天国までの記憶列車

 「過去へ、戻れる……? んな、馬鹿なことがあるかっての」

 ひと通りの説明を聞いた河井渉は、鼻で笑った。

 「この風体を見りゃわかんだろ。どん底の人生歩んできた俺が、いまさら? たった十二時間で? いったいどんな変えられるもんがあると?」

 「……それは、あなた次第で」

 「変えられんなら勝手に変えてくれよ。俺はやっと死ねてせいせいしてるんだ。もう二度とあんな人生歩みたくねえ。戻りたい過去なんてあるわけねーだろ」

 乱れた生活習慣による小太りのからだに、切るのが面倒くさくて何年も伸ばしっぱなしの髪。勤務先では制服に着替えるが、それ以外はつねによれたスウェットだ。

 二十四時間営業の夜間カラオケ店員なんて、外見を気にする必要もない。テキトーに(ひげ)()って、雑に髪を結び、制服のジャケットを羽織ればそれで終わり。

 大学を二年で中退し、自宅であるオンボロアパートから近いカラオケ屋で夜間バイトをはじめてから、十五年。三十五になるまで変わらない生活をしてきたのだ。

 たかだか十二時間過去に戻ったとて、きっと丸ごと寝て終わる。

 過去なんて、変わりやしない。

 「もう一度言います。過去を変えるかどうかは、あなた次第です。自らの〝死〟や他人の〝死〟――なんにせよ〝死〟の運命は変えられませんが」

 「はっ、べつに俺は死んだことに後悔してねえから関係ない話だ」

 「そうですか」

 「……あの女子高生は助かったんだろ?」

 「申し訳ありませんが、お答えできません。あなたの死亡後の出来事――死んでしまったあなたが知る由もないことを伝えるのは、禁じられておりますので」

 「そうかよ」

 仕事帰り、たまたま無人自動車に()かれそうになっていた女子高生に遭遇した。

 なにもヒーローになりたくて助けたわけではない。助けに入るまでの数秒で、この行動を起こせば自分が死ぬとわかっていた。

 それでもなお、助けた。そして、死んだ。携帯をいじったまま接近する車に気づかないでいたあの女子高生は、思いきりつき飛ばしたから、きっと生きているだろう。

 怪我くらいはしているだろうが、そこまでは気にしていられない。

 「……戻りたい過去、本当にないのかにゃあ?」

 奇妙な車掌と奇妙な猫。そんなものがいる世界なのだから、自分が死んだと言われても驚くことはなかった。窓の外に広がる美しい水面は、地獄に落ちると思っていた自分にはあまりにも見合わないものだが、とくに興味もない。

 この先が地獄なら、べつにそれでも構わないのだ。

 「生まれてから死ぬ十二時間前までなら、いつでも戻れるのにいいのかにゃ~? なんならその〝風体〟になる前だって可能なのににゃ」

 「……(あお)ってんのか?」

 「べつにそうじゃないけどにゃあ」

 後ろ脚で頭をかきながら大あくびをするクロに業を煮やし、舌打ちが零れる。

 この風体になる前など――そんな昔のこと、まともに憶えていない。

 そう思いつつ、頭に浮かぶ光景はあった。

 この風体になるに至った理由、根源。渉の人生が終わった瞬間。あのときのことだけは、あの(くつ)(じょく)だけは、忘れたことはない。寝るたびに夢に見るからだ。その悪夢は繰り返す。何度も何度も。だから一生、はっきりと憶えている。

 「……〝死〟は変えられないって言ったな」

 「はい。理由はともかく、死ぬ運命は定められておりますので」

 「なら、その理由――死の〝原因〟は変えられるのか」

 「さあ……、行動次第でしょう」

 渉は黙りこむ。

 先ほどまで荒れていた気持ちが、急速に()いでいくのがわかった。キン、と耳鳴りがする。嫌な汗が流れるような動悸も感じた。死んでいるはずなのに変な話だ。

 「……変えたい過去はある。でも、十二時間もいらねえ。十分でいい」

 「時間の使い方はご自由にどうぞ」

 「は、そうかよ」

 深く、深く、腹の奥底から息を吐き出した。

 「まあいい。さっさと済ませる。早くちゃんと死なせてくれ」

 「やさぐれてるにゃあ……。まあ、〝追憶行〟の行き先が明確なら助かるけどにゃ」

 言われるがまま、渉は目を瞑る。戻りたい過去を思い描くのなんて簡単だ。毎日毎日苦しめられているあの夢を、過去を、思い返せばいい。

 「どうかあなたの最期の旅路に幸あらんことを。――いってらっしゃいませ」