隼人先輩は、まるで身に覚えがないとでもいうように目を丸くした。
「二年前の冬も、こうやって同じように先輩に助けてもらいました」
俺は、先輩と出会ったあの日を思い出しながら、少しずつ話し始めた。
「実は俺、小学生の頃に事故にあってから、電車に乗るのが怖くって」
小学四年生の頃、俺は電車の脱線事故にあった。
幸いその事故で亡くなった方はいなかったけれど、俺を含めてたくさんの人がけがをした。ニュースで大きく取り上げられるような事故ではなかった。それでも、その事故を境に、俺は電車に乗れなくなった。
電車に乗るだけで心臓が激しく脈打ち、あの日の光景が蘇る。
視界が一気に乱れ、体が壁に打ち付けられた。一瞬の出来事に何が起きているのかもわからないまま、死をも覚悟した。
無事に救助され、身体の傷が治ったあとも、あの日の光景は幼い俺の心に、深い傷を残してしまった。
「でも、中学、高校に上がれば電車に乗る必要も出てくるし、このまま一生電車に乗らないで生きていくなんて、都会じゃまず無理だから。だから、リハビリとして電車に乗る練習をしたんです」
最初の内は駅の構内に行くこともできなかった。
それでも何度も挑戦するうちに、徐々に、構内、改札、ホームと足を運ぶことができるようになった。
そして何年にもわたるリハビリの末、俺はようやく電車に乗れるようになった。
「はじめは一人じゃ無理だったけど、何度も挑戦して、いつしか一人でも乗れるようになっていって。もうきっと大丈夫。俺は電車を克服したんだと思っていた矢先の出来事でした」
先輩は俺の話をただ黙って聞いていた。まっすぐ伸びるその視線は、穏やかに俺に注がれる。
「あの日は、少しだけ風邪気味で。でも親が学校に迎えに来られないから自分一人で電車で帰ろうとしたんです」
いつもと同じ電車。けれどその日はカーブに差し掛かった時に、いつもよりも大きく揺れた。他の人は気づかなかったかもしれない。でもそれが、俺の時限爆弾のスイッチを押した。
「急に息ができなくなりました。フラッシュバックっていうんですかね。体が震え出して。『あ、もうだめだ』って意識がとびかけたとき、人混みから手が伸びてきたんです」
「それがもしかして……」
「はい。隼人先輩でした」
隼人先輩は、わずかに目を瞠った。
倒れそうな俺を、隼人先輩は自身の元へ引き寄せると、人混みを分けて優先席まで向かい、俺を座らせた。
そして、電車が次の駅に着くと同時に、俺の体を支えながら、一緒にホームに降りてくれた。
「そのあとは、今みたいにベンチに俺を座らせて、飲み物を買ってきてくれたんです。親を待つ間も、ずっとそばにいてくれました」
特別に何か会話をしたわけではない。でも俺の様子を見ながら、ときたま『大丈夫か?』と声をかけ、ただずっと、そばにいてくれた。
やがて母ちゃんが迎えに来てくれて、隼人先輩と別れるとき。
『あの、ありがとうございました!』
そう頭を下げた俺に、隼人先輩の猫目がふにゃんと弧を描いた。
『気にすんな』
その笑顔が忘れられなくて、俺は一瞬で恋に落ちた。
帰り際に見えた学校指定のバッグに書かれた名前から、先輩の高校と名前を知った。それからは、先輩に会うことだけを胸に受験勉強を頑張ったのだ。
俺が話し終えると、先輩は気まずそうに頭を掻いた。
「確かにそんなことあったような気はする……けど、それが渉だったってことまでは全然覚えてない、ごめん」
「謝らないでください! 多分先輩にとってあの日は、当たり前のことをしたただの一日で、わざわざ記憶に残るようなものじゃなかったんだと思います。でも——」
俺にとっては、忘れられるはずのない一日だった。
だからいまこうして先輩と一緒にいられることが嬉しくて、奇跡だと思える。
俺は満面の笑みで、先輩を見つめた。
「俺はあの日から、先輩のことが好きです」
たとえ隼人先輩が俺を好きにならなくても。いつか先輩が別の誰かと恋に落ちても。先輩のその優しさに救われて、先輩が好きで好きでたまらなかった俺が今ここにいることを、先輩に知ってもらいたい。それだけでいい。
先輩はまっすぐに俺を見ると頷きながら微笑んだ。
「うん、サンキュ」
二百五十回目の告白ももちろん成就はしなかった。
だけど今は、先輩に『サンキュ』と笑ってもらえたことの方が嬉しくて、俺も一緒に笑う。
「よし。渉、体調は?」
「あ、はい! もう大丈夫です」
「じゃぁ、いったん改札出て、バスで行くか。ここからバスが出てるらしいし」
「電車で大丈夫ですよ。もう元気だし!」
本当はまだ少し心配もある。電車に乗ったらまた発作が出てしまうかもしれない。
でも、電車の方が本数も多いし、なにより速い。俺のせいで遅れてしまってる分、早く球場に着かなければ。
けれど、隼人先輩は首を横に振った。
「さっき倒れたばっかだろ馬鹿。あと、しんどいときはちゃんとしんどいって言えよ。俺の前では無理に笑うな」
「……はい」
隼人先輩には、何もお見通しなのだ。
しょぼんと肩を落とす俺に、隼人先輩の大きな手が俺の頭を雑になでる。
「ゆっくり行こうぜ。野球はさ、後半からが面白いんだよ。最後に勝負がきまるんだから」
「先輩……」
俺が気にしないように、あえてそう言ってくれているのだろう。
やっぱり先輩は全然塩対応なんかじゃない。むしろ、俺にはとびきり優しく見えてしまう。
隼人先輩は俺の分の荷物を持つと、改札へ向かって歩き出した。
俺はそれを小走りで追いかける。
それにしても、俺はさっきから気づいていることがある。
先輩が『渉』と俺の名前を呼ぶたびに、眉をひそめ、わずかに下唇を突き出しているのだ。
それは前に花村先輩から教えてもらった、隼人先輩が照れてるときの癖。
もちろんあえて口にはしない。だってせっかく名前で呼んでくれるようになったのだ。余計なことを言って、もう呼んでもらえなくなったら困る。
「ふふっ」
「なんだよ」
「いえ、やっぱり先輩が大好きだなって思って」
「はいはい。ほら、早くいくぞ」
告白は残り百十四回。その最後の一回まで、俺は先輩に想いを伝え続ける。
「二年前の冬も、こうやって同じように先輩に助けてもらいました」
俺は、先輩と出会ったあの日を思い出しながら、少しずつ話し始めた。
「実は俺、小学生の頃に事故にあってから、電車に乗るのが怖くって」
小学四年生の頃、俺は電車の脱線事故にあった。
幸いその事故で亡くなった方はいなかったけれど、俺を含めてたくさんの人がけがをした。ニュースで大きく取り上げられるような事故ではなかった。それでも、その事故を境に、俺は電車に乗れなくなった。
電車に乗るだけで心臓が激しく脈打ち、あの日の光景が蘇る。
視界が一気に乱れ、体が壁に打ち付けられた。一瞬の出来事に何が起きているのかもわからないまま、死をも覚悟した。
無事に救助され、身体の傷が治ったあとも、あの日の光景は幼い俺の心に、深い傷を残してしまった。
「でも、中学、高校に上がれば電車に乗る必要も出てくるし、このまま一生電車に乗らないで生きていくなんて、都会じゃまず無理だから。だから、リハビリとして電車に乗る練習をしたんです」
最初の内は駅の構内に行くこともできなかった。
それでも何度も挑戦するうちに、徐々に、構内、改札、ホームと足を運ぶことができるようになった。
そして何年にもわたるリハビリの末、俺はようやく電車に乗れるようになった。
「はじめは一人じゃ無理だったけど、何度も挑戦して、いつしか一人でも乗れるようになっていって。もうきっと大丈夫。俺は電車を克服したんだと思っていた矢先の出来事でした」
先輩は俺の話をただ黙って聞いていた。まっすぐ伸びるその視線は、穏やかに俺に注がれる。
「あの日は、少しだけ風邪気味で。でも親が学校に迎えに来られないから自分一人で電車で帰ろうとしたんです」
いつもと同じ電車。けれどその日はカーブに差し掛かった時に、いつもよりも大きく揺れた。他の人は気づかなかったかもしれない。でもそれが、俺の時限爆弾のスイッチを押した。
「急に息ができなくなりました。フラッシュバックっていうんですかね。体が震え出して。『あ、もうだめだ』って意識がとびかけたとき、人混みから手が伸びてきたんです」
「それがもしかして……」
「はい。隼人先輩でした」
隼人先輩は、わずかに目を瞠った。
倒れそうな俺を、隼人先輩は自身の元へ引き寄せると、人混みを分けて優先席まで向かい、俺を座らせた。
そして、電車が次の駅に着くと同時に、俺の体を支えながら、一緒にホームに降りてくれた。
「そのあとは、今みたいにベンチに俺を座らせて、飲み物を買ってきてくれたんです。親を待つ間も、ずっとそばにいてくれました」
特別に何か会話をしたわけではない。でも俺の様子を見ながら、ときたま『大丈夫か?』と声をかけ、ただずっと、そばにいてくれた。
やがて母ちゃんが迎えに来てくれて、隼人先輩と別れるとき。
『あの、ありがとうございました!』
そう頭を下げた俺に、隼人先輩の猫目がふにゃんと弧を描いた。
『気にすんな』
その笑顔が忘れられなくて、俺は一瞬で恋に落ちた。
帰り際に見えた学校指定のバッグに書かれた名前から、先輩の高校と名前を知った。それからは、先輩に会うことだけを胸に受験勉強を頑張ったのだ。
俺が話し終えると、先輩は気まずそうに頭を掻いた。
「確かにそんなことあったような気はする……けど、それが渉だったってことまでは全然覚えてない、ごめん」
「謝らないでください! 多分先輩にとってあの日は、当たり前のことをしたただの一日で、わざわざ記憶に残るようなものじゃなかったんだと思います。でも——」
俺にとっては、忘れられるはずのない一日だった。
だからいまこうして先輩と一緒にいられることが嬉しくて、奇跡だと思える。
俺は満面の笑みで、先輩を見つめた。
「俺はあの日から、先輩のことが好きです」
たとえ隼人先輩が俺を好きにならなくても。いつか先輩が別の誰かと恋に落ちても。先輩のその優しさに救われて、先輩が好きで好きでたまらなかった俺が今ここにいることを、先輩に知ってもらいたい。それだけでいい。
先輩はまっすぐに俺を見ると頷きながら微笑んだ。
「うん、サンキュ」
二百五十回目の告白ももちろん成就はしなかった。
だけど今は、先輩に『サンキュ』と笑ってもらえたことの方が嬉しくて、俺も一緒に笑う。
「よし。渉、体調は?」
「あ、はい! もう大丈夫です」
「じゃぁ、いったん改札出て、バスで行くか。ここからバスが出てるらしいし」
「電車で大丈夫ですよ。もう元気だし!」
本当はまだ少し心配もある。電車に乗ったらまた発作が出てしまうかもしれない。
でも、電車の方が本数も多いし、なにより速い。俺のせいで遅れてしまってる分、早く球場に着かなければ。
けれど、隼人先輩は首を横に振った。
「さっき倒れたばっかだろ馬鹿。あと、しんどいときはちゃんとしんどいって言えよ。俺の前では無理に笑うな」
「……はい」
隼人先輩には、何もお見通しなのだ。
しょぼんと肩を落とす俺に、隼人先輩の大きな手が俺の頭を雑になでる。
「ゆっくり行こうぜ。野球はさ、後半からが面白いんだよ。最後に勝負がきまるんだから」
「先輩……」
俺が気にしないように、あえてそう言ってくれているのだろう。
やっぱり先輩は全然塩対応なんかじゃない。むしろ、俺にはとびきり優しく見えてしまう。
隼人先輩は俺の分の荷物を持つと、改札へ向かって歩き出した。
俺はそれを小走りで追いかける。
それにしても、俺はさっきから気づいていることがある。
先輩が『渉』と俺の名前を呼ぶたびに、眉をひそめ、わずかに下唇を突き出しているのだ。
それは前に花村先輩から教えてもらった、隼人先輩が照れてるときの癖。
もちろんあえて口にはしない。だってせっかく名前で呼んでくれるようになったのだ。余計なことを言って、もう呼んでもらえなくなったら困る。
「ふふっ」
「なんだよ」
「いえ、やっぱり先輩が大好きだなって思って」
「はいはい。ほら、早くいくぞ」
告白は残り百十四回。その最後の一回まで、俺は先輩に想いを伝え続ける。


