隠し部屋を出たあとも、冷えた空気が服の内側に残っていた。
レオンは無言のまま歩き、ルカも何も言わなかった。
二人とも、あの部屋の中央に置かれていたものを、まだ頭の中でうまく片づけられずにいたのかもしれない。
本棚の隠し扉を抜け、再び執務室へ戻ると、大神官サリエルは椅子に座り込んだまま動いていなかった。
先ほどよりも老け込んで見えたのは気のせいだろうか?
顔色は悪く、法衣の胸元は浅い呼吸に合わせて小さく上下している。
もう隠し通せないと理解している顔だった。
ルカは部屋の中央で立ち止まる。
「確認が取れましたよ、サリエル様」
静かな声で、ルカが答えるとサリエルは目を閉じる。
返事はない。
けれど、それで十分だった。
「聖女アリアの臓器は、核として加工されていた。死体を維持し、動かし続けるための中心です。つまりあなたは死を隠しただけではない。死んだあとも、聖女を【聖女のまま】使い続ける仕組みを作った」
ルカの言葉にサリエルの喉が、ごく小さく鳴った。
その沈黙を破ったのはレオンだった。
「……どうしてだ」
低い声で、怒鳴ってはいない。けれど、押し殺した怒りが滲んでいる。
サリエルは目を静かに開ける。
「どうして、そこまでしたんだ?」
レオンに視線を向けるその目は濁っていたが、逃げることもできないとわかっていたのであろう。
彼は静かに笑った。
「……言ったはずですよ、レオン」
かすれた声で、彼は言う。
「――聖女を失えば、教会は終わる」
「それだけで、人を死体のまま使うのか」
レオンの声がさらに低くなる。
サリエルは顔を歪めた。
「それだけ、ではないですよ、レオン。教会だけではない。王家も、騎士団も、民も、皆があの子を必要としていた。聖女がそこにいる、それだけで保たれていたものが多すぎたんです」
ルカはその言葉を静かに聞いていた。
サリエルは机の端を掴み、続ける。
「……三年前の夏ですよ」
その一言で、部屋の空気が変わる。
ようやく核心に触れるのだと、誰もがわかった。
「朝の祈りを終えたあと、アリア様は少し具合が悪いと仰った。顔色は優れなかったが、よくある疲れかと思った。聖女としての務めも多かったからな。だが、昼前に倒れた。痙攣して、呼吸が乱れ、唇の色が変わって……ほどなくして止まった」
レオンの表情が強ばる。ルカは動かない。
「医師を呼んだ。神官も呼んだ。だが、どうにもならなかった。体内から毒の反応が出た。強い毒だ。食あたりや病ではない……はっきりとした毒殺だった」
サリエルはそこで言葉を切り、うつむいた。
「聖女は三年前の夏に死んだんです」
その言葉は、今まで何度も口にしかけては飲み込んできたのだろう。
やっと外へ出た事実には、遅すぎる重みがあった。
部屋は静まり返っていた。
レオンは何か言おうとして、しかし言葉にならない。
拳を握ったまま立ち尽くしている。
先に口を開いたのはルカだった。
「その死を公表せず、あなたは遺体の維持を決めた」
「……そうです」
「そのままでは長く保てないと判断し、心臓を核として術式を組んだ」
サリエルはゆっくり頷いた。
「遺体全体を維持するには限界があった。腐敗は遅らせられても、動かし続けることは難しい。だから……中心になるものが必要だったんです」
「で、臓器を選んだ……と」
「そうです……臓器に魔石を組み込み、術式の起点にした。そこへ命令を通し、全身へ流す形にした。最初は安定しなかった。何度も失敗した。動かしてもすぐに崩れたし、反応が鈍すぎることもありました」
隠し部屋に並んでいた術式メモや魔石の山が、ルカの頭の中でつながる。
あれは全て、その試行錯誤の跡だったのだ。
「だが、続けた」
「ええ……続けました……続けるしかなかったんです」
その一言に、大神官の罪が凝縮されていた。
死を隠したこと。
死体を聖女として使ったこと。
術で無理やり動かし続けたこと。全部、彼が選んだことだ。
レオンが低く問う。
「犯人は――」
サリエルが顔を上げる。
「三年前、アリアを殺したのは誰だ?」
その問いは鋭かった。レオンの怒りも悲しみも、今はそこへ向かっていた。
だがサリエルは、ゆっくりと首を横に振る。
「知りませんよ、そんなの」
「そんなはずがあるかっ!」
「本当です」
今度の声は少しだけ強かった。言い訳ではなく、その一点だけは事実だと訴える響きだった。
「毒だとわかった時点で、犯人を追うことはできました。だが……私は先に、死を隠す方を選んだんです。騒ぎになれば、聖女の死を隠しきれなくなる。調べるほど、表に出る危険が増す。だから、犯人探しは捨てました」
それはあまりに冷たく、重い告白だった。
レオンが一歩踏み出す。
「捨てた、だと……!」
「そこは本当でしょう」
ルカの言葉に、レオンが振り返る。
「もし大神官が三年前の犯人を知っていて、今も隠しているのなら、話はもっと別の形になります。ですが、今見えている構造はそうではない」
ルカはサリエルから目を離さずに続けた。
「この人は【隠蔽】と言うモノをした者です。聖女の死を隠し、その死体を利用した中心にいた。けれど、今回の実行犯ではない」
「どうしてそう言い切れる?」
「単純です。大神官は、聖女を失うことで最も損をする側だったから」
その一言で、部屋の形がまた少し整理される。
「三年前に聖女が死んだ時、この人はその死を隠した。術式を組み、心臓を核にし、金も手間もかけて維持した。それは全部、聖女という偶像を失いたくなかったからです。そんな人間が、今さら自分の手でその仕組みを壊す理由は薄い。少なくとも、今回の密室で胸を刺し、術を暴走させる側ではない」
レオンは黙り込む。怒りは消えていない。だが、ルカの言葉が理屈として通っているのもわかるのだろう。
サリエルは椅子の上で小さく身を縮めた。
「私は……守ったつもりだった」
やがて、サリエルはかすれた声で言う。
「教会も、王国も、信仰も、あの子の存在も。全部、失わせたくなかった」
「結果として、失わせなかったのは体面だけですよ……」
ルカは淡々と返す。
「――聖女アリア本人は、三年前にすでに失われていた」
サリエルは唇を引き結んだ。反論はしなかった。できなかったのだろう。
レオンが低く息を吐く。
「……じゃあ、この事件は」
「二つに分けて考えるべきです」
「二つに、か?」
「はい。三年前の毒殺。これが最初の事件です。そして、その死を隠して死体を聖女として動かし続けた。これが二つ目の罪。今回の密室は、その上に重なった三つ目の出来事です。つまり――三年前に聖女を殺した者と、今回、聖堂で術式を壊した者は、同一でない可能性が高い」
レオンがゆっくりと目を見開く。
最初の殺し――その後の隠蔽と利用。
そして今、その歪んだ仕組みを壊した誰か。
事件の二層構造が、ようやく形を持った。
「なんていうか、面倒な話だな……」
「ええ。ですが、その方が自然です。一つに見える事件ほど、大抵は複数の汚れを抱えていますから」
サリエルはもう、顔を上げる力も残っていないようだった。
椅子に座ったまま、法衣の上で手を組み、その手もかすかに震えている。
彼の罪は重い。
見ないふりでは済まない。
死者を使い、国を支え、信仰を金に変えた。
だがそれでも、今回聖堂で刃を振るった者ではない。
ルカはそこをはっきり分けて見ていた。
「サリエル様」
静かに名を呼ぶ。
サリエルが力なく顔を上げる。
「あなたの罪は、あとで正しく数えます。ですが今は、今回の実行犯を切り分ける方が先です」
サリエルは何も答えなかった。
ルカは背を向ける。
レオンもしばらく大神官を見つめていたが、やがて無言で視線を外した。
この部屋に残るのは、最初の嘘を作った男だ。
だが、最後の一手を打った者ではない。
その違いがわかっただけでも、盤面はかなり整理された。
ルカは扉の前で立ち止まり、小さく言う。
「――次ですね、レオン様」
「……ああ」
二人は並んで執務室を出た。
夕方の光はもうかなり薄く、廊下の窓には夜の色がにじみ始めている。王城のどこか遠くで鐘の音がした。
レオンは無言のまま歩き、ルカも何も言わなかった。
二人とも、あの部屋の中央に置かれていたものを、まだ頭の中でうまく片づけられずにいたのかもしれない。
本棚の隠し扉を抜け、再び執務室へ戻ると、大神官サリエルは椅子に座り込んだまま動いていなかった。
先ほどよりも老け込んで見えたのは気のせいだろうか?
顔色は悪く、法衣の胸元は浅い呼吸に合わせて小さく上下している。
もう隠し通せないと理解している顔だった。
ルカは部屋の中央で立ち止まる。
「確認が取れましたよ、サリエル様」
静かな声で、ルカが答えるとサリエルは目を閉じる。
返事はない。
けれど、それで十分だった。
「聖女アリアの臓器は、核として加工されていた。死体を維持し、動かし続けるための中心です。つまりあなたは死を隠しただけではない。死んだあとも、聖女を【聖女のまま】使い続ける仕組みを作った」
ルカの言葉にサリエルの喉が、ごく小さく鳴った。
その沈黙を破ったのはレオンだった。
「……どうしてだ」
低い声で、怒鳴ってはいない。けれど、押し殺した怒りが滲んでいる。
サリエルは目を静かに開ける。
「どうして、そこまでしたんだ?」
レオンに視線を向けるその目は濁っていたが、逃げることもできないとわかっていたのであろう。
彼は静かに笑った。
「……言ったはずですよ、レオン」
かすれた声で、彼は言う。
「――聖女を失えば、教会は終わる」
「それだけで、人を死体のまま使うのか」
レオンの声がさらに低くなる。
サリエルは顔を歪めた。
「それだけ、ではないですよ、レオン。教会だけではない。王家も、騎士団も、民も、皆があの子を必要としていた。聖女がそこにいる、それだけで保たれていたものが多すぎたんです」
ルカはその言葉を静かに聞いていた。
サリエルは机の端を掴み、続ける。
「……三年前の夏ですよ」
その一言で、部屋の空気が変わる。
ようやく核心に触れるのだと、誰もがわかった。
「朝の祈りを終えたあと、アリア様は少し具合が悪いと仰った。顔色は優れなかったが、よくある疲れかと思った。聖女としての務めも多かったからな。だが、昼前に倒れた。痙攣して、呼吸が乱れ、唇の色が変わって……ほどなくして止まった」
レオンの表情が強ばる。ルカは動かない。
「医師を呼んだ。神官も呼んだ。だが、どうにもならなかった。体内から毒の反応が出た。強い毒だ。食あたりや病ではない……はっきりとした毒殺だった」
サリエルはそこで言葉を切り、うつむいた。
「聖女は三年前の夏に死んだんです」
その言葉は、今まで何度も口にしかけては飲み込んできたのだろう。
やっと外へ出た事実には、遅すぎる重みがあった。
部屋は静まり返っていた。
レオンは何か言おうとして、しかし言葉にならない。
拳を握ったまま立ち尽くしている。
先に口を開いたのはルカだった。
「その死を公表せず、あなたは遺体の維持を決めた」
「……そうです」
「そのままでは長く保てないと判断し、心臓を核として術式を組んだ」
サリエルはゆっくり頷いた。
「遺体全体を維持するには限界があった。腐敗は遅らせられても、動かし続けることは難しい。だから……中心になるものが必要だったんです」
「で、臓器を選んだ……と」
「そうです……臓器に魔石を組み込み、術式の起点にした。そこへ命令を通し、全身へ流す形にした。最初は安定しなかった。何度も失敗した。動かしてもすぐに崩れたし、反応が鈍すぎることもありました」
隠し部屋に並んでいた術式メモや魔石の山が、ルカの頭の中でつながる。
あれは全て、その試行錯誤の跡だったのだ。
「だが、続けた」
「ええ……続けました……続けるしかなかったんです」
その一言に、大神官の罪が凝縮されていた。
死を隠したこと。
死体を聖女として使ったこと。
術で無理やり動かし続けたこと。全部、彼が選んだことだ。
レオンが低く問う。
「犯人は――」
サリエルが顔を上げる。
「三年前、アリアを殺したのは誰だ?」
その問いは鋭かった。レオンの怒りも悲しみも、今はそこへ向かっていた。
だがサリエルは、ゆっくりと首を横に振る。
「知りませんよ、そんなの」
「そんなはずがあるかっ!」
「本当です」
今度の声は少しだけ強かった。言い訳ではなく、その一点だけは事実だと訴える響きだった。
「毒だとわかった時点で、犯人を追うことはできました。だが……私は先に、死を隠す方を選んだんです。騒ぎになれば、聖女の死を隠しきれなくなる。調べるほど、表に出る危険が増す。だから、犯人探しは捨てました」
それはあまりに冷たく、重い告白だった。
レオンが一歩踏み出す。
「捨てた、だと……!」
「そこは本当でしょう」
ルカの言葉に、レオンが振り返る。
「もし大神官が三年前の犯人を知っていて、今も隠しているのなら、話はもっと別の形になります。ですが、今見えている構造はそうではない」
ルカはサリエルから目を離さずに続けた。
「この人は【隠蔽】と言うモノをした者です。聖女の死を隠し、その死体を利用した中心にいた。けれど、今回の実行犯ではない」
「どうしてそう言い切れる?」
「単純です。大神官は、聖女を失うことで最も損をする側だったから」
その一言で、部屋の形がまた少し整理される。
「三年前に聖女が死んだ時、この人はその死を隠した。術式を組み、心臓を核にし、金も手間もかけて維持した。それは全部、聖女という偶像を失いたくなかったからです。そんな人間が、今さら自分の手でその仕組みを壊す理由は薄い。少なくとも、今回の密室で胸を刺し、術を暴走させる側ではない」
レオンは黙り込む。怒りは消えていない。だが、ルカの言葉が理屈として通っているのもわかるのだろう。
サリエルは椅子の上で小さく身を縮めた。
「私は……守ったつもりだった」
やがて、サリエルはかすれた声で言う。
「教会も、王国も、信仰も、あの子の存在も。全部、失わせたくなかった」
「結果として、失わせなかったのは体面だけですよ……」
ルカは淡々と返す。
「――聖女アリア本人は、三年前にすでに失われていた」
サリエルは唇を引き結んだ。反論はしなかった。できなかったのだろう。
レオンが低く息を吐く。
「……じゃあ、この事件は」
「二つに分けて考えるべきです」
「二つに、か?」
「はい。三年前の毒殺。これが最初の事件です。そして、その死を隠して死体を聖女として動かし続けた。これが二つ目の罪。今回の密室は、その上に重なった三つ目の出来事です。つまり――三年前に聖女を殺した者と、今回、聖堂で術式を壊した者は、同一でない可能性が高い」
レオンがゆっくりと目を見開く。
最初の殺し――その後の隠蔽と利用。
そして今、その歪んだ仕組みを壊した誰か。
事件の二層構造が、ようやく形を持った。
「なんていうか、面倒な話だな……」
「ええ。ですが、その方が自然です。一つに見える事件ほど、大抵は複数の汚れを抱えていますから」
サリエルはもう、顔を上げる力も残っていないようだった。
椅子に座ったまま、法衣の上で手を組み、その手もかすかに震えている。
彼の罪は重い。
見ないふりでは済まない。
死者を使い、国を支え、信仰を金に変えた。
だがそれでも、今回聖堂で刃を振るった者ではない。
ルカはそこをはっきり分けて見ていた。
「サリエル様」
静かに名を呼ぶ。
サリエルが力なく顔を上げる。
「あなたの罪は、あとで正しく数えます。ですが今は、今回の実行犯を切り分ける方が先です」
サリエルは何も答えなかった。
ルカは背を向ける。
レオンもしばらく大神官を見つめていたが、やがて無言で視線を外した。
この部屋に残るのは、最初の嘘を作った男だ。
だが、最後の一手を打った者ではない。
その違いがわかっただけでも、盤面はかなり整理された。
ルカは扉の前で立ち止まり、小さく言う。
「――次ですね、レオン様」
「……ああ」
二人は並んで執務室を出た。
夕方の光はもうかなり薄く、廊下の窓には夜の色がにじみ始めている。王城のどこか遠くで鐘の音がした。



