天国までの記憶列車

 「――いまの説明で、〝追憶行〟の条件は理解できましたか」

 「あ、ああ……。まだ混乱しているが、いちおうは……」

 (なか)()(ゆき)(ひろ)、享年五十五才、死因――交通事故。

 先ほど自分が死んだ自覚はあるかと問われたとき、幸弘はぽかんとしてなにも答えられなかった。だが、説明を聞いているうちに、徐々に理解が追いついてくる。

 信じるか否かの話ではなく、あくまで仕組みの理解という点においてだ。

 「端的にまとめれば、僕は暴走車につっこまれて死んでしまったけど、さまざまな条件付きで過去に戻る機会を与えられた、ということだろう?」

 「左様です」

 そんなことより、クロと名乗ったオッドアイの喋る猫又と奇妙な風体(ふうてい)の車掌のほうが気になる。幸弘はつくづくそう思ったが、そもそもこの列車からして、現実からかけ離れたものばかりだ。窓の外に広がる鏡水面は果てしなく続いているし、底には水彩画で描いたような美しい花畑が広がっている。

 その時点で、常識と結びつけるのはやめた。ここが桃源郷ともいわれる(さん)()の川のようなものだと早々に飲みこんでしまったほうが、まだ納得できると思ったのだ。

 「……わりと冷静にゃあね?」

 「いや、それはまあ……あまり死んだ実感がないからな」

 自分の手を見下ろし、閉じて開いてを二回ほど繰り返す。

 痛みはない。からだに不調も感じられない。だが、それがむしろ、自分のなかにあった生の感覚の(かい)()と繋がっている気はする。人生百年時代と言われるご時世で、半世紀を過ぎたからだには、なにかとガタがきていたのだ。全身の()(だる)さや後残りする疲れが感じられない状態は久しくなかった。

 とはいっても、やはり自分が死んだという自覚も実感もまだない。

 「トラックを見て、死ぬ、と思ったことだけは憶えているのだけどね」

 最期に見た光景は、自分に向かって猛スピードでつっこんでくる軽トラックだ。

 ぶつかったときの衝撃がもたらした感覚は、なんとなく憶えていた。だが、ほぼ同時にぶつりと記憶が途絶えているので、自分がどうなったのかは定かではない。

 「まあ、なにはともあれ。戻りたい過去は決まってるのかにゃあ?」

 クロに問われた幸弘は、眉尻を下げて頬をかいた。

 戻りたい過去へ戻ることができる。過去をやり直すことができる。

 突然そう言われても、すぐには思いつかない。そもそもこの不可思議な状況だ。常識を唱える心の自分が、まともな思考を拒絶しているのがわかった。

 ――そんなことできるわけがない、と。

 「あなたが生まれてから死ぬ十二時間前までのどこかが〝追憶行〟の対象です。選択できるのは一度だけ。戻ったとて未練が解消されるか、過去や未来を変えられるかはわかりません。すべてはあなた次第です」

 「ううん、にわかには信じがたい話だが……。まあ、理解はしたよ」

 我ながら呑みこみが早いとは思う。

 だが、振り返ってみても、つねにそういう人生を送ってきたのだ。右にならえで頭を下げて、口が覚えた定型文を述べて、業務的な笑顔を浮かべる。そこに己の感情を乗せることはない。ただただやるべきことをやり、淡々と日々を繰り返すだけ。

 いかにも正しい顔をして、空気を読むことに意識を注ぎ、大丈夫だ、これでいいと言い聞かせてきた。問題はなかった。無意識にそう思いこむことで現実から目を背けていたのかもしれないが、ある程度のことはどうにかなっていた。

 心を押し殺していた、と気づいたのは最近だ。なんの前触れもなく、突然立っていた舞台の照明が落ちたかのように愕然(がくぜん)とした。ずっしりと重たい虚無が胸を支配して、ようやく自分を作っていたはずの輪郭がぼやけきっていることに気がついた。

 亀裂が入り、もろくなっていた壁が崩れ落ちるのは一瞬だった。

 ばらばらになった足場の再構築の仕方などわからなかった。必死に積み上げてきたのに原形もなくなってしまった積み木の山の前で、立ち尽くすしかなかった。

 それでもどうにかしたくて、わからないなりに己に問いかけながら、ひとつひとつ破片を拾い集めようとしていた。だが結局ままならないまま、いまに至る。

 ――もし、本当に。

 本当に過去へ戻れるというのなら、戻りたい過去はひとつしかない。

 「迷いはないようですね?」

 「過去を……遠い過去を変えたいとは思わないんだ。過ぎてしまったことは変えられない。起きてしまったことはやり直せない。そういうスタイルで生きてきたから」

 「なるほど。それは正しい認識かと」

 「ほら、生きていると、未来と過去どちらに行ってみたいかと問われることがあるだろう。でも僕はね、幼い頃からどちらにも興味がなかったんだ」

 幸弘の言葉に、車掌とクロは顔を見合わせる。

 「過去は変えられないもの、未来はこれから起こるもの。現実はいましかないのだから、そんなことを考えるのは野暮だと思っていた。だから、いざ過去を変えられると言われても、正直変えたいとはならなくてね……――」

 ――ああ、いまこの場を息子が見ていたら白い目で見られそうだ。

 ふとそんなことを思った幸弘は、手のひらで口を覆って自重する。

 なぜ男は、歳を重ねれば重ねるほど己の生き方について語ってしまう生き物なのだろう。こうはなりたくないと思っていたのに。つらつらと自分語りを披露する相手の話を(うわ)の空で聞きながら、心底うんざりしていたはずなのに。

 結局、知らず知らずのうちに、そうなってしまうものなのかもしれない。

 歳を重ねるほどに過去は長くなる。見えない終わりを察して、未来を夢見るよりも歩んできた道を振り返る時間が増えていく。抱える思い出が多くなり、自分を形成するものがある程度わかるようになって、それを誰かに正しいと認めてほしくなる。

 きっと自叙伝というのは、そうした人の承認欲求を具現化したものなのだろう。

 (すさ)まじい速さで変化する時代や文化に、生き方を否定されたくないのだ。

 ゆえに、自分が形成してきた正しさや価値観が揺らぐことに恐怖を抱えながら、昔はこうだったのだからいまもこうあるべきだと主張したくなる。

 そんな、一種の強がり。

 自覚しているのに抑えられないのだから、どうしようもない。本能のままに起こしてしまった言動ほど、のちに後悔することも知っているのに……――。

 「……とにかく、ええと。戻るのは、僕が死ぬ三日前でも問題ないかな」

 「問題ありません。条件は変わりませんが」

 「ああ、うん。さっき言っていた、自分が死ぬ未来は変えられない、自分が死ぬ未来を伝えてはならない、だろう? 大丈夫、わかっているよ」

 「んじゃ、さっそく向かうにゃあね」

 クロの言葉に呼応するように、終灯列車の速度が上がる。加速するなか、やがて列車の進行方向に大きな橋が姿を現した。糸を引くような光が輪郭を縁取り、近づくにつれ揺らいでいたその存在がはっきりとわかるようになった。

 先ほどまでは、たしかに果てしなく水面が広がるばかりだったのに――。

 もしかしたら、あの橋の先が過去に繋がっているのだろうか。

 「目を瞑って、戻りたい過去、戻りたい時間を思い浮かべるにゃよ。明確にイメージすればするほど正確な時空に飛べるからにゃあ」

 クロの言葉にうなずいた幸弘は、静かに瞼を伏せた。

 三日前。つい最近だ。遠い過去ではないし、イメージはしやすい。日付も時間も戻りたい瞬間も、はっきりと思い浮かべることができる。

 「……ちなみに、イメージが明確でなかった場合はどうなるんだい?」

 「そんなの本人の問題だからにゃあ。ボクがテキトーに調整するにゃ。ちなみに文句は受け付けてないから、ご了承くださいませにゃあよ」

 テキトー、とはなんとも曖昧な仕様だ。システムやルールは確実に守る人間だった幸弘からしてみれば、そんな曖昧さはどうしても不安を覚えてしまう。

 だが、きっと、そういうところがいけなかったのだろう。

 目の前のことしか見えていなかった。視野が狭くなっていることすら気づかないくらいに、淡々と、同じことを繰り返す日々を生きていた。

 自分が死ぬ三日前――すべてが崩れ去ってしまった、あの瞬間までは。

 「いってらっしゃいませ。あなたの最期の旅路に、どうか幸あらんことを」