死せる聖女の二度目の沈黙 ―13歳の鑑定士と腐敗なき密室―

 大神官サリエルの部屋は、書庫の奥にある小さな執務室だった。
 夕方の光はもう薄く、細長い窓から差し込む色も青みを帯びている。
 部屋の中には古い紙と香の匂いが混ざり合い、どこか息の詰まるような静けさが漂っていた。
 壁際には帳簿や祈祷書が積まれ、机の上には使いかけの蝋燭と、まだ乾ききっていないインク壺が置かれている。
 サリエルはその机の前に立ち、入ってきたルカとレオンを見て、わずかに肩を揺らした。

「……また来たんですか?」

 声を聞くと、疲れているのが分かった。
 ただ、それ以上に強かったのは、追い詰められた者の張りつめた気配だった。
 いくつも隠し事を見抜かれ、それでもなお、最後の何かだけは守ろうとしている――そんな顔をしているように見える。
 ルカは部屋の中央まで進むと、それ以上は近づかずに立ち止まった。
 レオンは半歩うしろ、少し斜めの位置に立つ。
 その並びはまだぎこちなかったが、もう単なる関係者同士の距離ではなかった。
 まるで、問いを投げる者と、それを見届ける者。
 そんな形が少しずつでき始めている。

「えっとですね、いくつか確認したいことがあります」

 ルカはいつもの平らな声で言った。
 それに対し、サリエルは答えない。
 ただ机の端に指を置き、その先で法衣の裾をかすかにつまんでいた。

「あなたは三年前の夏、聖女アリアが毒殺されたことを認めました」
「……ええ」
「その後、あなたは死体を聖女として使い続けた」
「……そう、です」
「そして、そのための薬品や術式の維持にも関わっていた」

 サリエルはゆっくり頷く。
 そこまでは、もう否定しないつもりなのだろう。
 認めざるを得ない事と、まだ隠せると思っている事とを、自分の中で分けている顔だった。
 ルカはその様子を静かに見つめた。

「……ですが、まだ話していないことがありますね、サリエル様」
 
 その一言で、サリエルの目がわずかに動いた。
 ほんの一瞬だった。だが、ルカは見逃さない。

「もう十分でしょう……私が隠していたことは話した。聖女様の死を隠し、教会のために使い続けたことも認めた。これ以上、何を――」
「では、【核】はどこにありますか」

 微かに鋭い視線で、ルカの言葉は短かった。
 ぴたり、と空気が止まる。
 サリエルの唇が動く。だが声は出ない。
 レオンが眉をひそめた。

「――【核】?」
「死体を動かしていた中心ですよ」

 ルカはサリエルから目を離さないまま答えた。

「遺体に直接術を流していただけでは、三年も維持できないはずです……どこかに核になるものがある。術をつなぎ止めるためのもっと濃い中心が」

 レオンは黙り込む。
 その意味を考えるように、わずかに視線を落とした。
 サリエルは机を掴む指に力を込める。

「そんなものは、ありません」
「あります……でなければ、今回の密室で術式があそこまで乱れた説明がつきません。死体そのものだけでは、あれほどはっきりした暴走は起きない」
「ないと言っている!」

 サリエルの鋭い声が響く。
 だがその強さは、真実を押し返すためというより、崩れかけたものを無理やり支えているような響きに見えた。
 ルカは表情を変えない。
 ただ、サリエルの目だけを見ていた。

「……お前、何を見てるんだ」

 横から、レオンが低く訊いた。
 ルカはようやく一度だけそちらに視線を流す。

「言葉ではなく、視線です」
「視線?」
「ええ……人は隠したい場所を見ないようでいて、逆に気にしてしまうものです」

 その説明は静かだったが、妙にはっきりしていた。

「見てはいけない。考えてはいけない。そう思うほど、意識はそちらへ向きます。真正面から見なくても、呼吸が止まる瞬間や、焦点がぶれる方向に出る」

 レオンは小さく息を呑む。
 サリエルの顔色はさらに悪くなった。
 ルカは一歩だけ踏み込んだ。

「――先ほどから、あなたは何度も右後ろを気にしているようですね」

 サリエルが肩を震わせる。
 その方向には壁しかない。
 正確には、本棚が並んでいるだけだ。
 古い聖典や記録書が隙間なく詰め込まれていて、ぱっと見にはただの壁と変わらない。
 レオンがそちらを見た。

「書庫、か?」
「違います」

 ルカは首を横に振る。

「書庫そのものではない……もっと別です」

 サリエルが何か言おうとした瞬間、ルカはその言葉を遮るように続けた。

「あなたは帳簿を隠した時とは目の動きが違う。あの時は紙の束を守ろうとしていた。でも今は、もっと狭い場所を気にしています。視線が一点に吸い寄せられて、すぐ逸れる――」

 レオンは壁際の棚を見つめる。
 たしかにそこは少し不自然だった。
 他の棚よりも埃が少なく、床との境にごくわずかな擦れ跡がある。
 普段なら見落とす程度の違いだ。
 だが、意識して見ればそこだけ妙に浮いて見えた。

「……隠し場所か」

 レオンが低く言う。
 ルカは笑顔で頷いた。

「おそらく」

 サリエルはもう何も言わなかった。
 いや、言えなかったのだろう。
 喉が引きつったように上下するだけで、視線は棚から逸らそうとしているのに完全には逸れない。
 まるで自分で自分の秘密の場所を指し示しているようだった。
 ルカはその様子を見て、ほんの少しだけ目を細める。

「――書庫ではない、と言ったでしょう?」

 その声には、答え合わせをするような静かな確信があった。

「あなたは見られたくない【場所】を、本棚の向こうにある所を何度も見ていたから」
「やめろ……」

 掠れた声で、サリエルが言った。

「やめてくれ……」

 その拒絶には怒りよりも懇願が強く滲んでいた。
 レオンがゆっくりと一歩前へ出る。

「……サリエル、まだ隠すのか?」

 サリエルは答えない。
 額には汗がにじみ、顔色は青を通り越して灰色に近い。
 ここまで来ると、もう否定そのものが答えになっていた。
 ルカは静かに本棚へ近づく。
 並んだ本の背表紙を目で追い、床の擦れ跡、棚の側面の金具、壁とのわずかな隙間を見る。
 古い作りに見せかけてはいるが、そこだけ微妙に新しい木材が使われている。
 隠すために後から手を入れたのだろう。

「よくできていますね。ですが、よくできた隠し場所ほど、守る側の意識が出るものです」

 レオンは隣に立ち、低い声で問う。

「開けられるのか」
「仕組みが単純なら」

 鼻歌を歌いながら、ルカは棚の縁に触れる。
 表から見える装飾の一部が、他よりわずかに擦れており、何度も触れられてきたのだろう。
 ルカはそこへ指をかけ、ためらいなく押し込んだ。
 かちり、と小さな音がした。
 本棚の奥で何かが外れる気配がある。
 空気がわずかに動き、壁に見えていた部分に細い隙間が生まれた。
 レオンの表情が変わる。

「……本当に」
「言ったはずです」

 ルカは静かに返した。

「――人は隠したい場所を、見ないようでいて見てしまうんです」

 その時、背後でサリエルが力を失ったように椅子へ崩れ落ちた。
 法衣が床を擦る音が、妙に大きく響く。
 ルカは振り返らない。振り返る事すらしない。
 目の前の隙間へ指をかけ、ゆっくりと開く。
 壁と本棚の向こうに、黒く細い通路が口を開けていた。
 冷たい空気が、その奥から静かに流れてくる。
 そこは普通の書庫ではなく、もっと乾いていて、もっと冷たくて、どこか薬品に似た匂いが混じっていた。
 ルカの目がわずかに細くなる。

(……やはり、ここだ)

 ルカの視線が先に答えを出していた。
 そしてその答えは、おそらくこれまでの嘘の中で最も深い場所へつながっている。

「行きますよ、勇者殿?」

 ルカがそう言うと、レオンは短く頷いた。

「……ああ」

 二人は並んで、その暗い隙間の前に立つ。
 背後では、サリエルの荒い呼吸だけが聞こえていた。
 もう後戻りはできない。
 この先にあるのは、大神官が最後まで隠したかったもの。
 つまり、聖女アリアを聖女のまま動かし続けるための、もっとも醜く、もっとも大事な中心だ。
 ルカは冷たい空気を吸い込み、静かに目を細めたのだった。