死せる聖女の二度目の沈黙 ―13歳の鑑定士と腐敗なき密室―

 教会の書庫は、ひんやりとしていた。
 石造りの壁に囲まれたその部屋には、古い紙と革の匂いがしみついている。
 高い棚にはびっしりと帳簿や聖典が並び、窓から差し込む午後の光が、細かな埃を白く浮かび上がらせている。
 外ではまだ祭りの名残のようなざわめきが続いているのに、ここだけは時間が止まったように静かだった。
 その静けさの中で、大神官サリエルは一冊の帳簿を閉じようとしていた。

「サリエル様、閉じないでください」

 ルカの声は、柔らかいのに逃げ道をふさぐ響きを持っていた。
 サリエルの指が止まる。
 書庫の入り口に立っていたルカは、ゆっくりと中へ入ってきた。
 黒い礼装の裾が、石の床を静かにかすめる。年若い少年の歩き方とは思えないほど落ち着いていて、その分だけ不気味だった。

「……何の用ですか、ルカ様」

 サリエルは声を整えようとしたのだろうが、うまくいっていなかった。
 乾いた喉を無理やり鳴らしたような声だった。
 ルカは答えず、長机の上に開かれた帳簿へ目を落とした。
 そこには細かな文字で、日付と品目と金額が並んでいる。
 見慣れた者なら流してしまうような数字の列だが、ルカはその中から必要なものだけを拾い上げるように視線を走らせていく。

「香水」

 小さく読み上げる。

「月ごとに、かなりの量を発注していますね」

 サリエルの顔がわずかにこわばる。

「聖女様にふさわしい品を整えるのも、教会の務めです」
「そうでしょうか?」

 ルカは帳簿を一枚めくった。

「この銘柄、普通の香油ではありません。香りをつけるためのものではなく、保存魔法の触媒として使われる高級薬品です。死体の傷みを遅らせるための」

 その一言で、書庫の空気が重く沈んだ。
 サリエルはすぐに否定しなかった。
 否定できなかった。
 ルカはさらに帳簿をめくる。
 紙の擦れる音だけが、妙に大きく響いた。

「こちらも同じです。花の香りをつける名目で買われていますが、実際には保存用の液体に混ぜるものですね。腐敗の匂いを消すための」

 少年は顔を上げる。

「ずいぶん手が込んでいるんですね、フフ」

 その言い方には、怒りも軽蔑もなかった。
 ただ、よくできた仕組みを見つけた人間の興味だけがあった。

「……何が言いたいんですか?」

 サリエルがようやく言った。
 ルカは帳簿の上に指を置いたまま、静かに答える。

「言いたい事は簡単です。あなたは聖女アリアのために香水を買っていたのではありません。聖女の死体を長く保つための材料を、ずっと買い続けていた」

 サリエルの頬が引きつる。
 それでも彼は、まだ崩れなかった。
 大神官として長年、人前で顔を作ってきた人間の意地がそこにあった。

「……証拠としては弱いですね」
「ええ、これだけなら」

 ルカはあっさり認めた。

「ですが、聖堂の床に落ちていた液体と匂いが一致しました。発注量も不自然です。しかも王女は、聖女が三年近く食事をしていないと証言した。勇者は半年前の時点で、彼女の肌が氷のように冷たく脈もなかったと言っています」

 ひとつひとつ、逃げ道を塞ぐように言葉を置いていく。

「これだけ揃えば十分でしょう。あなたは知っていた。聖女がずっと前から死体だった事を」

 サリエルは帳簿の前に立ったまま動かなかった。
 いや、正確には動けなかったのだろう。
 法衣の袖の中で、指先だけが細かく震えている。
 書庫の窓から入る光が、彼の青ざめた顔を容赦なく照らしていた。

「……教会は」

 やがて、サリエルは絞り出すように口を開いた。

「教会は、聖女を失うわけにはいかなかったんですよ」

 ルカは何も言わない。
 サリエルは机の端を掴んだ。
 そうでもしなければ立っていられないようだった。

「聖女は象徴だった。この国の救いであり、信仰の中心だった。王も、民も、騎士も、皆があの子を見て安心していた。あの子がいるから国は守られているのだと……そう思っていた」

 声はかすれていたが、言葉はもう止まらなかった。

「もし、あの時に聖女の死を公にしていたら、どうなったと思いますか?教会の権威は地に落ち、信者は不安に駆られ、寄付は止まり、王都は混乱し、王家と教会の力関係も大きく揺らいだはずですよ」

 ルカは静かに聞いていた。
 怒りに任せた言い訳ではない。
 これはサリエルにとって、何度も心の中でくり返してきた正当化なのだろう。

「だから、動かし続けたのですか」

 ルカが問い、サリエルは目を閉じた。

「……そうだ」

 その一言は重かった。

「死んだと知った日の夜、私はすぐに判断しました。聖女は消してはならないと……あの子は、死んでもなお、この国に必要だったんですよ」

 ルカの中で、冷たい数字が並んでいく。
 教会の権威。
 信者の安心。
 寄付金。
 祭礼の維持。
 王家との均衡。
 ひとつの死体を保ち、立たせ、笑わせ、祈らせるためには金も手間もかかる。
 だが、それで守れるものが大きいなら、運用する価値はある。
 醜悪だが、計算としては筋が通っている。
 ルカは小さく頷いた。

「……なるほど」

 サリエルが顔を上げる。
 その目には、責められる覚悟のようなものがある。
 だがルカの口から出た言葉は、予想していたものとは違った。

「――実に冷静ですね、サリエル様」
「……何?」
「あなたは情に流されて死体を隠したのではない。組織を守るため、損失と利益を計算したんですよ。その上で聖女を【運用】したのです……有能ですよ、サリエル様。とても最低ですが」

 笑ながら答えるルカに対し、サリエルの顔が強く歪んだ。

「貴様……」
「【詐欺師】としては、という意味です」

 ルカの声はどこまでも平らだった。

「不滅の聖女、衰えぬ奇跡、永遠の加護、信者は喜んで金を払ったでしょうね……見たいものを見せてもらえるのですから」

 書庫の中に、重い沈黙が落ちる。
 サリエルは怒ることもできず、ただ苦しそうに息を吐いた。
 否定しようにも、もうできないのだろう。
 ルカはそれを見ながら、心の中で計算を組み直す。
 死体の維持には金がいる。
 薬品がいる。
 術がいる。
 そして何より、真実を隠し続ける人間がいる。
 つまりこれは、一人ではできない。
 少なくともサリエルは、その仕組みの中心にいた。
 だが――それでも、まだ足りない。

「……聖女は、いつ死んだんですか」

 ルカの問いは唐突だった。
 サリエルの肩がびくりと揺れる。

「……三年前です」

 今度の答えは、ほとんど諦めたような声だった。

「三年前の夏。暑い日だった。あの子は朝まで普通でした。少なくとも、そう見えた。だが昼前に急に倒れたんです。医師も呼び、神官も呼んだ。だが、どうにもならなかった。顔色はみるみる悪くなり、息が止まり……そして、そのまま動かなくなった」
「……死因は?」

 ルカが短く問うと、サリエルは唇を噛んだ。

「毒です」

 その一言で、部屋の空気がまた少し変わった。

「毒殺されたのですか?」
「……そうです。体の中から、強い毒の反応が出ました。普通の薬ではなく、かなり手の込んだものでした」

 ルカの目が静かに細くなる。
 三年前の夏――毒、そして、その死を隠して始まった死体の運用。
 事件の始まりが、ようやく形を持ち始める。

「誰がやったのか、見当は?」

 サリエルはゆっくりと首を振った。

「知らない」
「本当に?」
「本当です」

 その声だけは、先ほどまでより強かった。

「私は聖女の死を隠しました。そこは認めます……しかし、殺した者については知らない。調べる余裕すらなかった。死を公にしないと決めた時点で、表立って追うこともできなくなってしまった」

 ルカはその言葉を頭の中で転がす。
 あり得る話だった。
 もし殺された聖女をすぐに死体のまま使うと決めたなら、犯人探しは大きな危険になる。
 騒ぎが広がれば、死そのものを隠しきれなくなるからだ。

 ――合理的ではある。

 そして、ぞっとするほど冷たい。

「つまりあなたは――聖女を殺した犯人を追うより、死んだ聖女を使い続ける方を選んだのですか?」
「……そうです、その通りです」

 その答えは、書庫の空気よりも冷たかった。
 サリエルの言葉を聞いて、ルカはしばらく何も言わなかった。
 三年前の夏に聖女は毒殺された。
 サリエルはそれを隠し、死体を聖女として動かし続けた。
 だが今回の密室事件を起こした犯人は、また別にいる可能性が高い。
 つまりこの事件には、少なくとも二つの罪が重なっている。
 最初の殺し。
 その後の偽り。
 そして今、誰かがその偽りを壊した。

「……フフ、面白いですね」

 ルカはぽつりと呟いた。
 サリエルが顔をしかめる。

「……何がですか?」
「あなたは最初の罪を隠した。そして別の誰かが、三年越しにその仕組みを壊した」

 ルカは帳簿の背表紙を指先で軽く叩いた。

「一つの事件に見えて、実際には別の数式が重なっている。少し複雑ですが、嫌いではありません」

 その言い方に、サリエルはうっすらと恐れをにじませた。
 目の前にいるのは十三歳の少年のはずなのに、その中身はあまりに冷えすぎている。
 人の死や欺きに対して、怒りでも哀れみでもなく、構造の美しさや歪みだけを見ている。
 ルカはそんな視線を気にも留めなかった。

「――とりあえず、今日は十分です」

 そう言って帳簿から手を離す。

「三年前の夏、聖女様は毒殺されました。犯人は不明です……けれど、あなたが死体の運用者だったことは確認できました」
「……あなたは、私を王に突き出すのですか?」

 サリエルの問いに、ルカは少しだけ首を傾ける。

「必要ならしますけど?」

 それだけだった。
 脅しでも慰めでもない、ただの事実。
 ルカは書庫の扉へ向かってそのまま歩き出す。
 古い床板が小さく軋んだ。
 扉の前で一度だけ立ち止まり、振り返る。

「サリエル様」

 サリエルは力なく顔を上げる。

「あなたは聖女を神の奇跡として売った。でも実際に売っていたのは、人々の安心です……よくできた商売でしたよ。長くは続かなかったようですが」

 それだけ言って、少年は書庫を出た。
 廊下には午後の光が伸びている。
 遠くで祭りの音がまだ続いていた。
 人々は笑い、祝福し、この国の平和を疑っていない。
 だがルカの中では、盤面がさらに広がっていた。

 ――三年前の毒殺。
 ――大神官の隠蔽。
 ――死体を聖女として維持する仕組み。
 ――そして、その偽りを今さら暴くように起きた密室事件。

 真実はまだ全部つながっていない。
 けれど断片は揃い始めている。
 ルカは廊下を歩きながら、静かに目を細めるのだった。