雨とマルコポーロ――恋が香る夜に

 翌日、森田先輩から電話がかかって来た。

「長谷川、心理学ゼミの実験に協力してもらいたいんだけど、時間ある?」

「どんな実験ですか?」

「『協力課題が親密度に与える影響』っていう研究。二人一組でパズルとか謎解きをしてもらって、その前後で親密度の変化を測るんだ。相手は長谷川が決めていいから、誰か連れてきて」

 胸がざわざわする。これは、もしかして……。

「いつですか?」

「明後日の午後。時間は2時間程度かな。報酬も出るし、どう?」

 乃亜を誘うちょうどいい理由ができた。実験だから、自然に二人きりの時間が作れる。仲直りできそうだし、上手くいけば自分の気持ちを伝えられるかもしれない。

「やります」

「よし!詳細は後でメールするよ」

 電話を切って、すぐに乃亜にメッセージを送った。

『心理学の実験に協力してもらえる?二人一組でやる実験なんだ。明後日の午後、時間は2時間くらい。報酬も出るよ』

 返事は思ったより早く来た。

『実験?面白そうだね。いいよ』

 拒否されず、少しほっとする。もう、気まずくないはずだ。

 ◇

 実験当日の朝。洗面所でワックスを手に取るとき、ふと呟く。

「……年上なんだから、俺から言わなきゃダメだよな」

 鏡の中の自分に、少しだけ苦笑いを向ける。頼りなさそうな顔。でも、今日だけは頑張らないと、と気合を入れる。いつもより、しっかりと身だしなみも整えて家を出る。

 大学の最寄り駅で乃亜と合流し、二人で心理学実験室に向かう。場所が分からないといけないから、一緒に行くことに。始めてこの通学路を一緒に歩く。街路樹は青葉が生い茂っていて、爽やかな風に包まれる。

「今日は時間作ってくれて、ありがとう」

「ううん。俺も興味あったから」

 まだ少しぎこちないけれど、先日よりは話しやすい雰囲気だ。10分程歩くと、心理学実験室がある校舎に着いた。
 実験室に入ると、森田先輩と院生の先輩たちが集まっていた。

「今日は参加ありがとう。実験の内容を説明するね」

 机の上には、パズルのピースやカード、筆記用具が並んでいる。

「これは『協力課題実験』です。二人で協力してもらう課題が3つあります」

「どんな課題ですか?」

 乃亜が聞く。

「ジグソーパズル、言葉なし伝言ゲーム、共同作文です。詳しくは順番に説明しますね」
「それと、開始前と終了後にアンケートを書いてもらいます」

 渡されたアンケートには「相手に対する印象」「親近感」「信頼度」などの項目が並んでいる。乃亜への気持ちを数値化するなんて変な感じだったが、素直に答えた。

 乃亜も隣で同じアンケートを書いている。時々、俺の方をちらりと見ているのが分かった。彼は俺のことを、どんな数値で評価するんだろう。そんなことを考えながら、「親近感:とても高い」に丸をつけた。

 ◇

「それでは、1つ目の課題から始めましょう」

 ジグソーパズルの絵柄は、ヨーロッパの街角カフェの風景だった。

「端っこから攻めよう」

「うん。空の部分、俺がやる」

 最初はぎこちなかったが、だんだん息が合ってきた。乃亜が見つけたピースを俺が受け取る時、指先が触れる。その度に、少しビクッと指が震えてしまう。

「あ、これ繋がりそう」

「どこ?……あ、本当だ」

 自然に顔が近づく。乃亜の髪の匂いがふわりとした。紅茶の香りに似ている。意味もなく胸が苦しくなった。
 25分経過した頃、パズルはほぼ完成。

「すごいね、君たち。予想より早いペースだ」

 森田先輩が感心している。

「最後のピース、一緒に置こう」

 乃亜が提案した。二人で一つのピースを持って、同時に置く。完成した瞬間、思わず手を叩いて喜んだ。

「やった!」

 乃亜も嬉しそうに笑っている。あの夜のキス以来、初めて見る本当の輝く笑顔だった。太陽のように眩しい――。これは、大げさじゃない。

 実験という理由があるおかげで、変に気を遣わずに済む。これが俺たちの本来のかたちなのかも。かなり相性は良いと思う。

 でも、ふと乃亜の表情が曇る。きっと俺と同じことを考えているのだ。この自然な関係が、実験という「理由」があるからこそ成り立っているということを。実験が終わったら、また気まずい空気に戻ってしまうのだろうか。

 ◇

 2つ目の課題は、言葉なしの伝言ゲーム。

 俺が最初の出題者になった。カードには「映画館でポップコーンを食べる」と書いてある。
 身振り手振りで表現してみるが、乃亜はきょとんとしている。

 映画を見る仕草をして、何かを口に運ぶ動作をすると、乃亜は首をかしげながら、じっと俺を見つめた。その真剣な眼差しに、恥ずかしくなってしまう。

「えーっと……食事?」

 惜しい。今度は映画の仕草をもっと大きくしてみる。

「あ!映画!映画を見ながら……ポップコーン?」

「正解!」

 思わず拍手した。意外とお互いの事が分かってきた気がする。
 今度は乃亜の番。

 乃亜の仕草は丁寧で美しかった。まるで本当に雨が降っているかのよう。俺も自然とその世界に引き込まれる。まるで、雨傘を題材にしたミュージカル映画を観ているみたいだ。

「雨……傘?」

「そう!」

 乃亜が楽しそうに頷く。この距離感、悪くない。お題は「雨の中で傘をさして歩く」だった。
 言葉がなくても通じ合えるような感覚が、妙に嬉しかった。

 ◇

 最後は共同作文。テーマは「ある日の昼下がり」
 俺が最初の一文を書く。

『雨上がりの午後、カフェの窓際で一人の青年が紅茶を飲んでいた』

 乃亜が続きを書く。

『そこへ、ずぶ濡れの上級生がやってきて、困ったような笑顔を見せた』

 俺の番。

『青年は慌ててタオルを差し出したが、その手が小刻みに震えていることを気づかれてしまった』

 乃亜が書く。

『上級生は「ありがとう」と言って、初めて青年の目をまっすぐ見つめた』

 なんだか、俺たちの話みたいでドキドキしてきた。
 俺が続きを書く。

『その瞬間、青年は相手に伝えたい言葉があることに気がついたが、声に出せずにいた』

 乃亜の手が止まった。しばらく考えてから、ゆっくりと書く。

『「言いたいことがあるなら、聞くよ」と上級生は静かに微笑んだ』

 俺の番。心臓が早鐘を打つ。

『青年は勇気を振り絞って「君のことが……」と言いかけたが』

 乃亜がペンを持つ手を止めて、俺を見上げる。目が合った数秒間、時が止まった。
 この続きを、本当は聞きたい――でも聞くのが怖い。もし俺の期待とは違う答えだったら……。

「制限時間です」

 森田先輩の声で、現実に戻される。

「未完成でも大丈夫。どんな結末になる予定だったか、後で教えてくださいね」

 森田先輩が、そう言いながらみんなの作文を回収していく。俺と乃亜は暫く見つめ合うが、すぐに片付けを始めた。 

 
 実験後のアンケートを書いている時、胸が苦しくて仕方がなかった。
 あの作文、まるで俺たちの事を書いているみたいだったから……乃亜はどう思っていただろう。

 最後の「君のことが……」の続きを、本当に言いたかった。でも、実験室という場所で、しかもデータとして記録される状況で、本心を告白するなんてできるわけがない。

「お疲れさまでした。貴重なデータが取れました」

 実験は無事終了。その時、森田先輩が近づいてきた。

「長谷川、今日はありがとうな!これが報酬だ」

 俺は報酬が入った茶封筒を受け取る。

「ありがとうございます、先輩」

 すると、森田先輩が耳元で囁いた。

「お前の恋の始まりって、彼の事だったのか?店にも通ってたし、かなり熱心だよな」

 俺は恥ずかしくなってしまう。

「もう、やめて下さい、聞こえたらどうするんですか」

「まあ、実験の様子も見てたけど、まんざらでもなさそうだぞ。頑張れよ」

 俺の肩を軽く叩き、森田先輩は去っていった。少し見下ろすような乃亜の視線が痛い。

 それから、二人で実験室を出た。また森田先輩との事、誤解されたらどうしよう……と少し考え込む。
 大学の中庭で、気まずい沈黙が流れている。その静寂を破ったのは乃亜の一言だった。

「……面白い実験だったね」

 俺はほっとした気持ちで答える。

「うん……あの作文、続きが気になるよな」

「どんな結末だと思う?」

 聞かれて、ドキッとした。これは、遠回しに俺の気持ちを確かめているのだろうか。

「……青年が、ちゃんと想いを伝えられる結末がいいな」

「そうだね。言いたいことは、ちゃんと言わないと」

 乃亜の声には、何か意味が込められているような気がした。でも、確信が持てない。

「今度……また一緒にやってみようか。パズルとか」

 勇気を出して言ってみた。

「うん。今度は実験じゃなくて、普通にね」

 乃亜が微笑む。その穏やかな表情は、実験中に見せてくれた自然な笑顔と同じだった。でも、どこか寂しそうにも見える。

 その「普通に」という言葉が妙に引っかかる。俺たちに「普通」なんてあるのだろうか。最初から、特別だったような気がするから。

 ◇

 黄昏時の帰り道、二人でサロン「Minuit」の方向へ向かう。
 今の気分で、あの静かな空間で紅茶を飲みたくなったから、乃亜に聞いてみたら、行こうと言ってくれた。

「今日は楽しかったよ。久しぶりに、普通に話せた気がするし」

「俺も。実験のおかげで、変な緊張をしなくて済んだ」

 そうなのだ。あの夜以来、俺たちはお互いを意識しすぎている。でも今日は、課題があったおかげで前みたいに自然に接することができた。
 しかし、肝心な言葉はまだ言えずにいる。

 歩きながら、さっきの共同作文のことを考えた。あの物語の青年は、最後に何を言おうとしていたのだろう。もちろん俺は知っている。「君のことが好きだ」と言いたかったのだ。

 でも、それを声に出すのは、どうしてこんなに難しいんだろう……。

「あの作文の結末、気になるな」

 乃亜がぽつりと言う。

「うん……青年、ちゃんと言えたかな」

「どうだろうね。でも、きっと言えたと思う」

「なんで?」

「上級生が『聞くよ』って言ってくれたから。それだけで、十分勇気になる」

 乃亜の声が少し震えている。まるで、自分のことを話しているみたいに。

「そうだね……言いたいことは、ちゃんと言わないと」

 俺も同感だ。サロンまでの道のりが、いつもより短く感じる。もっと一緒にいたいのに、時間だけが勝手に進んでいく。

「好き、か……」

 気がつくと、小さくつぶやいていた。

「え?」

 乃亜が振り返る。

「いや……何でもない」

 慌てて首を振る。今のは聞こえてしまったのだろうか。心臓がバカみたいにうるさい。

「凪……」

 乃亜が俺の名前を呼ぶ。いつもより少しかすれた声だった。

「何?」

「今度……ちゃんと話そう。俺、君に言いたいことがある」

 心臓が止まりそうになる。

「俺も……言いたいことがある」

 思わず答えていた。
 二人とも立ち止まって、見つめ合う。伝えたいことがたくさんあるのに、どの言葉も喉に引っかかって出てこない。

 でも、今度こそは言えそうな気がした。

「今度は逃げない。ちゃんと話そう?」

 乃亜が小さく微笑む。

「うん。俺も、もう逃げない」

 そんな約束をしていると、遠くにサロンの看板の明かりが見えてきた。
 ちゃんと想いを伝えたい。でも、それがなかなかできない。告白なんて初めてで、タイミングもわからないから。

 それでも、言いたいんだ。振られてもいい……いや、本当はめちゃくちゃ気にすると思う。けど、好きになったのは俺だから。伝えなきゃ、きっと何も変わらない。

 2歳も年上なんだから、俺からちゃんと言わなきゃダメだ。
 黄昏時の空にグレーの雲が広がって来た。遠くから雷鳴が聞こえてくる。

「雨、降りそうだね」

 隣を歩く乃亜が空を見上げて呟く。

「そうだな」

 あのときと同じ雨の予感。でも、あの夜とは少し違う俺がいる。
 ぽつり、ぽつりと雫が頬に当たり始めた時、乃亜が振り返り言う。

「急ごう、サロンまで走れる?」

「……うん」

 ほんの一瞬、ふたりの間に静かな時間が流れた。雨音も心音も、全部が透明になっていく。世界が止まったみたいだ。
 だから、次の瞬間、手を繋がれたことが、ほんの少し奇跡のように感じた。

「それじゃ、行こう」

 乃亜が俺の手を繋ぎ、引っ張って走り始める。その笑顔は世界で一番キラキラと輝いて、手は大きくて温かい。

 青春映画みたいだ――雨に濡れることより、この手の感覚の方が、今はずっと大切に思える。

 走っている俺たちは、きっとスローモーションになっているに違いない。その位印象的で俺の心のアルバムに記録された。

 もう、“濡れる自分”に酔ってはいない。ただ、乃亜と一緒に走る雨の夕暮れが、なぜか愛おしくて切なかった。