死せる聖女の二度目の沈黙 ―13歳の鑑定士と腐敗なき密室―

 夜も更けたころ、ルカは一人で宿舎の部屋にいた。
 王城から少し離れた場所に用意された客室は、広すぎず狭すぎず、必要なものだけがきちんと整えられている。
 暖炉には弱い火が残り、机の上には燭台がひとつ。
 窓の外には静かな月が浮かび、白い光が薄く床を照らしていた。
 その明かりの下で、ルカはチェス盤に向かっていた。
 黒と白の駒が、整然と並んでいる。
 けれど対戦相手はいない。
 彼は一人で、両方の駒を動かしていた。
 白の騎士を前へ。
 黒の司教を斜めに進める。
 その静かな手つきには迷いなどない。
 駒を置くたび、硬い木の触れ合う小さな音が、部屋の中に乾いて響いた。
 昼の聞き込みで集めた言葉が、頭の中で順番に並び直されていく。

 ――勇者レオン。

 半年前には、聖女の手はもう冷たかった。脈もなかった。
 それでも彼は、聖女の加護にすがって戦い続けた。
 治されていたのではなく、痛みを忘れさせられていただけだ。
 それでも、その嘘に頼らなければ立てなかった。

 ――大神官サリエル。

 三年前の夏に聖女が毒殺されたことを知りながら、その死を隠した。
 保存の薬を買い集め、死体を聖女として動かし続けた。
 教会の権威と寄付を守るために。信仰を切らさないために。

 ――王女エリザベート。

 聖女の背中におかしな縫い目を見て、食卓で食べるふりしかしない姿にも気づいていた。
 それでも、真実を口にできなかった。
 聖女がいなくなれば、この国の何かが崩れるときっと心のどこかでわかっていたからだ。

 ――騎士団長バルガス。

 夜の廊下を歩く聖女の異様な姿を見た。壁にぶつかっても顔色ひとつ変えず、ただ方向だけを直して歩く、壊れた人形のような姿を。
 それでもすぐには壊せなかった。
 けれど、終わらせたいとは思っていた。

 ルカは白の王を見つめたまま、静かに息を吐いた。

「……醜い」

 独り言は、夜の静けさの中で小さく落ちる。
 そして、黒の歩兵をひとつ前へ進めた。
 聖女アリアという駒は、三年前にもう盤上から落ちていた。
 それなのに、誰もそれを認めなかった。
 代わりに死体を立たせ、笑わせ、祈らせ、食卓に座らせた。
 そうしないと困る者が多すぎたからだ。
 ルカの口元が、僅かに歪む。

「……生きた聖女よりも、死んだ聖女の方が都合が良かったと言う事ですか」

 その言葉は、誰に聞かせるでもなく、淡々と夜に溶けた。

 ――生きた聖女なら、いつか壊れるから。
 
 反発もするかもしれない。
 感情もある。
 思い通りにならないこともある。

 ――けれど死んだ聖女は違う。

 手を加えれば黙って立つ。
 祈らせれば祈る。
 必要な場面でだけ微笑ませ、民の前に立たせることもできる。
 そうして都合よく使い回しながら、国を支えるための象徴として置いておける。
 酷く不自然で、酷く手間がかかるやり方だ。
 けれど、その手間を払う価値があったのだろう。

 ――勇者は力を得た。
 ――大神官は金を得た。
 ――王女は安心を得た。
 ――王も、騎士も、信者たちも、皆がそれぞれに聖女という偶像から何かを受け取っていた。

「全員が死体の肉を喰らって生きていたと言う事だ」

 ルカはそう呟き、黒の女王を指先でつまみ上げる。
 冷たい感想――けれど彼の中では、怒りよりも先に構造への興味があった。
 一つの死体に、これほど多くの人間が寄りかかっていたという事実。
 一つの聖女が死んだだけでなく、その死を利用する仕組みまで含めて国が成り立っていたという事実。
 それはあまりに醜く、だからこそ目を離しがたい。
 ルカはチェス盤の中央に視線を落とした。
 白と黒の駒が入り乱れた盤面は、今の王国そのものに見えた。

 王もいる。
 騎士もいる。
 司教もいる。

 だが、その中心に置かれたはずの駒だけが、最初から壊れていた。
 それでも皆、壊れたことに気づかないふりをしてゲームを続けた。

「死体を聖女に仕立て上げ、国を統治する」

 ルカは小さく笑う。
 その笑いに温度はない。

「非効率だが、実に狡猾な数式だ」

 毒で死んだ聖女。
 その死を隠す大神官。
 それを支える保存の薬と術。
 疑いながらも口をつぐむ王女。
 恩恵を受け続ける勇者。
 終わりを望みながら踏み込めない騎士団長。
 ひとつひとつをつなげれば、確かに式としては成立している。
 複雑で、不格好で、変数だらけだが、それでも答えはひとつに出る。

 ――聖女の死を隠すことが、王国にとって最も都合が良かった。

 そこまではいい。そこまでは理解できる。
 問題は、その先だった。
 ルカは黒の女王を盤の中央へ置いた。
 かちり、と小さな音がした。

「――だけど、答えが二度出されている以上この式は破綻している」

 三年前の毒殺。
 それが一度目の死。
 ならば今回の密室事件は何なのか。
 もう死んでいるはずの聖女が、再び胸を刺され、あらためて【死んだ】ように見せかけられた。
 そこに単なる殺意だけがあったとは思えない。
 遺体に恨みを向けるだけなら、もっと乱暴に壊せばいい。
 聖堂の中でわざわざ胸を刺し、術式を乱して密室が成立する形にする必要はない。
 あの刺し傷には、意味がある。
 それも感情だけではなく、仕組みそのものに向けた意味だ。
 ルカは白の駒をひとつ倒した。
 それを見つめながら、ゆっくり考える。
 もし、聖女を動かしていた術式が胸のあたり――つまり核となる部分に結びついていたとしたら。そこを壊せば、死体を縛っていた命令は外れる。
 術は乱れ、暴走し、最後に残った命令だけを実行して止まるかもしれない。
 そうだ――ただ刺したのではない、止めたのだ。
 もっと正確に言えば、解放した。

「……そういうことか」

 ルカは小さく呟いた。
 部屋の中には、暖炉の火がはぜる音だけがかすかに響く。
 彼の中で、ばらばらだった線が少しずつ重なっていく。
 密室の中で聖女を刺した人物は、ただ死体を傷つけたかったのではない。
 術式を壊したかった。
 そのままでは永遠に使われ続ける死体を、ようやく終わらせたかった。
 もちろん、それだけで犯人が善人になるわけではない。
 方法は十分に乱暴だし、その結果として新たな混乱を生んでいる。
 けれど、少なくとも方向は見えた。
 これは単なる【殺し】ではない。
 使われ続ける偶像から、何かを解き放つための一撃だったのだ。
 ルカは椅子の背にもたれ、天井を見上げた。
 月明かりが、窓の格子の形に床へ落ちており、静かな夜だった。
 遠くの祭りの音ももうほとんど消えている。
 その静けさの中で、前世の記憶がふと影のようによぎる。

 ジェームズ・モリアーティーー論理の美しさだけを見つめ、道徳や感傷を切り捨てて世界を見ていた男。

 嘗ての自分はルカになる前、その在り方に憧れた。
 人の心ではなく構造を読む目に、美しさを感じていた。

 ――今もそうだ。

 目の前の事件には、醜い感情がいくつも絡みついている。
 自責、恐怖、保身、依存、信仰、愛情。どれも数式を濁らせるノイズだ。
 けれど、それらを削ぎ落として骨組みだけを見れば、事件の形はずっとわかりやすい。
 死体があった。
 その死体を使う者たちがいた。
 そして、誰かがその仕組みを壊した。
 今、ルカが追うべきなのは最後の一点だ。
 誰が、何を解き放とうとしたのか。
 チェス盤の上で、彼は最後に黒の騎士を動かした。
 それは白の王に迫る位置だった。

「……もう少しですね」

 その声は、夜に溶けるように静かだった。
 犯人は、ただの殺人者ではない。
 術の仕組みをある程度知り、聖女が死体であることも知っていて、その上で今の状態を終わらせたいと願った者だ。
 そこまで絞れば、容疑者の顔はかなりはっきりしてくる。
 ルカは盤面をじっと見つめる。
 勇者は依存しすぎていた。終わらせるには弱い。
 大神官は維持する側だ。壊す理由が薄い。
 王女には恐怖はあるが、仕組みを壊す手を持たない。

 ならば――そこで彼は思考を止めた。

(……まだ断定には早い)

 数字は揃いつつあるが、最後のひと押しが足りない。
 だから明日もまた聞くしかない。
 誰がどこまで知っていたのか。
 誰が聖女を哀れみ、誰が聖女を利用し、誰がその両方を抱えていたのか。
 ルカは立ち上がると、チェス盤の駒を指先で軽く整えた。
 白も黒も、今はまだ盤の上にある。
 けれど、次の一手で崩れる駒は決まっている。
 窓の外では、月が高く静かに輝いていた。
 ルカはその光を一度だけ見上げ、そして薄く笑った。
 その笑みは子どものモノではない
 それはまるで知的な獲物を前にした者だけが見せる、冷たく澄んだ愉悦がそこにあった。

 ――そして、ようやく真犯人への道筋が見え始めていた。