騎士団長バルガスとの話は、訓練場の裏手で行われた。
夕方に近づいた空は少しずつ色を変え始めていて、石畳の上に長い影を落としている。
昼間は剣を打ち合わせる音や兵士たちの掛け声で満ちる場所も、今は人払いされて静かだった。
遠くから祭りの名残のような騒めきがかすかに聞こえるが、ここには届かない。
バルガスは訓練用の柵のそばに立ち、腕を組んだまま黙っていた。
大きな体と鍛えられた肩。
短く刈った髪。
いかにも騎士らしい、まっすぐでごまかしのなさそうな男だった。
だが、その顔にはここ数日で一気に深くなったような疲れが刻まれている。
ルカは少し離れた位置に立ち、その姿を静かに見た。
「こんにちは、バルガスさん」
「……アンタか」
「フフ、あなたは嘘が苦手そうですね」
「会ってすぐそれかよ」
挨拶の代わりのようにそう言うと、バルガスは眉をひそめた。
「ったく……喧嘩を売りに来たのか」
「いいえ。助かる、という話です」
ルカはいつもの調子で返す。
「嘘を上手につく人は、話が長くなるので面倒ですよ」
バルガスは鼻を鳴らした。
怒ったと言うより、呆れたような反応だった。
「……で、何を聞きたい?」
「聖女様、アリアについてです」
その名前が出た瞬間、バルガスの顔が少しだけ固くなる。
ルカは見逃さなかったが、そこをすぐに突かなかった。
「あなたは、聖女が死体だったことは知らなかった」
「知らなかったさ」
「だが、何かおかしいとは思っていたはずです」
ルカの言葉に、バルガスは少し黙った。
夕方の風が、訓練場の端に立つ旗をかすかに揺らす。
「……妙な話を、何度も耳にしていた」
「妙な話?」
「夜中に聖女様が一人で歩き回っている、という噂だ」
「噂、ですか」
「最初はくだらんと思った。夜番の兵が居眠りでもして、変なものを見たんだろうと。だが、何人も同じようなことを言う。しかも決まって【様子がおかしい】とな」
バルガスは不快そうに顔をしかめた。
「聖女様に対して失礼だと叱ったこともある。だが……」
「だが?」
「……一度、俺が見た」
バルガスのその一言で、空気が少し変わった。
ルカは何も言わず、続きを待つ。
そのまま腕を組んだまま視線を遠くへ向け、訓練場の石壁ではなく、もっと別の夜を見ているようだった。
「二ヶ月ほど前の夜だ……城内の見回りをしていた。夜も深くて、人の気配もほとんどなかった。北の廊下の角を曲がった時、前を白い影が歩いていた」
ルカの頭の中で、暗い廊下の情景が浮かぶ。
月明かりの差し込む石の通路。
足音のない夜――そこを、白い衣の聖女が一人で歩いていく。
「最初は聖女様だと気づかなかった。こんな時間に、どうして一人でと思って声をかけようとした」
バルガスの眉間にしわが寄る。
「だが、その前に……壁にぶつかった」
「壁に?」
「そうだ」
短く答える声は重かった。
「廊下の曲がり角を少し見誤ったように、そのまま壁に肩をぶつけた。普通なら驚くとか、立ち止まるとか、少し顔をしかめるとか……そういう反応があるはずだ」
バルガスはそこで一度、言葉を切る。
その先を口にすること自体、あまり気分のいいものではないのだろう。
「でも、聖女様は何もなかったように止まりもせず、ただ……向きを変えた」
ルカは静かに聞いていた。
「ゆっくりと、決まった動きで。まるで間違えた進路を直すみたいに、すっと方向を変えて、そのまままた歩き出した」
風が少し強く吹く。
訓練場の空気が冷えた気がした。
「顔は?」
「見えた」
「見えたんですね?」
「ああ……月明かりがあったからな。だが……表情はなかった。何も」
その声には、あの夜に感じた得体の知れなさがまだ残っていた。
「眠そうでもなく、ぼんやりしているわけでも、考え事をしているわけでもない。ただ前だけを見て歩いていた」
ルカはその光景を頭の中で組み立てていく。
壁にぶつかる。
驚かない。
痛がらない。
止まらない。
ただ、進路の誤差だけを修正する。
人間の歩き方ではない。
意思のある者の動きではない。
それはたしかに、不安定な術で動かされたものの動きだ。
「その時、声はかけましたか?」
「かけた」
「返事はありました?」
「なかった」
バルガスは苦い顔をする。
「二度呼んだが、反応しなかった。追いかけようとしたが、その先で巡回中の神官に止められた。聖女様は夜の祈りの最中だから近づくな、と」
「神官の名前は?」
「覚えている。後で書き出す」
ルカは小さく頷いた。
やはり、聖女を動かしていた者の制御は完全ではなかった。
普段は人の前でだけそれらしく振る舞わせ、見えないところではこうして綻びが出る。
命令が単純すぎるのか、術者の力が足りないのか、その両方か。
少なくとも、美しい仕組みではない。
ルカは心の中で冷たく考える。
壊れたものを無理やり動かしているから、こうなる。
少ない命令で動く人形ほど、不測の事態に弱い。
壁にぶつかった時の反応ひとつ取っても、人間なら無数にある自然な動きが、術式では用意しきれない。
結果として残るのは、規則正しい不自然さだけだ。
「あなたはその時点で、何か異常だと思った」
「……思ったわ」
バルガスはすぐに認めた。
「だが、聖女様に対してそんな疑いを向けること自体が許されない空気だった。俺は……気のせいだと思うことにした」
ルカはその答えに頷きもしなかった。
気のせいではないと知りながら、そう思い込もうとしたのだろう――王女と同じだ。勇者とも少し似ている。
皆、違和感には触れていた。
けれど、あまりに大きな存在だったから、真っ向から疑えなかった。
問題はそこではない。
ルカはバルガスの顔を見た。
この男は、ただ恐れていたわけではない。
今もなお、聖女のことを考える時の目に対し嫌悪だけではないものが残っている。
「あなたは聖女を敬っていたんですか?」
「当然だ」
「では、今は?」
問いかけは静かだったが、鋭かった。
バルガスはすぐには答えなかった。
夕暮れの光が、彼の横顔を半分だけ照らしている。
固く結ばれた口元と強い顎。
だがその奥に、ひどく言葉にしにくいものがあるのが見えた。
「……わからん」
ようやく出た答えは、それだった。
「何を敬っていたのか、もう自分でもわからん。聖女様が何者だったのかも、今となっては」
ルカは黙って聞く事しか出来ない。
バルガスは遠くを見るような目のまま、低く続けた。
「だが、ひとつだけ確かなことがある」
「え、何ですか?」
「今のままでは駄目だった……例え聖女様が、本当に聖女様ではなかったとしても。たとえ死体だったとしても。あんな風に扱われていいわけがない」
バルガスの手が、組んだ腕の上でぎり、とわずかに音を立てた。
「人目のあるところでは笑わせ、祈らせ、祭り上げる。裏では誰かが操り、壊れかけても立たせ続ける……そんなのは、あまりに」
そこで言葉が切れた。
怒りだけではなかった。
そこには深い痛みがある。
「――終わらせたかったんですね」
ルカが言うと、バルガスは目だけでこちらを見た。
その視線には警戒がある。だが否定はしない。
「……聖女様が何者であれ、汚れた今の状況を終わらせたかった」
その声は低く、静かだった。
怒鳴っているわけではない。
泣いているわけでもない。
ただ、腹の底で長く煮えていた思いが、そのまま形になったような声だった。
ルカはその言葉を、心の中で静かに置いてみる。
終わらせたかった。
聖女を憎んでいたのではない。
むしろ逆だ。
この男は、最後まで聖女を人として扱いたいと願っていた。
例えその正体が何であっても、今のように見世物として使い続けるのは耐えられなかった。
そこにあるのは慈しみだ。
だが同時に、それはひどく危うい。
誰かを救いたいという思いが強くなりすぎれば、壊すことでしか終わらせられないと思い込むことがある。
その時、慈愛は殺意によく似た形を取る。
ルカはその冷たい理解を胸の中で数式の一部に組み込んだ。
勇者レオンには依存と怒りがある。
王女エリザベートには恐怖がある。
大神官サリエルには保身と計算がある。
そして騎士団長バルガスには――慈愛に似た破壊衝動がある。
美しくはないが、あり得る式だ。
「……何だ、その顔は」
バルガスが言った。
「いやに静かだな」
「考えているだけですよ」
ルカは答える。
「あなたの言葉を、ちゃんと計算に入れようと思って」
「計算だと」
「はい。人は自分のためだけに壊すとは限りません。誰かを救うために壊すこともある。その方がよほど厄介です」
「俺を疑っているのか」
「そりゃ、もちろん」
その返答はあまりに即答だった。
バルガスは一瞬言葉を失い、それから短く息を吐いた。怒る気も失せたようだった。
「正直なガキだな」
「無駄が嫌いなので」
ルカは平然としている。
バルガスはしばらく黙っていたが、やがて低く言った。
「疑うのは勝手だ。だが一つだけ言っておく」
「何でしょう」
「俺は聖女様を侮辱したかったんじゃない」
その言葉は、はっきりしていた。
「もし終わらせるとしても、それは……」
そこで彼は口を閉ざした。
続きを飲み込んだのだろう。
けれど、ルカには十分だった。
終わらせるとしても、侮辱のためではない。
つまりこの男の中では、【壊す事】と【救う事】が、かなり近い場所にある。
ルカはそれを覚えておくことにした。
「うん、今日はこれでいいです」
そう言って背を向ける。
夕方の風がまた吹いた。祭りの音は遠く、もう夜の近さの方が強く感じられる。
訓練場を離れながら、ルカは静かに目を細めた。
――聖女は夜に歩いていた。
壁にぶつかっても止まらず、ただ向きを変えて歩き続けた。
それは術の乱れの証拠だ。誰かが操作していたのに、完全には制御しきれていなかった。
つまり、術者は万能ではない。
ごまかし続けた仕組みには、必ず綻びがある。
そしてそれを見た騎士は、恐れながらも、どこかで終わりを願っていた。
ルカの中で、容疑者たちの形が少しずつはっきりしていく。
数字の並びはまだ揃わない。
けれど、それぞれの歪みは見えてきた。
春の終わりのような風の中、少年は一人、次に確かめるべきことを思い浮かべていた。
そろそろ誰が何を隠しているのかだけでなく、誰がどこまで知っていたのかを見極める時なのかもしれないと考えながら。
夕方に近づいた空は少しずつ色を変え始めていて、石畳の上に長い影を落としている。
昼間は剣を打ち合わせる音や兵士たちの掛け声で満ちる場所も、今は人払いされて静かだった。
遠くから祭りの名残のような騒めきがかすかに聞こえるが、ここには届かない。
バルガスは訓練用の柵のそばに立ち、腕を組んだまま黙っていた。
大きな体と鍛えられた肩。
短く刈った髪。
いかにも騎士らしい、まっすぐでごまかしのなさそうな男だった。
だが、その顔にはここ数日で一気に深くなったような疲れが刻まれている。
ルカは少し離れた位置に立ち、その姿を静かに見た。
「こんにちは、バルガスさん」
「……アンタか」
「フフ、あなたは嘘が苦手そうですね」
「会ってすぐそれかよ」
挨拶の代わりのようにそう言うと、バルガスは眉をひそめた。
「ったく……喧嘩を売りに来たのか」
「いいえ。助かる、という話です」
ルカはいつもの調子で返す。
「嘘を上手につく人は、話が長くなるので面倒ですよ」
バルガスは鼻を鳴らした。
怒ったと言うより、呆れたような反応だった。
「……で、何を聞きたい?」
「聖女様、アリアについてです」
その名前が出た瞬間、バルガスの顔が少しだけ固くなる。
ルカは見逃さなかったが、そこをすぐに突かなかった。
「あなたは、聖女が死体だったことは知らなかった」
「知らなかったさ」
「だが、何かおかしいとは思っていたはずです」
ルカの言葉に、バルガスは少し黙った。
夕方の風が、訓練場の端に立つ旗をかすかに揺らす。
「……妙な話を、何度も耳にしていた」
「妙な話?」
「夜中に聖女様が一人で歩き回っている、という噂だ」
「噂、ですか」
「最初はくだらんと思った。夜番の兵が居眠りでもして、変なものを見たんだろうと。だが、何人も同じようなことを言う。しかも決まって【様子がおかしい】とな」
バルガスは不快そうに顔をしかめた。
「聖女様に対して失礼だと叱ったこともある。だが……」
「だが?」
「……一度、俺が見た」
バルガスのその一言で、空気が少し変わった。
ルカは何も言わず、続きを待つ。
そのまま腕を組んだまま視線を遠くへ向け、訓練場の石壁ではなく、もっと別の夜を見ているようだった。
「二ヶ月ほど前の夜だ……城内の見回りをしていた。夜も深くて、人の気配もほとんどなかった。北の廊下の角を曲がった時、前を白い影が歩いていた」
ルカの頭の中で、暗い廊下の情景が浮かぶ。
月明かりの差し込む石の通路。
足音のない夜――そこを、白い衣の聖女が一人で歩いていく。
「最初は聖女様だと気づかなかった。こんな時間に、どうして一人でと思って声をかけようとした」
バルガスの眉間にしわが寄る。
「だが、その前に……壁にぶつかった」
「壁に?」
「そうだ」
短く答える声は重かった。
「廊下の曲がり角を少し見誤ったように、そのまま壁に肩をぶつけた。普通なら驚くとか、立ち止まるとか、少し顔をしかめるとか……そういう反応があるはずだ」
バルガスはそこで一度、言葉を切る。
その先を口にすること自体、あまり気分のいいものではないのだろう。
「でも、聖女様は何もなかったように止まりもせず、ただ……向きを変えた」
ルカは静かに聞いていた。
「ゆっくりと、決まった動きで。まるで間違えた進路を直すみたいに、すっと方向を変えて、そのまままた歩き出した」
風が少し強く吹く。
訓練場の空気が冷えた気がした。
「顔は?」
「見えた」
「見えたんですね?」
「ああ……月明かりがあったからな。だが……表情はなかった。何も」
その声には、あの夜に感じた得体の知れなさがまだ残っていた。
「眠そうでもなく、ぼんやりしているわけでも、考え事をしているわけでもない。ただ前だけを見て歩いていた」
ルカはその光景を頭の中で組み立てていく。
壁にぶつかる。
驚かない。
痛がらない。
止まらない。
ただ、進路の誤差だけを修正する。
人間の歩き方ではない。
意思のある者の動きではない。
それはたしかに、不安定な術で動かされたものの動きだ。
「その時、声はかけましたか?」
「かけた」
「返事はありました?」
「なかった」
バルガスは苦い顔をする。
「二度呼んだが、反応しなかった。追いかけようとしたが、その先で巡回中の神官に止められた。聖女様は夜の祈りの最中だから近づくな、と」
「神官の名前は?」
「覚えている。後で書き出す」
ルカは小さく頷いた。
やはり、聖女を動かしていた者の制御は完全ではなかった。
普段は人の前でだけそれらしく振る舞わせ、見えないところではこうして綻びが出る。
命令が単純すぎるのか、術者の力が足りないのか、その両方か。
少なくとも、美しい仕組みではない。
ルカは心の中で冷たく考える。
壊れたものを無理やり動かしているから、こうなる。
少ない命令で動く人形ほど、不測の事態に弱い。
壁にぶつかった時の反応ひとつ取っても、人間なら無数にある自然な動きが、術式では用意しきれない。
結果として残るのは、規則正しい不自然さだけだ。
「あなたはその時点で、何か異常だと思った」
「……思ったわ」
バルガスはすぐに認めた。
「だが、聖女様に対してそんな疑いを向けること自体が許されない空気だった。俺は……気のせいだと思うことにした」
ルカはその答えに頷きもしなかった。
気のせいではないと知りながら、そう思い込もうとしたのだろう――王女と同じだ。勇者とも少し似ている。
皆、違和感には触れていた。
けれど、あまりに大きな存在だったから、真っ向から疑えなかった。
問題はそこではない。
ルカはバルガスの顔を見た。
この男は、ただ恐れていたわけではない。
今もなお、聖女のことを考える時の目に対し嫌悪だけではないものが残っている。
「あなたは聖女を敬っていたんですか?」
「当然だ」
「では、今は?」
問いかけは静かだったが、鋭かった。
バルガスはすぐには答えなかった。
夕暮れの光が、彼の横顔を半分だけ照らしている。
固く結ばれた口元と強い顎。
だがその奥に、ひどく言葉にしにくいものがあるのが見えた。
「……わからん」
ようやく出た答えは、それだった。
「何を敬っていたのか、もう自分でもわからん。聖女様が何者だったのかも、今となっては」
ルカは黙って聞く事しか出来ない。
バルガスは遠くを見るような目のまま、低く続けた。
「だが、ひとつだけ確かなことがある」
「え、何ですか?」
「今のままでは駄目だった……例え聖女様が、本当に聖女様ではなかったとしても。たとえ死体だったとしても。あんな風に扱われていいわけがない」
バルガスの手が、組んだ腕の上でぎり、とわずかに音を立てた。
「人目のあるところでは笑わせ、祈らせ、祭り上げる。裏では誰かが操り、壊れかけても立たせ続ける……そんなのは、あまりに」
そこで言葉が切れた。
怒りだけではなかった。
そこには深い痛みがある。
「――終わらせたかったんですね」
ルカが言うと、バルガスは目だけでこちらを見た。
その視線には警戒がある。だが否定はしない。
「……聖女様が何者であれ、汚れた今の状況を終わらせたかった」
その声は低く、静かだった。
怒鳴っているわけではない。
泣いているわけでもない。
ただ、腹の底で長く煮えていた思いが、そのまま形になったような声だった。
ルカはその言葉を、心の中で静かに置いてみる。
終わらせたかった。
聖女を憎んでいたのではない。
むしろ逆だ。
この男は、最後まで聖女を人として扱いたいと願っていた。
例えその正体が何であっても、今のように見世物として使い続けるのは耐えられなかった。
そこにあるのは慈しみだ。
だが同時に、それはひどく危うい。
誰かを救いたいという思いが強くなりすぎれば、壊すことでしか終わらせられないと思い込むことがある。
その時、慈愛は殺意によく似た形を取る。
ルカはその冷たい理解を胸の中で数式の一部に組み込んだ。
勇者レオンには依存と怒りがある。
王女エリザベートには恐怖がある。
大神官サリエルには保身と計算がある。
そして騎士団長バルガスには――慈愛に似た破壊衝動がある。
美しくはないが、あり得る式だ。
「……何だ、その顔は」
バルガスが言った。
「いやに静かだな」
「考えているだけですよ」
ルカは答える。
「あなたの言葉を、ちゃんと計算に入れようと思って」
「計算だと」
「はい。人は自分のためだけに壊すとは限りません。誰かを救うために壊すこともある。その方がよほど厄介です」
「俺を疑っているのか」
「そりゃ、もちろん」
その返答はあまりに即答だった。
バルガスは一瞬言葉を失い、それから短く息を吐いた。怒る気も失せたようだった。
「正直なガキだな」
「無駄が嫌いなので」
ルカは平然としている。
バルガスはしばらく黙っていたが、やがて低く言った。
「疑うのは勝手だ。だが一つだけ言っておく」
「何でしょう」
「俺は聖女様を侮辱したかったんじゃない」
その言葉は、はっきりしていた。
「もし終わらせるとしても、それは……」
そこで彼は口を閉ざした。
続きを飲み込んだのだろう。
けれど、ルカには十分だった。
終わらせるとしても、侮辱のためではない。
つまりこの男の中では、【壊す事】と【救う事】が、かなり近い場所にある。
ルカはそれを覚えておくことにした。
「うん、今日はこれでいいです」
そう言って背を向ける。
夕方の風がまた吹いた。祭りの音は遠く、もう夜の近さの方が強く感じられる。
訓練場を離れながら、ルカは静かに目を細めた。
――聖女は夜に歩いていた。
壁にぶつかっても止まらず、ただ向きを変えて歩き続けた。
それは術の乱れの証拠だ。誰かが操作していたのに、完全には制御しきれていなかった。
つまり、術者は万能ではない。
ごまかし続けた仕組みには、必ず綻びがある。
そしてそれを見た騎士は、恐れながらも、どこかで終わりを願っていた。
ルカの中で、容疑者たちの形が少しずつはっきりしていく。
数字の並びはまだ揃わない。
けれど、それぞれの歪みは見えてきた。
春の終わりのような風の中、少年は一人、次に確かめるべきことを思い浮かべていた。
そろそろ誰が何を隠しているのかだけでなく、誰がどこまで知っていたのかを見極める時なのかもしれないと考えながら。



