夕方の光が、王城の廊下を長く染めている。
昼の賑わいは少しずつ遠のき、石造りの回廊には静かな冷たさが戻っていた。
窓の外には赤みを帯びた空が広がり、その下で庭木の影がゆっくりと伸びていた。
少年――ルカは一人で歩いていた。
手には小さな手帳と、数枚の紙。
今夜、封印聖堂で行う最終講釈のためにまとめたメモだった。
頭の中では、すでに必要な駒はほぼ並び終えている。
後はそれを順番に置いて嘘を剥がし、最後の一手を告げればいい。
本来なら、それだけだった。
余計な同行者も、感情的な口出しもいらない。
寧ろない方がやりやすい。
そう思っていたのだが。
「――待て」
背後から、低い声がかかった。
思わずルカは足を止め、ゆっくりと振り返る。
廊下の向こうから勇者と呼ばれている青年、レオンが歩いてきていた。
その手には、見覚えのある封書が握られている。
昼前、ルカが従者に託した四通のうちの一つだ。
それはすでに開封されており、羊皮紙の端がわずかに折れている。
まっすぐこちらへ向かってくるその姿に、ルカはほんの少しだけ眉を動かした。
顔色は相変わらず悪く、だが足取りは思ったよりしっかりしている。
重たそうな身体を無理やり動かしている感じはあるもののその目だけは妙にまっすぐだった。
「――招待状は受け取りましたか?」
ルカが先にそう言うと、レオンは手にした封書を軽く持ち上げた。
「ああ……ずいぶん簡潔だったな」
「必要な事しか書いていませんから」
「……そうかよ」
レオンは数歩手前で立ち止まる。
封書を握る手には少しだけ力が入っていた。
「今夜の事だ」
「ええ」
「聖堂に行くんだろう?」
「それは、もちろん」
「……俺も行く」
それは、ためらいのない言葉だった。
ルカは一瞬だけ黙ったあと、小さく息を吐く。
驚いたというより予想していた面倒ごとが、やはり現実になったという顔だった。
「招待状を送った時点で、来ること自体は想定しています」
「なら話は早いな」
「ですが、あのですね……あの場で余計な感情を挟まれるのは困ります」
ルカの言葉に対し、レオンの眉がぴくりと動いた。
「余計な感情、か」
「ええ。泣く、怒鳴る、殴る、そのあたりです」
「そこまで子どもじゃない」
「え、どうでしょう?」
ルカは首を少し傾ける。
「今まで十分、感情で見ないフリをしてきた人間にそう言われても、あまり信用はできませんよ?」
フフっと笑いながらルカは答えた。
随分な言い方だった。
普通なら怒ってもおかしくない。
だが、レオンは怒鳴らなかった。
ただ苦い顔をして、しばらくルカを見つめていた。
「……お前、本当に遠慮がないな」
「ええ、必要がありませんから」
簡単に、あっさりとした返事だった。
廊下の窓から風が入り、二人の間を静かに通り抜けていく。
少し冷たくなり始めた夕方の風が吹いた。
レオンは窓の外へ一瞬だけ視線を向け、それからまたルカを見た。
「聖女……アリアの事を最後まで見届ける責任がある」
その声は低く、けれど先ほどよりずっと重かった。
「俺はあいつの加護に頼って戦った。体がおかしくなっているのもわかっていたのに、見ないフリをした。冷たくなっていた手にも、脈のないことにも、気づいていたのに」
言葉は静かだったが、その一つひとつが自分を削るようで。
「だから、今さら逃げるわけにはいかない」
勇者であるレオンの言葉を、ルカは黙って聞いていた。
レオンの顔には疲れがあった。
後悔も、自責も、怒りもあるだろう。
それでも今ここに来たということは、その全部を抱えたままなお真実を見る方を選んだということだ。
少し前までの彼なら、できなかったかもしれない。
だが今は違う――ようやく、盤面の上に自分も駒として立つ気になったらしい。
「……責任、ですか」
ルカは小さく呟く。
「フフ、便利な言葉ですね」
「――何?」
「そう言っておけば、自分がまだまともな人間でいられる気がする」
レオンは不快そうに顔をしかめたが、ルカは構わず続けた。
「けれど、まあ、完全な嘘でもないのでしょう」
ルカの言葉を聞いて、そこでようやく、ほんの少しだけ声の角がやわらいだ。
「それに、あなたは当事者ですし」
レオンは何も言わない。
ルカは手帳を閉じ、廊下の壁に軽く背を預けた。
「何より、あなたは都合のいい奇跡に一番長く縋っていた側だ」
その言葉は、静かだった分だけ深く刺さる響きがあった。
レオンの目がわずかに揺れる。
反論したい気持ちはあるのだろう。
だが、できないのだ。事実だからだ。
「聖女の加護が偽物でも痛みがごまかされるならそれでよかった。立って戦えるなら、それでよかった。そうやって壊れた仕組みの恩恵を受け続けた」
ルカの声は冷たかった。
「だから最後くらい、ちゃんと見ておくべきです……自分が何に支えられていたのかを」
ルカは変わらず、笑みを見せているのみ。
レオンは目を閉じ、ゆっくりと息を吐く。
苦しそうだったが、その苦しさから逃げようとはしなかった。
「……本当に、お前は嫌な言い方をする」
「褒め言葉として受け取っておきます」
「俺は褒めてない」
「褒めてるんですよ、それ」
レオンの言葉にルカは返事を返す。
その短いやりとりに、ほんの少しだけ空気が変わった。
張りつめたままではあるが、さっきまでのような刺すような硬さではない。
ルカはその変化に気づいていたが、わざわざ口にはしなかった。
レオンは壁にもたれず、まっすぐ立ったまま言う。
「足を引っ張るつもりはない」
「引っ張るでしょうね」
「おい」
「――ですが」
ルカはそこで言葉を切り、レオンを見上げた。
「――来るなとは言いませんよ?」
ルカは先ほどの笑みなどないかのように、鋭い視線でレオンを見ていた。
随分とそっけない形ではあったが、たしかに拒絶ではなかった。
レオンは一瞬だけ目を見開き、それから少しだけ肩の力を抜いた。
「……いいのか」
「よくはありませんよ、ただレオン様の性格ならば、止めても来るでしょう」
「まあな」
「なら、最初から数に入れておいた方がましです」
ルカらしい言い方だった。
けれど、その中には確かに“隣に立つことを認める”意味があった。
レオンは手の中の封書を軽く折り曲げ、それから苦く笑った。
「お前、性格悪いな」
「え、今さらですか?」
ルカは平然としている。
廊下の外では、空がさらに暗くなり始めていた。
赤みは消え、青と群青の境目みたいな色に変わっている。
今夜の聖堂は、きっとまた冷たく静かだろう――レオンは窓の外を見てから、静かに口を開いた。
「正直、怖いよ」
その言葉は意外なほどまっすぐだった。
「何が出るのかも、誰が何を言うのかも、わからない。……でも、それでも行く」
ルカは少しだけ目を細めた。
怖いと言えるのは、逃げるつもりがないからだ。怖くないふりをする人間より、その方がまだ信用できる。
「では、ひとつだけ」
ルカが言うと、レオンは視線を戻した。
「感情で飛び出さないでください。聞いている途中で誰かに掴みかかるのもなしです」
「そこまで信用ないのか」
「ありません」
「……努力する」
「ええ、よろしくお願いいたします」
にっこり、とそのように笑いながら、ルカはそう言って歩き出した。
レオンも、今度は何も言わず、その横に並ぶ。
肩が触れるほど近くはない。
けれど、遠すぎもしない距離だった。
仲間というにはまだ硬く、ただの関係者というには少し近い。
そんな曖昧な間合いで、二人は同じ方向へ歩き始める。
石の廊下に、二人分の足音が静かに重なった。
ルカは前を見たまま考える。
――そう、これでいい。
勇者レオンは、今夜からただの証言者ではなくなる。
壊れた奇跡に最も長く寄りかかり、その恩恵も代償も受けてきた人間として、最後の場に立つ資格がある。
そしておそらく、ルカ一人では拾いきれない人の側の【痛み】を、この男はその場で引き受けることになるだろう。
それは少しだけ便利だった。
少しだけ、必要でもあった。
ルカはちらりとだけ隣を見た。
レオンは真顔で前を向いている。顔色は悪いままだが、足取りはもう迷っていなかった。
真実から逃げない、少なくとも今、この男はそこに立とうとしている。
「――レオン様」
ルカが呼ぶと、レオンが「何だ」と短く返す。
「倒れないでくださいね」
「……それ、心配してるのか?」
「いいえ」
ルカは即座に答えた。
「運ぶのが面倒なので」
レオンは一瞬黙り込み、それから小さく笑った。
「やっぱり可愛げがないな、お前……」
「勇者に可愛がられる趣味はありません」
そう返すルカの横顔は、いつも通り涼しかった。
けれど、その会話が終わったあとも、二人の足は自然に止まらなかった。
夜の聖堂へ向かう道を、並んで進んでいく。
それは、終わりと答えの始まりへ向かって。
昼の賑わいは少しずつ遠のき、石造りの回廊には静かな冷たさが戻っていた。
窓の外には赤みを帯びた空が広がり、その下で庭木の影がゆっくりと伸びていた。
少年――ルカは一人で歩いていた。
手には小さな手帳と、数枚の紙。
今夜、封印聖堂で行う最終講釈のためにまとめたメモだった。
頭の中では、すでに必要な駒はほぼ並び終えている。
後はそれを順番に置いて嘘を剥がし、最後の一手を告げればいい。
本来なら、それだけだった。
余計な同行者も、感情的な口出しもいらない。
寧ろない方がやりやすい。
そう思っていたのだが。
「――待て」
背後から、低い声がかかった。
思わずルカは足を止め、ゆっくりと振り返る。
廊下の向こうから勇者と呼ばれている青年、レオンが歩いてきていた。
その手には、見覚えのある封書が握られている。
昼前、ルカが従者に託した四通のうちの一つだ。
それはすでに開封されており、羊皮紙の端がわずかに折れている。
まっすぐこちらへ向かってくるその姿に、ルカはほんの少しだけ眉を動かした。
顔色は相変わらず悪く、だが足取りは思ったよりしっかりしている。
重たそうな身体を無理やり動かしている感じはあるもののその目だけは妙にまっすぐだった。
「――招待状は受け取りましたか?」
ルカが先にそう言うと、レオンは手にした封書を軽く持ち上げた。
「ああ……ずいぶん簡潔だったな」
「必要な事しか書いていませんから」
「……そうかよ」
レオンは数歩手前で立ち止まる。
封書を握る手には少しだけ力が入っていた。
「今夜の事だ」
「ええ」
「聖堂に行くんだろう?」
「それは、もちろん」
「……俺も行く」
それは、ためらいのない言葉だった。
ルカは一瞬だけ黙ったあと、小さく息を吐く。
驚いたというより予想していた面倒ごとが、やはり現実になったという顔だった。
「招待状を送った時点で、来ること自体は想定しています」
「なら話は早いな」
「ですが、あのですね……あの場で余計な感情を挟まれるのは困ります」
ルカの言葉に対し、レオンの眉がぴくりと動いた。
「余計な感情、か」
「ええ。泣く、怒鳴る、殴る、そのあたりです」
「そこまで子どもじゃない」
「え、どうでしょう?」
ルカは首を少し傾ける。
「今まで十分、感情で見ないフリをしてきた人間にそう言われても、あまり信用はできませんよ?」
フフっと笑いながらルカは答えた。
随分な言い方だった。
普通なら怒ってもおかしくない。
だが、レオンは怒鳴らなかった。
ただ苦い顔をして、しばらくルカを見つめていた。
「……お前、本当に遠慮がないな」
「ええ、必要がありませんから」
簡単に、あっさりとした返事だった。
廊下の窓から風が入り、二人の間を静かに通り抜けていく。
少し冷たくなり始めた夕方の風が吹いた。
レオンは窓の外へ一瞬だけ視線を向け、それからまたルカを見た。
「聖女……アリアの事を最後まで見届ける責任がある」
その声は低く、けれど先ほどよりずっと重かった。
「俺はあいつの加護に頼って戦った。体がおかしくなっているのもわかっていたのに、見ないフリをした。冷たくなっていた手にも、脈のないことにも、気づいていたのに」
言葉は静かだったが、その一つひとつが自分を削るようで。
「だから、今さら逃げるわけにはいかない」
勇者であるレオンの言葉を、ルカは黙って聞いていた。
レオンの顔には疲れがあった。
後悔も、自責も、怒りもあるだろう。
それでも今ここに来たということは、その全部を抱えたままなお真実を見る方を選んだということだ。
少し前までの彼なら、できなかったかもしれない。
だが今は違う――ようやく、盤面の上に自分も駒として立つ気になったらしい。
「……責任、ですか」
ルカは小さく呟く。
「フフ、便利な言葉ですね」
「――何?」
「そう言っておけば、自分がまだまともな人間でいられる気がする」
レオンは不快そうに顔をしかめたが、ルカは構わず続けた。
「けれど、まあ、完全な嘘でもないのでしょう」
ルカの言葉を聞いて、そこでようやく、ほんの少しだけ声の角がやわらいだ。
「それに、あなたは当事者ですし」
レオンは何も言わない。
ルカは手帳を閉じ、廊下の壁に軽く背を預けた。
「何より、あなたは都合のいい奇跡に一番長く縋っていた側だ」
その言葉は、静かだった分だけ深く刺さる響きがあった。
レオンの目がわずかに揺れる。
反論したい気持ちはあるのだろう。
だが、できないのだ。事実だからだ。
「聖女の加護が偽物でも痛みがごまかされるならそれでよかった。立って戦えるなら、それでよかった。そうやって壊れた仕組みの恩恵を受け続けた」
ルカの声は冷たかった。
「だから最後くらい、ちゃんと見ておくべきです……自分が何に支えられていたのかを」
ルカは変わらず、笑みを見せているのみ。
レオンは目を閉じ、ゆっくりと息を吐く。
苦しそうだったが、その苦しさから逃げようとはしなかった。
「……本当に、お前は嫌な言い方をする」
「褒め言葉として受け取っておきます」
「俺は褒めてない」
「褒めてるんですよ、それ」
レオンの言葉にルカは返事を返す。
その短いやりとりに、ほんの少しだけ空気が変わった。
張りつめたままではあるが、さっきまでのような刺すような硬さではない。
ルカはその変化に気づいていたが、わざわざ口にはしなかった。
レオンは壁にもたれず、まっすぐ立ったまま言う。
「足を引っ張るつもりはない」
「引っ張るでしょうね」
「おい」
「――ですが」
ルカはそこで言葉を切り、レオンを見上げた。
「――来るなとは言いませんよ?」
ルカは先ほどの笑みなどないかのように、鋭い視線でレオンを見ていた。
随分とそっけない形ではあったが、たしかに拒絶ではなかった。
レオンは一瞬だけ目を見開き、それから少しだけ肩の力を抜いた。
「……いいのか」
「よくはありませんよ、ただレオン様の性格ならば、止めても来るでしょう」
「まあな」
「なら、最初から数に入れておいた方がましです」
ルカらしい言い方だった。
けれど、その中には確かに“隣に立つことを認める”意味があった。
レオンは手の中の封書を軽く折り曲げ、それから苦く笑った。
「お前、性格悪いな」
「え、今さらですか?」
ルカは平然としている。
廊下の外では、空がさらに暗くなり始めていた。
赤みは消え、青と群青の境目みたいな色に変わっている。
今夜の聖堂は、きっとまた冷たく静かだろう――レオンは窓の外を見てから、静かに口を開いた。
「正直、怖いよ」
その言葉は意外なほどまっすぐだった。
「何が出るのかも、誰が何を言うのかも、わからない。……でも、それでも行く」
ルカは少しだけ目を細めた。
怖いと言えるのは、逃げるつもりがないからだ。怖くないふりをする人間より、その方がまだ信用できる。
「では、ひとつだけ」
ルカが言うと、レオンは視線を戻した。
「感情で飛び出さないでください。聞いている途中で誰かに掴みかかるのもなしです」
「そこまで信用ないのか」
「ありません」
「……努力する」
「ええ、よろしくお願いいたします」
にっこり、とそのように笑いながら、ルカはそう言って歩き出した。
レオンも、今度は何も言わず、その横に並ぶ。
肩が触れるほど近くはない。
けれど、遠すぎもしない距離だった。
仲間というにはまだ硬く、ただの関係者というには少し近い。
そんな曖昧な間合いで、二人は同じ方向へ歩き始める。
石の廊下に、二人分の足音が静かに重なった。
ルカは前を見たまま考える。
――そう、これでいい。
勇者レオンは、今夜からただの証言者ではなくなる。
壊れた奇跡に最も長く寄りかかり、その恩恵も代償も受けてきた人間として、最後の場に立つ資格がある。
そしておそらく、ルカ一人では拾いきれない人の側の【痛み】を、この男はその場で引き受けることになるだろう。
それは少しだけ便利だった。
少しだけ、必要でもあった。
ルカはちらりとだけ隣を見た。
レオンは真顔で前を向いている。顔色は悪いままだが、足取りはもう迷っていなかった。
真実から逃げない、少なくとも今、この男はそこに立とうとしている。
「――レオン様」
ルカが呼ぶと、レオンが「何だ」と短く返す。
「倒れないでくださいね」
「……それ、心配してるのか?」
「いいえ」
ルカは即座に答えた。
「運ぶのが面倒なので」
レオンは一瞬黙り込み、それから小さく笑った。
「やっぱり可愛げがないな、お前……」
「勇者に可愛がられる趣味はありません」
そう返すルカの横顔は、いつも通り涼しかった。
けれど、その会話が終わったあとも、二人の足は自然に止まらなかった。
夜の聖堂へ向かう道を、並んで進んでいく。
それは、終わりと答えの始まりへ向かって。



