死せる聖女の二度目の沈黙 ―13歳の鑑定士と腐敗なき密室―

 夜の聖堂は、昼とはまるで別の場所のようだった。

 高い天井へ昇っていく闇は深く、壁に掛けられた燭台の火も、その冷たさを払いきれない。
 壊れた封印の痕は、重い扉の表面にいまだ白く焼きついたままで、そこだけが白骨のように浮いて見えた。
 祭壇の前に横たわっていたはずの聖女アリアの遺体は、もうここにはない。
 だが、空白になったその場所がかえって強く死を語っていた。
 何かが失われたのではない。
 ずっと前に失われていたものが、ようやく露わになった――そんな不吉な静けさが、聖堂全体に沈んでいる。

 ――その中央に、六人がいた。

 国王は祭壇の正面、少し後ろに控える近衛を背にして立っていた。
 建国記念祭の名残を引きずる豪奢な衣服も、この場ではただ重たいだけに見える。
 王女であるエリザベートはその斜め後ろで、両手を胸の前に組んだまま俯いていた。
 大神官サリエルは一気に老け込んだような顔で、法衣の裾を握りしめている。
 騎士団長バルガスは無言で腕を組み、石像のように動かない。
 レオンは祭壇に近い位置に立ち、蒼白い横顔のまま前を見ていた。
 そして、その全員の視線の先に、黒い礼装の少年がいた。

 ルカ・フォール。

 彼は祭壇の前、かつて聖女アリアが倒れていた場所にもっとも近い位置に立っていた。
 白い手袋をはめた指先だけが、燭火の下でかすかに浮かび上がる。
 顔立ちは年若い少年のそれなのに、その立ち姿だけはこの場の誰よりも落ち着いていた。
 恐れも、ためらいも、遠慮もない。
 あるのはただ、盤面を前にした者の冷たい静けさだけだ。

「……皆さん、お集まりいただきありがとうございます」

 静かな声――だが、その一言だけで聖堂の空気がひとつ引き締まる。
 誰も返事はしないし、返せる空気ではなかった。
 ルカはそれを気にする様子もなく、ゆるく視線を巡らせた。
 国王、王女、大神官、騎士団長、勇者――今この場にいる全員が、それぞれ違う意味で聖女という偶像に寄りかかってきた者たちだ。
 聖女の死と、その後の偽りの奇跡に、何かしらを支えられてきた者たち。
 その中心に立って、少年は淡々と言葉を置いた。

「――では、始めましょうか。最終講釈というやつです」

 その言い方のあまりの軽さに、エリザベートの肩がかすかに揺れた。
 サリエルは苦しげに目を伏せる。
 バルガスは表情ひとつ変えない。
 レオンだけが、わずかに目を細めてルカを見ていた。
 ルカは祭壇を振り返り、空白になった床を一度だけ見つめる。

「まず最初に、皆さんはこの件を一つの惨劇として見ているようですが、それは違います」

 その一言で、聖堂の中の空気がぴたりと止まる。

「違う……だと?」

 低く問うたのはバルガスだった。
 ルカは頷きもせず、そのまま続ける。

「ええ。聖堂で聖女アリアが刺されて見つかった。封印された密室。死体。血の少ない傷口。外からは開けられなかった扉。見た目だけを並べれば一つの密室殺人に見えるでしょうね。でも、それは表面だけです」

 ルカはそう言って、白い手袋の指先を三本だけ立てた。

「この件には、少なくとも三つの出来事が重なっています」

 その仕草は小さいのに、不思議なほど目を引いた。
 誰も言葉を挟まず、そもそも挟めないのだろう。
 ここまで来れば全員がもう自分の感情ではなく、少年の口から出る事実の方を聞かざるを得ない。

「一つ目――三年前の毒殺」

 その言葉が落ちた瞬間、エリザベートが息を呑み、サリエルの顔がさらに青ざめた。
 レオンの顎の線がわずかに強張る。
 ルカは誰の反応にも触れず、平然と続ける。

「聖女アリアは三年前の夏、毒によって死亡しました。病ではない。事故でもない。はっきりとした毒殺です。これは大神官サリエル様ご本人が認めています」

 名を呼ばれたサリエルは逃げるように目を逸らした。
 だが否定をする事は出来ない。
 もはやその余力も、意味もないのだろう。
 既にレオンとルカにはその素性はバレているのだから。
 彼の沈黙を確認しただけで、ルカは次へ進んだ。

「二つ目――その後の死体運用と国家的隠蔽」

 国王の表情がほんのわずかに動く。
 ルカはそれを見たはずなのに、何事もなかったように言葉を置いていく。

「聖女の死は伏せられました。教会の権威、王国の安定、勇者の神聖性、民衆の信仰……そうしたものを崩さないために、聖女は死後も【聖女】として使われ続けた。心臓は核として加工され、術式が組まれ、死体は祈り、微笑み、食卓につき、奇跡のふりをさせられた」

 燭火がわずかに揺れる。
 場に満ちた緊張が、目に見えない風になったようだった。

「大神官サリエル様は、それを維持する中心にいました。死を隠し、死体を保ち、術式を回し続けた。聖女アリア本人は三年前に失われていたのに、その像だけは便利な偶像として立たせ続けたわけです」
「……っ」

 サリエルの喉がひきつる音がした。けれど彼は何も言わなかった。
 反論できない――言葉にすればするほど、自分が何をしてきたのかが、よりはっきりした形でこの場に晒されるだけなのだから。
 ルカはそこで一度言葉を切り、今度はゆっくりと全員を見回した。

「そして三つ目――今回の密室事件」

 その瞬間、空気の質が変わった。
 今までの二つが過去の罪だとすれば、これはまだ息をしている現在の問題だ。
 誰が、何のために、今さらその仕組みに刃を入れたのか?
 この場にいる誰もが、その答えから目を逸らせない。

「皆さんはこれを聖女が殺された事件として見ていた……ですが、それも正確ではありません」

 ルカの声はいつも通り静かだった。
 だが、静かな分だけその言葉は鋭く聖堂の石壁に刺さっていく。

「今回起きたのは、聖女が死んだ事件ではない。すでに死んでいた聖女、アリア様がようやく終わらされた事件です」

 エリザベートの唇がかすかに震える。
 レオンは目を閉じずに、それを聞いていた。
 バルガスだけは、微動だにしないまま少年を見つめている。
 ルカは祭壇の前の空白を指し示した。

「ここにあったのは、生きた聖女の遺体ではない。三年前に死んだ少女の死体を術で動かし続けた末の残骸です。つまり今回の一撃は、単なる殺害ではなく既に壊れていた仕組みに加えられた最後の破壊だった」
「破壊……か」

 低くこぼしたのは国王だった。
 ルカはようやくその方へ顔を向ける。
 王の眼差しは重い。
 対してルカは話を続ける。

「ええ、陛下……ですがもっと正確に言うなら、これは解放に近いのかもしれません」

 その言葉に、今度はレオンの表情がわずかに動く。
 ほんの一瞬だけ、苦痛と理解の間で揺れたような顔をした。
 ルカはそれを見ても止まらない。

「聖女アリアは三年前に殺されていた……そこまでは事実です。しかし、その死は認められず、墓にも入れられず、奇跡の名のもとに使われ続けた。人形のように立たされ、都合のいい象徴として消費された。今回の犯人が壊したのはその仕組みです」

 サリエルの肩が震える。
 王女は顔を伏せる。
 レオンはじっと前を向く。
 バルガスの瞳だけが、わずかに硬さを増した。
 ルカは白い手袋の指先を下ろし、ゆっくりと告げた。

「ですから、皆さんが今から聞くべき問いは一つです」

 その声は不思議なほど澄んでいた。
 誰もが息を潜める。
 聖堂の燭火すら、今はその言葉を聞くためだけに揺れているように見えた。

「【誰が聖女を殺したか】ではありません……【誰が、死にきれなかった聖女を二度目に死なせたのか】――それです」

 ルカの言葉に対し、彼らは何も言えず、口を閉ざした。
 長く、冷たく、重い沈黙だった。
 誰もすぐには口を開けなかった。
 開けば、その先にある答えを自分でも認めてしまいそうだったからだろう。
 その沈黙の中で、ルカはひどく落ち着いていた。
 まるで、ようやく数式の前提条件が揃ったとでも言いたげに。
 そしてその時、祭壇の灯りの下で、バルガスの眉がほんのわずかに動いた。
 誰よりも僅かで、けれどルカが見逃すはずのない変化だった。
 少年の口元が、静かに歪む。

 ――次の一手は、もう決まっている。

 夜の聖堂は、ますます冷えていくかのように、静かだった。