルトによってしっかりと抱き留められていた。
マリアンヌは撃破された石像に慄き悲鳴を上げる。
「あぁあっ!!精霊様の石像が……そんな、どうして……」
「行く手を阻んできた連中なら、まとめて檻に入れておいた」
バルトがエギルを侍らせるマリアンヌに向けて手を翳すと、たちまち水流で出来た檻が二人を取り囲んでゆく。
その檻は作られた傍から冷気を纏って氷と化し、マリアンヌが風魔法で切り裂くよりも先に彼女の両手まで氷漬けにしていた。
頭と変わらぬ大きさの氷塊がマリアンヌの手を凍結して、その重みに耐えきれなくなった膝が、がくりと地面に着く。
「うっ……打ちひしがれて執務室に篭り切りと聞いたのに……」
恨みがましくマリアンヌはバルトを睨みつけると、表情を変えず言った。
「エギルが念話で小言のひとつ送ってこないのが不自然だったからな。様子を見にきたらこのザマだ」
そして紗希を静かに下ろすと、マリアンヌの元へ歩み寄り、氷の牢屋越しに彼女の前に立った。
「それと俺は打ちひしがれてはない。自分の存在意義が分からなくなり内省していただけだ」
「バルトさん……」
不穏な空気を纏う背中に呼びかけたが反応はない。
次の瞬間、マリアンヌの身体は凍った。
まるであの時の蜘蛛のように。
バルトは氷像となった姿を暫し見つめてから、ようやく振り返った。
視線が交わったのは、ほんの僅かだった。
「遅くなりすみません。何か策があるだろうと疑ってはいたのですが、まさか花雫の乙女の力を使うとは……すぐにレギウスを覚まし、元の世界に返還する儀式をさせますので」
その瞳は紗希を一瞬だけ捉え、横を通り過ぎてゆく。
――避けられてる?
追いかけるように呼びかけた。
「バルトさん」
しかしバルトの歩みが止まることはない。
固まっているレギウスの身体にベタベタと触れながら何かを確認すると、今度はエギルを見遣り溜息を溢す。
それから感情の起伏のない声で一方的に告げられた。
「あぁ、マリアンヌですよね。彼女についてはご安心ください。生きてますよ。あなたが殺めることに抵抗があるようなので、このまま保管します」
レギウスのそばを離れたバルトはエギルを捕らえている氷の牢に向かって大剣を振りかぶり、破壊した。
エギルは気を失っており、その場に倒れ伏している。バルトは剣の先を地面へ突き立てると苛立ち混じりに続けた。
「これでも俺なりに折り合いをつけた最終判断です」
その姿があまりにも痛々しく、紗希は目を細めてバルトに向かって再度呼びかけた。
「バルトレッドさん、ちょっといいですか?こっち向いてください」
この胸の奥の重さをどうにかしなければ気が済まない。つかつかと歩み寄ってバルトの前に立てば、視線を逸らされたもののようやく返事が返ってきた。
「はい」
「私を元の世界に戻すって、本当ですか?」
自己完結されていた事柄を今は嬉しいと喜んでいいのか分からない。
真意を確かめるため問えば、バルトは力なく答えた。
「……――無理だと、言われましたから」
昨日の執務室でのやり取りだ。
確かに紗希は”今は”無理と言った。とてもまともに取り合える雰囲気ではなく、紗希自身も感情が乱れていたからだ。
バルトはそれを幕切れと違わぬ決別と捉えていたようだ。
「拒絶されても、あなたを傍に置ければいいと思っていました……でもやはり心も欲しい。なのにあなたを困らせることしか出来ない……」
珍しく陰鬱とした雰囲気でバルトは呟いた。
この城で魔王と呼ばれているのに、これでは不器用過ぎるただの男である。
溜め込んだ吐息を溢すとバルトはしおらしく続けた。
「それに俺があなたを愛することで危険な目に遭わせてしまうのなら、元の世界に戻して魂を見守るしかないじゃないですか」
「……え?」
随分と上品な言い方をしているが不穏な言葉が過っている。
魂を見守ると言ったのは何かの比喩だろうか。
「えっと。それは、世界を跨いで監視する気だってことですか」
頬を引き攣らせ尋ねると、バルトは思いつめたように切なげに乞う。
「駄目でしょうか。共に居られないのなら、せめて監視するだけでも」
「あの、そこは”想うだけでも”になるんじゃないでしょうか……」
どこに別世界の人間をストーカーしようとする人間が居るだろうか。
こんなのバルトぐらいだろう。実際出来てしまいそうなのが末恐ろしく、紗希は苦い笑みを零しては別の質問を投げることにした。
「レギウスさんが、私が帰ったらバルトさんが死ぬって言ってましたけど、そうなんですか?」
「大袈裟ですね」
今度は小さく笑われてしまった。
「確かに不死身ではなくなったので致命傷を受ければ死にますが。伊達に七年も魔王城に閉じ込められていたわけじゃありません。この城の魔物のことは熟知していますし、あなたを失う悲しみで自暴自棄になどなりませんよ。反逆者がいれば全員返り討ちにしますし、あなたが死ぬまで元気に生きて見守らないと」
眉尻を下げ諦めたように告げるバルトは、どうも違う方向で遠慮しているらしい。
監禁するつもりだった当初と比べれば多少はマイルドになっているのかもしれないが、しかしやっていることは相変わらずだ。
「……ブレませんね……」
肩の力が抜けてゆき、紗希は長い息を吐き出すと、静かにバルトを見上げた。
「はぁ……なんか、もう……うん。分かりました。もう、いいです」
「はい?」
バルトの瞳が不安げに揺れるのを見て、紗希は諦めと決意を込めてはっきりと告げた。
「まだ元の世界に返してもらわなくて、いいです」
目の前には困惑した顔があり、紗希はバルトの紫水晶のような瞳をじっと見つめた。
「バルトさんは七年ずっと私に気付いていたのかもしれないですけど、まだ私達ちゃんと出会ってから日が浅いんですよ。一方的に見てるだけじゃ分からないことなんて沢山あるんです」
ここに来てから戸惑うことばかりだ。
更新が途切れたとはいえ、自分がある程度知っている物語の世界だったはずが、気付けば全く異なる話を読んでいた。ヒロインのセレスティーナなんてまさにそうだ。
あまつさえ作者はバンシーという疑惑まで浮上し、あの物語がただの物語でないという。
「この世界のことも、バルトさんのことも、結構知ってる気になってました。バルトさんに言われた通り、私は実感していなかったというか……分かっていなかったんだと思います。実際、知らない事だらけです。この世界の宗教にしても、精霊のことも。与えられた文章を読んで理解していただけの、ただの読者だったので」
放置された小説の読者、それが紗希自身の定義だった。
けれどバルトに求められ、引き摺り出されるかたちでこの世界に来て、実際にバルトやセレスティーナ達の想いに触れてきた。
「バルトさんも同じですよね?」
バルトが七年もの間、紗希を感じ取っていたとして、だから愛していると言われればそれは根拠になるのかもしれないが、しかし互いにただ観測していただけに過ぎない。
「……そうかもしれませんね。確かに俺も、あなたを一方的に見ていた」
呟くように言ったバルトは眉間に深く皺を刻むと肩で大きく息をつく。
「そんな関係じゃ、いくら傍に居ても気持ちが重なることって多分ないですよ。まして異世界規模でストーカーされるのはかなり嫌です。人として最低です」
「っ……」
紗希が剣呑な面持ちで告げるとバルトが言葉を詰まらせた。
そのばつの悪そうな表情を見る限り、少しは罪悪感のようなものがあったかもしれない。
――だけど私は、まだこの人のことを深く知らない。
紗希は声音を和らげ、バルトの手を取った。
「だから、もっとお互い知り合いましょうよ。まずは名前を呼び合うことから始めませんか」
バルトの手はとても冷たく固い。
それに気付いたのだって今だ。
表面しかなぞってこなかったものに歩み寄るには、きっとまだ時間はかかる。
「好きだとか、愛してるとか、そういうのはもっと後じゃダメですか?少なくとも、あなたの気持ちを疑ったりしませんし」
言えばバルトは少し考えたあとに、耳を赤らめて呟いた。
肌が白いから照れているのがよく分かる。
「紗希……」
「はい。バルトレッドさん」
耳を赤らめているのに、しかしバルトの瞳は真っすぐ紗希を見つめていた。
「愛してます……」
重なった手は、手繰り寄せるようにバルトによって握り返される。
「いや、だから……」
――ちゃんと分かっているのかな。
伝わっているのだろうかと疑念の眼差しを向ければ、バルトは眉尻を下げて珍しく自然な笑みを零した。
「祈りの挨拶だと思ってください」
そう言った声音があまりにも切実で弱々しいものだったので、紗希はもうそれも込みでバルトなのだと思うことにした。
「……仕方ない人ですね」
――今までは、読者だった。
けれど、これからはきっと謎が渦巻くこの世界で、自分の物語を紡いでいくことになるのだろう。
【END】



