王女エリザベートの部屋は、静かだった。
王城の中でも日当たりの良い一室のはずなのに、そこには明るさよりも、どこか薄暗い落ち着かなさが漂っていた。
窓辺には季節の花が飾られている。
白いレースのカーテンはきちんと整えられ、棚の上には細工の美しい小箱や香水瓶が並んでいる。
部屋そのものは何ひとつ乱れていない。
むしろ、綺麗に整いすぎているくらいだった。
けれどルカは、部屋へ入ってすぐにその違和感に気づいた。
【鏡】と言うモノが、ない。
化粧台の上にも、壁にも、手鏡ひとつ置かれていない。
王女の私室にしては不自然すぎるほど、映り込むものが何もなかった。
ルカは部屋の中央で立ち止まり、静かに視線を巡らせた。
窓の近くに座っていたエリザベートは、その視線の意味に気づいたのだろう。
膝の上で組んだ手をきゅっと握りしめ、少しだけ肩を縮めた。
「……おかしいと、思われましたか」
声はかすかに震えていた。
ルカは否定も肯定もしなかった。
ただ、柔らかくも冷たくもない声で言う。
「王女の部屋には普通、美しさを整える為に鏡があると、思っておりました」
それだけで十分だった。
エリザベートは目を伏せる。長い睫毛がかすかに揺れた。
「……前は、ありました」
小さく、途切れがちな声だった。
「大きな鏡も、手鏡も……ちゃんと、あったんです。でも、今は……置けません」
ルカは黙って続きを待つ。
急かされない事が、返って逃げ道をなくすのかもしれない。
エリザベートはひとつ息を吸ってから、ゆっくりと言葉をつないだ。
「アリアの着替えを手伝った時でした」
その名を口にした瞬間、王女の顔が少しだけ強ばる。
「三年くらい前だったと思います。あの日も、いつもと同じように、侍女たちを下がらせて……私が背中の留め具を直そうとしたんです」
部屋の空気が静かに冷えていくようだった。
ルカは何も言わない。
エリザベートの視線は、もう目の前の少年ではなく、あの日の記憶を見ていた。
「……その時、見えてしまったのです」
王女は膝の上の自分の手を見つめたまま、囁くように続けた。
「背中に……変な痣のようなものが、ありました。一本の傷ではなくて、もっと細かくて、長くて……まるで、布を縫い合わせたみたいな」
ルカの目がわずかに細くなる。
「縫い目、ですか」
「はい……」
エリザベートは唇を噛んだ。
「最初は傷跡だと思いました。でも、違ったんです。あんな場所に、あんな風に、あんな……規則正しい形で残るものじゃない」
王女の肩が小さく震える。
「しかも、肌の色もおかしくて。そこだけ妙に白くて、でも白いだけじゃなくて……生きた人の肌じゃないみたいで」
思わず、そこで言葉が止まる。
ルカは部屋の中をもう一度見回した。
鏡がない理由は、たぶん単純だ。
一度でも【人の形をした何か】を見てしまった者は、その恐ろしさを自分の中から追い出せなくなる。
鏡に映る自分の背中にまで、ありもしない縫い目を探してしまう。
そうなれば、自分の姿さえ信じられなくなる。
エリザベートはそれを言葉にはしなかった。
だが、鏡を捨てた事実が全てを語っていた。
「それ以来、鏡を見るのが怖くなったんです」
やはり王女は、ほとんど同じ事を口にした。
「自分の背中は見えないでしょう?だから……もし、私も気づかないだけで、おかしなものになっていたらどうしようって」
その告白は弱々しく、けれど切実な発言だった。
王女、エリザベートの言葉にルカはしばらく黙っていたが、やがて窓際から少し離れた椅子に腰を下ろした。
「……その事は誰に話しましたか」
「誰にも」
「大神官にも?」
「……言えませんでした」
エリザベートは首を横に振る。
「私の見間違いかもしれないと思ったんです。そう思いたかった。アリアは聖女でしたし、私は……私が変なことを言えばきっと不敬だと叱られるだけだと思ったのです」
それはもっともらしい理由だった。
けれどルカには、それだけではないのもわかっていた。
王女は恐れたのだ。
恐れてしまったのだ。
真実を言葉にした瞬間、それが本当に現実になってしまう事を。
部屋の中に重たい沈黙が落ち――やがてルカは、静かに問いを変えた。
「――では、食事はどうでしたか」
エリザベートが顔を上げる。
「食事……?」
「聖女様は普段、何を食べていましたか」
その問いを聞いた途端、王女の顔にまた別の色が浮かんだ。
恐怖というより、ひどく疲れた人間の表情だった。
「……食べて、いませんでした」
ぽつりとこぼれた声は小さい。
「ここ三年、一度も」
「そこを詳しく」
エリザベートは膝の上で握った手をさらに強く組み合わせた。
「最初の頃は、少しは口にしていたと思います。でも、いつからか……食卓についても、ほとんど何も食べなくなったんです」
窓の外で、鳥が一声だけ鳴いた。
「皆がいる時は、ちゃんと席に着いていました。出された皿も前に置かれていました。だから、ぱっと見ではおかしくないんです。でも……」
「でも?」
「彼女は、食べるフリをしていただけ、だと思います」
その言葉ははっきりしていた。
「肉料理が出ると、ナイフで細かく刻むんです。何度も、何度も。ほんの小さなかけらになるまで……それを口元に運ぶことはあっても、飲み込んでいるところは見たことがありません。パンも、果物も、スープも同じでした。ただ皿の上で形を崩して時間が来たら下げさせるだけ」
ルカはその光景を頭の中に描く。
豪華な食卓。
人々の視線。
そして聖女の微笑み。
静かに動くナイフ。
刻まれていく肉。
けれど一口も食べない。
見せかけだけの食事。
それは確かに、生きているように見せるための演出としてはよくできている。
だが同時に、ぞっとするほど手間がかかる。
「誰か、不思議に思わなかったのですか?」
「思っていた人はいたかもしれません。でも、それに対して口にはしませんでした」
エリザベートは目を伏せる。
「聖女様だから、特別なのだと皆が思おうとしていました。普通の人とは違う……神に近いから食事も少ないのだって……そうやって」
自分で言いながら、その理屈の空虚さを感じているのだろう。王女の声はどんどん小さくなる。
ルカは静かに頷いた。
死体に食事は必要ない。
だが、死体を生きているように見せるなら、食卓につかせないわけにはいかない。
だからこそ皿を前に置き、食べるフリだけをさせる。
実に面倒で、実に不格好なやり方だった。
その時、ルカの中でひとつの冷えた笑いが生まれる。
――なんとも美しくないな。
死体を動かす術式だけでも不安定なのにそれを日常の中で破綻なく見せかけるためには、これほど余計な細工が必要になる。
着替えの時は肌を見せすぎないよう気をつけ、食卓では口にしない不自然さを隠し、触れられる場面も限らなければならない。
変数が多すぎる。
ごまかす点が多すぎる。
こんなものは、少し観察すれば必ず綻ぶ。
ルカは心の中で、ほとんど呆れたようにその構造を見下ろしていた。
王女はまだ、不安そうにこちらを見ている。
「……やはり、私はおかしくなっていたのでしょうか?」
その問いには、助けを求める響きが少しだけ混じっている。
対し、ルカはすぐには答えなかった。
王女の怯えは本物だ。
鏡を捨てたのも、聖女の異変に気づきながら黙っていたのも、全部その弱さから来ている。
だが、それを可哀そうだとは思わない。
ただ、そういう人間なのだと理解するだけだ。
「おかしくなったのではなく、ようやく違和感に気づいただけです」
ルカは静かに言った。
「見ないフリを続けていた周囲よりは、ずっとまともです」
その言葉が慰めになるのかどうかはわからなかった。
けれど、エリザベートは少しだけ息を吐く。
張りつめていた肩が、ほんの少しだけ下がる。
そのまま、ルカは立ち上がった。
部屋の中にはやはり鏡がない。
けれどその代わりに、この部屋には王女の恐怖が隅々まで染みついているように思えた。
聖女の背中の縫い目。
三年間、一度も口にされなかった食事。
食卓で続けられた無意味な演技。
それらは全て、死体を聖女に見せかけるための苦しい工夫だった。
美しく飾られた偶像の裏側は、思っていた以上にみっともない。
そして、そのみっともなさこそが真実に近づく手がかりになる。
「――今日はありがとうございました、王女殿下」
ルカがそう言うと、エリザベートは少し迷ってから口を開いた。
「フォール卿」
「何でしょう?」
「……アリアは、本当に……ずっと前から、もう」
最後まで言えない問いだ。
ルカは扉の前で一度だけ足を止める。
「多分、あなたが思っているより前からです」
ルカはそのように静かに笑い、それだけ言って部屋を出た。
廊下はとても明るかった。
窓から春の日差しが差し込み、遠くから祭りの音も聞こえてくる。
だが、ルカの頭の中では別のものがはっきりと形を取り始めていた。
――死体は食べない。
――死体は温まらない。
――死体は縫い目を隠し、演技を重ね、祈りの中で生きているフリをする。
そこまでして守られた聖女という偶像は、もう信仰の象徴というより、支えるために無理やり組み上げられた張りぼてに近かった。
――変数が多すぎる。
ルカは心の中で冷たく笑う。
――この数式、まるで、いや絶対に美しくない。
もっと少ない要素で、もっと静かに成り立つ嘘ならまだしも、これは違う。
隠すものが多すぎて、いずれ必ず壊れる仕組みだった。
だからこそ、誰かがそれを壊した。
そして壊されるだけの理由があった。
ルカは廊下を歩きながら、次に聞くべき相手の顔を思い浮かべる。
勇者は痛みを消されていた。
王女は縫い目と食卓の演技を見ていた。
大神官は何かを知りながら黙っている。
ならば次に暴くべきは、偶像を守るために動いていた者たちの役目だ。
春の光の中を歩く少年の目は、少しも柔らかくない。
静かに、確実に、王国の嘘の輪郭だけを追っていくかのように。
王城の中でも日当たりの良い一室のはずなのに、そこには明るさよりも、どこか薄暗い落ち着かなさが漂っていた。
窓辺には季節の花が飾られている。
白いレースのカーテンはきちんと整えられ、棚の上には細工の美しい小箱や香水瓶が並んでいる。
部屋そのものは何ひとつ乱れていない。
むしろ、綺麗に整いすぎているくらいだった。
けれどルカは、部屋へ入ってすぐにその違和感に気づいた。
【鏡】と言うモノが、ない。
化粧台の上にも、壁にも、手鏡ひとつ置かれていない。
王女の私室にしては不自然すぎるほど、映り込むものが何もなかった。
ルカは部屋の中央で立ち止まり、静かに視線を巡らせた。
窓の近くに座っていたエリザベートは、その視線の意味に気づいたのだろう。
膝の上で組んだ手をきゅっと握りしめ、少しだけ肩を縮めた。
「……おかしいと、思われましたか」
声はかすかに震えていた。
ルカは否定も肯定もしなかった。
ただ、柔らかくも冷たくもない声で言う。
「王女の部屋には普通、美しさを整える為に鏡があると、思っておりました」
それだけで十分だった。
エリザベートは目を伏せる。長い睫毛がかすかに揺れた。
「……前は、ありました」
小さく、途切れがちな声だった。
「大きな鏡も、手鏡も……ちゃんと、あったんです。でも、今は……置けません」
ルカは黙って続きを待つ。
急かされない事が、返って逃げ道をなくすのかもしれない。
エリザベートはひとつ息を吸ってから、ゆっくりと言葉をつないだ。
「アリアの着替えを手伝った時でした」
その名を口にした瞬間、王女の顔が少しだけ強ばる。
「三年くらい前だったと思います。あの日も、いつもと同じように、侍女たちを下がらせて……私が背中の留め具を直そうとしたんです」
部屋の空気が静かに冷えていくようだった。
ルカは何も言わない。
エリザベートの視線は、もう目の前の少年ではなく、あの日の記憶を見ていた。
「……その時、見えてしまったのです」
王女は膝の上の自分の手を見つめたまま、囁くように続けた。
「背中に……変な痣のようなものが、ありました。一本の傷ではなくて、もっと細かくて、長くて……まるで、布を縫い合わせたみたいな」
ルカの目がわずかに細くなる。
「縫い目、ですか」
「はい……」
エリザベートは唇を噛んだ。
「最初は傷跡だと思いました。でも、違ったんです。あんな場所に、あんな風に、あんな……規則正しい形で残るものじゃない」
王女の肩が小さく震える。
「しかも、肌の色もおかしくて。そこだけ妙に白くて、でも白いだけじゃなくて……生きた人の肌じゃないみたいで」
思わず、そこで言葉が止まる。
ルカは部屋の中をもう一度見回した。
鏡がない理由は、たぶん単純だ。
一度でも【人の形をした何か】を見てしまった者は、その恐ろしさを自分の中から追い出せなくなる。
鏡に映る自分の背中にまで、ありもしない縫い目を探してしまう。
そうなれば、自分の姿さえ信じられなくなる。
エリザベートはそれを言葉にはしなかった。
だが、鏡を捨てた事実が全てを語っていた。
「それ以来、鏡を見るのが怖くなったんです」
やはり王女は、ほとんど同じ事を口にした。
「自分の背中は見えないでしょう?だから……もし、私も気づかないだけで、おかしなものになっていたらどうしようって」
その告白は弱々しく、けれど切実な発言だった。
王女、エリザベートの言葉にルカはしばらく黙っていたが、やがて窓際から少し離れた椅子に腰を下ろした。
「……その事は誰に話しましたか」
「誰にも」
「大神官にも?」
「……言えませんでした」
エリザベートは首を横に振る。
「私の見間違いかもしれないと思ったんです。そう思いたかった。アリアは聖女でしたし、私は……私が変なことを言えばきっと不敬だと叱られるだけだと思ったのです」
それはもっともらしい理由だった。
けれどルカには、それだけではないのもわかっていた。
王女は恐れたのだ。
恐れてしまったのだ。
真実を言葉にした瞬間、それが本当に現実になってしまう事を。
部屋の中に重たい沈黙が落ち――やがてルカは、静かに問いを変えた。
「――では、食事はどうでしたか」
エリザベートが顔を上げる。
「食事……?」
「聖女様は普段、何を食べていましたか」
その問いを聞いた途端、王女の顔にまた別の色が浮かんだ。
恐怖というより、ひどく疲れた人間の表情だった。
「……食べて、いませんでした」
ぽつりとこぼれた声は小さい。
「ここ三年、一度も」
「そこを詳しく」
エリザベートは膝の上で握った手をさらに強く組み合わせた。
「最初の頃は、少しは口にしていたと思います。でも、いつからか……食卓についても、ほとんど何も食べなくなったんです」
窓の外で、鳥が一声だけ鳴いた。
「皆がいる時は、ちゃんと席に着いていました。出された皿も前に置かれていました。だから、ぱっと見ではおかしくないんです。でも……」
「でも?」
「彼女は、食べるフリをしていただけ、だと思います」
その言葉ははっきりしていた。
「肉料理が出ると、ナイフで細かく刻むんです。何度も、何度も。ほんの小さなかけらになるまで……それを口元に運ぶことはあっても、飲み込んでいるところは見たことがありません。パンも、果物も、スープも同じでした。ただ皿の上で形を崩して時間が来たら下げさせるだけ」
ルカはその光景を頭の中に描く。
豪華な食卓。
人々の視線。
そして聖女の微笑み。
静かに動くナイフ。
刻まれていく肉。
けれど一口も食べない。
見せかけだけの食事。
それは確かに、生きているように見せるための演出としてはよくできている。
だが同時に、ぞっとするほど手間がかかる。
「誰か、不思議に思わなかったのですか?」
「思っていた人はいたかもしれません。でも、それに対して口にはしませんでした」
エリザベートは目を伏せる。
「聖女様だから、特別なのだと皆が思おうとしていました。普通の人とは違う……神に近いから食事も少ないのだって……そうやって」
自分で言いながら、その理屈の空虚さを感じているのだろう。王女の声はどんどん小さくなる。
ルカは静かに頷いた。
死体に食事は必要ない。
だが、死体を生きているように見せるなら、食卓につかせないわけにはいかない。
だからこそ皿を前に置き、食べるフリだけをさせる。
実に面倒で、実に不格好なやり方だった。
その時、ルカの中でひとつの冷えた笑いが生まれる。
――なんとも美しくないな。
死体を動かす術式だけでも不安定なのにそれを日常の中で破綻なく見せかけるためには、これほど余計な細工が必要になる。
着替えの時は肌を見せすぎないよう気をつけ、食卓では口にしない不自然さを隠し、触れられる場面も限らなければならない。
変数が多すぎる。
ごまかす点が多すぎる。
こんなものは、少し観察すれば必ず綻ぶ。
ルカは心の中で、ほとんど呆れたようにその構造を見下ろしていた。
王女はまだ、不安そうにこちらを見ている。
「……やはり、私はおかしくなっていたのでしょうか?」
その問いには、助けを求める響きが少しだけ混じっている。
対し、ルカはすぐには答えなかった。
王女の怯えは本物だ。
鏡を捨てたのも、聖女の異変に気づきながら黙っていたのも、全部その弱さから来ている。
だが、それを可哀そうだとは思わない。
ただ、そういう人間なのだと理解するだけだ。
「おかしくなったのではなく、ようやく違和感に気づいただけです」
ルカは静かに言った。
「見ないフリを続けていた周囲よりは、ずっとまともです」
その言葉が慰めになるのかどうかはわからなかった。
けれど、エリザベートは少しだけ息を吐く。
張りつめていた肩が、ほんの少しだけ下がる。
そのまま、ルカは立ち上がった。
部屋の中にはやはり鏡がない。
けれどその代わりに、この部屋には王女の恐怖が隅々まで染みついているように思えた。
聖女の背中の縫い目。
三年間、一度も口にされなかった食事。
食卓で続けられた無意味な演技。
それらは全て、死体を聖女に見せかけるための苦しい工夫だった。
美しく飾られた偶像の裏側は、思っていた以上にみっともない。
そして、そのみっともなさこそが真実に近づく手がかりになる。
「――今日はありがとうございました、王女殿下」
ルカがそう言うと、エリザベートは少し迷ってから口を開いた。
「フォール卿」
「何でしょう?」
「……アリアは、本当に……ずっと前から、もう」
最後まで言えない問いだ。
ルカは扉の前で一度だけ足を止める。
「多分、あなたが思っているより前からです」
ルカはそのように静かに笑い、それだけ言って部屋を出た。
廊下はとても明るかった。
窓から春の日差しが差し込み、遠くから祭りの音も聞こえてくる。
だが、ルカの頭の中では別のものがはっきりと形を取り始めていた。
――死体は食べない。
――死体は温まらない。
――死体は縫い目を隠し、演技を重ね、祈りの中で生きているフリをする。
そこまでして守られた聖女という偶像は、もう信仰の象徴というより、支えるために無理やり組み上げられた張りぼてに近かった。
――変数が多すぎる。
ルカは心の中で冷たく笑う。
――この数式、まるで、いや絶対に美しくない。
もっと少ない要素で、もっと静かに成り立つ嘘ならまだしも、これは違う。
隠すものが多すぎて、いずれ必ず壊れる仕組みだった。
だからこそ、誰かがそれを壊した。
そして壊されるだけの理由があった。
ルカは廊下を歩きながら、次に聞くべき相手の顔を思い浮かべる。
勇者は痛みを消されていた。
王女は縫い目と食卓の演技を見ていた。
大神官は何かを知りながら黙っている。
ならば次に暴くべきは、偶像を守るために動いていた者たちの役目だ。
春の光の中を歩く少年の目は、少しも柔らかくない。
静かに、確実に、王国の嘘の輪郭だけを追っていくかのように。



