翌日、森田先輩から電話がかかって来た。
「長谷川、心理学ゼミの実験に協力してもらいたいんだけど、時間ある?」
「どんな実験ですか?」
「『協力課題が親密度に与える影響』っていう研究。二人一組でパズルとか謎解きをしてもらって、その前後で親密度の変化を測るんだ。相手は長谷川が決めていいから、誰か連れてきて」
胸がざわざわする。これは、もしかして……。
「いつですか?」
「明後日の午後。時間は2時間程度かな。報酬も出るし、どう?」
乃亜を誘うちょうどいい理由ができた。実験だから、自然に二人きりの時間が作れる。仲直りできそうだし、上手くいけば自分の気持ちを伝えられるかもしれない。
「やります」
「よし!詳細は後でメールするよ」
電話を切って、すぐに乃亜にメッセージを送った。
『心理学の実験に協力してもらえる?二人一組でやる実験なんだ。明後日の午後、時間は2時間くらい。報酬も出るよ』
返事は思ったより早く来た。
『実験?面白そうだね。いいよ』
拒否されず、少しほっとする。もう、気まずくないはずだ。
◇
実験当日の朝。洗面所でワックスを手に取るとき、ふと呟く。
「……年上なんだから、俺から言わなきゃダメだよな」
鏡の中の自分に、少しだけ苦笑いを向ける。頼りなさそうな顔。でも、今日だけは頑張らないと、と気合を入れる。いつもより、しっかりと身だしなみも整えて家を出る。
大学の最寄り駅で乃亜と合流し、二人で心理学実験室に向かう。場所が分からないといけないから、一緒に行くことに。始めてこの通学路を一緒に歩く。街路樹は青葉が生い茂っていて、爽やかな風に包まれる。
「今日は時間作ってくれて、ありがとう」
「ううん。俺も興味あったから」
まだ少しぎこちないけれど、先日よりは話しやすい雰囲気だ。10分程歩くと、心理学実験室がある校舎に着いた。
実験室に入ると、森田先輩と院生の先輩たちが集まっていた。
「今日は参加ありがとう。実験の内容を説明するね」
机の上には、パズルのピースやカード、筆記用具が並んでいる。
「これは『協力課題実験』です。二人で協力してもらう課題が3つあります」
「どんな課題ですか?」
乃亜が聞く。
「ジグソーパズル、言葉なし伝言ゲーム、共同作文です。詳しくは順番に説明しますね」
「それと、開始前と終了後にアンケートを書いてもらいます」
渡されたアンケートには「相手に対する印象」「親近感」「信頼度」などの項目が並んでいる。乃亜への気持ちを数値化するなんて変な感じだったが、素直に答えた。
乃亜も隣で同じアンケートを書いている。時々、俺の方をちらりと見ているのが分かった。彼は俺のことを、どんな数値で評価するんだろう。そんなことを考えながら、「親近感:とても高い」に丸をつけた。
◇
「それでは、1つ目の課題から始めましょう」
ジグソーパズルの絵柄は、ヨーロッパの街角カフェの風景だった。
「端っこから攻めよう」
「うん。空の部分、俺がやる」
最初はぎこちなかったが、だんだん息が合ってきた。乃亜が見つけたピースを俺が受け取る時、指先が触れる。その度に、少しビクッと指が震えてしまう。
「あ、これ繋がりそう」
「どこ?……あ、本当だ」
自然に顔が近づく。乃亜の髪の匂いがふわりとした。紅茶の香りに似ている。意味もなく胸が苦しくなった。
25分経過した頃、パズルはほぼ完成。
「すごいね、君たち。予想より早いペースだ」
森田先輩が感心している。
「最後のピース、一緒に置こう」
乃亜が提案した。二人で一つのピースを持って、同時に置く。完成した瞬間、思わず手を叩いて喜んだ。
「やった!」
乃亜も嬉しそうに笑っている。あの夜のキス以来、初めて見る本当の輝く笑顔だった。太陽のように眩しい――。これは、大げさじゃない。
実験という理由があるおかげで、変に気を遣わずに済む。これが俺たちの本来のかたちなのかも。かなり相性は良いと思う。
でも、ふと乃亜の表情が曇る。きっと俺と同じことを考えているのだ。この自然な関係が、実験という「理由」があるからこそ成り立っているということを。実験が終わったら、また気まずい空気に戻ってしまうのだろうか。
◇
2つ目の課題は、言葉なしの伝言ゲーム。
俺が最初の出題者になった。カードには「映画館でポップコーンを食べる」と書いてある。
身振り手振りで表現してみるが、乃亜はきょとんとしている。
映画を見る仕草をして、何かを口に運ぶ動作をすると、乃亜は首をかしげながら、じっと俺を見つめた。その真剣な眼差しに、恥ずかしくなってしまう。
「えーっと……食事?」
惜しい。今度は映画の仕草をもっと大きくしてみる。
「あ!映画!映画を見ながら……ポップコーン?」
「正解!」
思わず拍手した。意外とお互いの事が分かってきた気がする。
今度は乃亜の番。
乃亜の仕草は丁寧で美しかった。まるで本当に雨が降っているかのよう。俺も自然とその世界に引き込まれる。まるで、雨傘を題材にしたミュージカル映画を観ているみたいだ。
「雨……傘?」
「そう!」
乃亜が楽しそうに頷く。この距離感、悪くない。お題は「雨の中で傘をさして歩く」だった。
言葉がなくても通じ合えるような感覚が、妙に嬉しかった。
◇
最後は共同作文。テーマは「ある日の昼下がり」
俺が最初の一文を書く。
『雨上がりの午後、カフェの窓際で一人の青年が紅茶を飲んでいた』
乃亜が続きを書く。
『そこへ、ずぶ濡れの上級生がやってきて、困ったような笑顔を見せた』
俺の番。
『青年は慌ててタオルを差し出したが、その手が小刻みに震えていることを気づかれてしまった』
乃亜が書く。
『上級生は「ありがとう」と言って、初めて青年の目をまっすぐ見つめた』
なんだか、俺たちの話みたいでドキドキしてきた。
俺が続きを書く。
『その瞬間、青年は相手に伝えたい言葉があることに気がついたが、声に出せずにいた』
乃亜の手が止まった。しばらく考えてから、ゆっくりと書く。
『「言いたいことがあるなら、聞くよ」と上級生は静かに微笑んだ』
俺の番。心臓が早鐘を打つ。
『青年は勇気を振り絞って「君のことが……」と言いかけたが』
乃亜がペンを持つ手を止めて、俺を見上げる。目が合った数秒間、時が止まった。
この続きを、本当は聞きたい――でも聞くのが怖い。もし俺の期待とは違う答えだったら……。
「制限時間です」
森田先輩の声で、現実に戻される。
「未完成でも大丈夫。どんな結末になる予定だったか、後で教えてくださいね」
森田先輩が、そう言いながらみんなの作文を回収していく。俺と乃亜は暫く見つめ合うが、すぐに片付けを始めた。
実験後のアンケートを書いている時、胸が苦しくて仕方がなかった。
あの作文、まるで俺たちの事を書いているみたいだったから……乃亜はどう思っていただろう。
最後の「君のことが……」の続きを、本当に言いたかった。でも、実験室という場所で、しかもデータとして記録される状況で、本心を告白するなんてできるわけがない。
「お疲れさまでした。貴重なデータが取れました」
実験は無事終了。その時、森田先輩が近づいてきた。
「長谷川、今日はありがとうな!これが報酬だ」
俺は報酬が入った茶封筒を受け取る。
「ありがとうございます、先輩」
すると、森田先輩が耳元で囁いた。
「お前の恋の始まりって、彼の事だったのか?店にも通ってたし、かなり熱心だよな」
俺は恥ずかしくなってしまう。
「もう、やめて下さい、聞こえたらどうするんですか」
「まあ、実験の様子も見てたけど、まんざらでもなさそうだぞ。頑張れよ」
俺の肩を軽く叩き、森田先輩は去っていった。少し見下ろすような乃亜の視線が痛い。
それから、二人で実験室を出た。また森田先輩との事、誤解されたらどうしよう……と少し考え込む。
大学の中庭で、気まずい沈黙が流れている。その静寂を破ったのは乃亜の一言だった。
「……面白い実験だったね」
俺はほっとした気持ちで答える。
「うん……あの作文、続きが気になるよな」
「どんな結末だと思う?」
聞かれて、ドキッとした。これは、遠回しに俺の気持ちを確かめているのだろうか。
「……青年が、ちゃんと想いを伝えられる結末がいいな」
「そうだね。言いたいことは、ちゃんと言わないと」
乃亜の声には、何か意味が込められているような気がした。でも、確信が持てない。
「今度……また一緒にやってみようか。パズルとか」
勇気を出して言ってみた。
「うん。今度は実験じゃなくて、普通にね」
乃亜が微笑む。その穏やかな表情は、実験中に見せてくれた自然な笑顔と同じだった。でも、どこか寂しそうにも見える。
その「普通に」という言葉が妙に引っかかる。俺たちに「普通」なんてあるのだろうか。最初から、特別だったような気がするから。
◇
黄昏時の帰り道、二人でサロン「Minuit」の方向へ向かう。
今の気分で、あの静かな空間で紅茶を飲みたくなったから、乃亜に聞いてみたら、行こうと言ってくれた。
「今日は楽しかったよ。久しぶりに、普通に話せた気がするし」
「俺も。実験のおかげで、変な緊張をしなくて済んだ」
そうなのだ。あの夜以来、俺たちはお互いを意識しすぎている。でも今日は、課題があったおかげで前みたいに自然に接することができた。
しかし、肝心な言葉はまだ言えずにいる。
歩きながら、さっきの共同作文のことを考えた。あの物語の青年は、最後に何を言おうとしていたのだろう。もちろん俺は知っている。「君のことが好きだ」と言いたかったのだ。
でも、それを声に出すのは、どうしてこんなに難しいんだろう……。
「あの作文の結末、気になるな」
乃亜がぽつりと言う。
「うん……青年、ちゃんと言えたかな」
「どうだろうね。でも、きっと言えたと思う」
「なんで?」
「上級生が『聞くよ』って言ってくれたから。それだけで、十分勇気になる」
乃亜の声が少し震えている。まるで、自分のことを話しているみたいに。
「そうだね……言いたいことは、ちゃんと言わないと」
俺も同感だ。サロンまでの道のりが、いつもより短く感じる。もっと一緒にいたいのに、時間だけが勝手に進んでいく。
「好き、か……」
気がつくと、小さくつぶやいていた。
「え?」
乃亜が振り返る。
「いや……何でもない」
慌てて首を振る。今のは聞こえてしまったのだろうか。心臓がバカみたいにうるさい。
「凪……」
乃亜が俺の名前を呼ぶ。いつもより少しかすれた声だった。
「何?」
「今度……ちゃんと話そう。俺、君に言いたいことがある」
心臓が止まりそうになる。
「俺も……言いたいことがある」
思わず答えていた。
二人とも立ち止まって、見つめ合う。伝えたいことがたくさんあるのに、どの言葉も喉に引っかかって出てこない。
でも、今度こそは言えそうな気がした。
「今度は逃げない。ちゃんと話そう?」
乃亜が小さく微笑む。
「うん。俺も、もう逃げない」
そんな約束をしていると、遠くにサロンの看板の明かりが見えてきた。
ちゃんと想いを伝えたい。でも、それがなかなかできない。告白なんて初めてで、タイミングもわからないから。
それでも、言いたいんだ。振られてもいい……いや、本当はめちゃくちゃ気にすると思う。けど、好きになったのは俺だから。伝えなきゃ、きっと何も変わらない。
2歳も年上なんだから、俺からちゃんと言わなきゃダメだ。
黄昏時の空にグレーの雲が広がって来た。遠くから雷鳴が聞こえてくる。
「雨、降りそうだね」
隣を歩く乃亜が空を見上げて呟く。
「そうだな」
あのときと同じ雨の予感。でも、あの夜とは少し違う俺がいる。
ぽつり、ぽつりと雫が頬に当たり始めた時、乃亜が振り返り言う。
「急ごう、サロンまで走れる?」
「……うん」
ほんの一瞬、ふたりの間に静かな時間が流れた。雨音も心音も、全部が透明になっていく。世界が止まったみたいだ。
だから、次の瞬間、手を繋がれたことが、ほんの少し奇跡のように感じた。
「それじゃ、行こう」
乃亜が俺の手を繋ぎ、引っ張って走り始める。その笑顔は世界で一番キラキラと輝いて、手は大きくて温かい。
青春映画みたいだ――雨に濡れることより、この手の感覚の方が、今はずっと大切に思える。
走っている俺たちは、きっとスローモーションになっているに違いない。その位印象的で俺の心のアルバムに記録された。
もう、“濡れる自分”に酔ってはいない。ただ、乃亜と一緒に走る雨の夕暮れが、なぜか愛おしくて切なかった。
「長谷川、心理学ゼミの実験に協力してもらいたいんだけど、時間ある?」
「どんな実験ですか?」
「『協力課題が親密度に与える影響』っていう研究。二人一組でパズルとか謎解きをしてもらって、その前後で親密度の変化を測るんだ。相手は長谷川が決めていいから、誰か連れてきて」
胸がざわざわする。これは、もしかして……。
「いつですか?」
「明後日の午後。時間は2時間程度かな。報酬も出るし、どう?」
乃亜を誘うちょうどいい理由ができた。実験だから、自然に二人きりの時間が作れる。仲直りできそうだし、上手くいけば自分の気持ちを伝えられるかもしれない。
「やります」
「よし!詳細は後でメールするよ」
電話を切って、すぐに乃亜にメッセージを送った。
『心理学の実験に協力してもらえる?二人一組でやる実験なんだ。明後日の午後、時間は2時間くらい。報酬も出るよ』
返事は思ったより早く来た。
『実験?面白そうだね。いいよ』
拒否されず、少しほっとする。もう、気まずくないはずだ。
◇
実験当日の朝。洗面所でワックスを手に取るとき、ふと呟く。
「……年上なんだから、俺から言わなきゃダメだよな」
鏡の中の自分に、少しだけ苦笑いを向ける。頼りなさそうな顔。でも、今日だけは頑張らないと、と気合を入れる。いつもより、しっかりと身だしなみも整えて家を出る。
大学の最寄り駅で乃亜と合流し、二人で心理学実験室に向かう。場所が分からないといけないから、一緒に行くことに。始めてこの通学路を一緒に歩く。街路樹は青葉が生い茂っていて、爽やかな風に包まれる。
「今日は時間作ってくれて、ありがとう」
「ううん。俺も興味あったから」
まだ少しぎこちないけれど、先日よりは話しやすい雰囲気だ。10分程歩くと、心理学実験室がある校舎に着いた。
実験室に入ると、森田先輩と院生の先輩たちが集まっていた。
「今日は参加ありがとう。実験の内容を説明するね」
机の上には、パズルのピースやカード、筆記用具が並んでいる。
「これは『協力課題実験』です。二人で協力してもらう課題が3つあります」
「どんな課題ですか?」
乃亜が聞く。
「ジグソーパズル、言葉なし伝言ゲーム、共同作文です。詳しくは順番に説明しますね」
「それと、開始前と終了後にアンケートを書いてもらいます」
渡されたアンケートには「相手に対する印象」「親近感」「信頼度」などの項目が並んでいる。乃亜への気持ちを数値化するなんて変な感じだったが、素直に答えた。
乃亜も隣で同じアンケートを書いている。時々、俺の方をちらりと見ているのが分かった。彼は俺のことを、どんな数値で評価するんだろう。そんなことを考えながら、「親近感:とても高い」に丸をつけた。
◇
「それでは、1つ目の課題から始めましょう」
ジグソーパズルの絵柄は、ヨーロッパの街角カフェの風景だった。
「端っこから攻めよう」
「うん。空の部分、俺がやる」
最初はぎこちなかったが、だんだん息が合ってきた。乃亜が見つけたピースを俺が受け取る時、指先が触れる。その度に、少しビクッと指が震えてしまう。
「あ、これ繋がりそう」
「どこ?……あ、本当だ」
自然に顔が近づく。乃亜の髪の匂いがふわりとした。紅茶の香りに似ている。意味もなく胸が苦しくなった。
25分経過した頃、パズルはほぼ完成。
「すごいね、君たち。予想より早いペースだ」
森田先輩が感心している。
「最後のピース、一緒に置こう」
乃亜が提案した。二人で一つのピースを持って、同時に置く。完成した瞬間、思わず手を叩いて喜んだ。
「やった!」
乃亜も嬉しそうに笑っている。あの夜のキス以来、初めて見る本当の輝く笑顔だった。太陽のように眩しい――。これは、大げさじゃない。
実験という理由があるおかげで、変に気を遣わずに済む。これが俺たちの本来のかたちなのかも。かなり相性は良いと思う。
でも、ふと乃亜の表情が曇る。きっと俺と同じことを考えているのだ。この自然な関係が、実験という「理由」があるからこそ成り立っているということを。実験が終わったら、また気まずい空気に戻ってしまうのだろうか。
◇
2つ目の課題は、言葉なしの伝言ゲーム。
俺が最初の出題者になった。カードには「映画館でポップコーンを食べる」と書いてある。
身振り手振りで表現してみるが、乃亜はきょとんとしている。
映画を見る仕草をして、何かを口に運ぶ動作をすると、乃亜は首をかしげながら、じっと俺を見つめた。その真剣な眼差しに、恥ずかしくなってしまう。
「えーっと……食事?」
惜しい。今度は映画の仕草をもっと大きくしてみる。
「あ!映画!映画を見ながら……ポップコーン?」
「正解!」
思わず拍手した。意外とお互いの事が分かってきた気がする。
今度は乃亜の番。
乃亜の仕草は丁寧で美しかった。まるで本当に雨が降っているかのよう。俺も自然とその世界に引き込まれる。まるで、雨傘を題材にしたミュージカル映画を観ているみたいだ。
「雨……傘?」
「そう!」
乃亜が楽しそうに頷く。この距離感、悪くない。お題は「雨の中で傘をさして歩く」だった。
言葉がなくても通じ合えるような感覚が、妙に嬉しかった。
◇
最後は共同作文。テーマは「ある日の昼下がり」
俺が最初の一文を書く。
『雨上がりの午後、カフェの窓際で一人の青年が紅茶を飲んでいた』
乃亜が続きを書く。
『そこへ、ずぶ濡れの上級生がやってきて、困ったような笑顔を見せた』
俺の番。
『青年は慌ててタオルを差し出したが、その手が小刻みに震えていることを気づかれてしまった』
乃亜が書く。
『上級生は「ありがとう」と言って、初めて青年の目をまっすぐ見つめた』
なんだか、俺たちの話みたいでドキドキしてきた。
俺が続きを書く。
『その瞬間、青年は相手に伝えたい言葉があることに気がついたが、声に出せずにいた』
乃亜の手が止まった。しばらく考えてから、ゆっくりと書く。
『「言いたいことがあるなら、聞くよ」と上級生は静かに微笑んだ』
俺の番。心臓が早鐘を打つ。
『青年は勇気を振り絞って「君のことが……」と言いかけたが』
乃亜がペンを持つ手を止めて、俺を見上げる。目が合った数秒間、時が止まった。
この続きを、本当は聞きたい――でも聞くのが怖い。もし俺の期待とは違う答えだったら……。
「制限時間です」
森田先輩の声で、現実に戻される。
「未完成でも大丈夫。どんな結末になる予定だったか、後で教えてくださいね」
森田先輩が、そう言いながらみんなの作文を回収していく。俺と乃亜は暫く見つめ合うが、すぐに片付けを始めた。
実験後のアンケートを書いている時、胸が苦しくて仕方がなかった。
あの作文、まるで俺たちの事を書いているみたいだったから……乃亜はどう思っていただろう。
最後の「君のことが……」の続きを、本当に言いたかった。でも、実験室という場所で、しかもデータとして記録される状況で、本心を告白するなんてできるわけがない。
「お疲れさまでした。貴重なデータが取れました」
実験は無事終了。その時、森田先輩が近づいてきた。
「長谷川、今日はありがとうな!これが報酬だ」
俺は報酬が入った茶封筒を受け取る。
「ありがとうございます、先輩」
すると、森田先輩が耳元で囁いた。
「お前の恋の始まりって、彼の事だったのか?店にも通ってたし、かなり熱心だよな」
俺は恥ずかしくなってしまう。
「もう、やめて下さい、聞こえたらどうするんですか」
「まあ、実験の様子も見てたけど、まんざらでもなさそうだぞ。頑張れよ」
俺の肩を軽く叩き、森田先輩は去っていった。少し見下ろすような乃亜の視線が痛い。
それから、二人で実験室を出た。また森田先輩との事、誤解されたらどうしよう……と少し考え込む。
大学の中庭で、気まずい沈黙が流れている。その静寂を破ったのは乃亜の一言だった。
「……面白い実験だったね」
俺はほっとした気持ちで答える。
「うん……あの作文、続きが気になるよな」
「どんな結末だと思う?」
聞かれて、ドキッとした。これは、遠回しに俺の気持ちを確かめているのだろうか。
「……青年が、ちゃんと想いを伝えられる結末がいいな」
「そうだね。言いたいことは、ちゃんと言わないと」
乃亜の声には、何か意味が込められているような気がした。でも、確信が持てない。
「今度……また一緒にやってみようか。パズルとか」
勇気を出して言ってみた。
「うん。今度は実験じゃなくて、普通にね」
乃亜が微笑む。その穏やかな表情は、実験中に見せてくれた自然な笑顔と同じだった。でも、どこか寂しそうにも見える。
その「普通に」という言葉が妙に引っかかる。俺たちに「普通」なんてあるのだろうか。最初から、特別だったような気がするから。
◇
黄昏時の帰り道、二人でサロン「Minuit」の方向へ向かう。
今の気分で、あの静かな空間で紅茶を飲みたくなったから、乃亜に聞いてみたら、行こうと言ってくれた。
「今日は楽しかったよ。久しぶりに、普通に話せた気がするし」
「俺も。実験のおかげで、変な緊張をしなくて済んだ」
そうなのだ。あの夜以来、俺たちはお互いを意識しすぎている。でも今日は、課題があったおかげで前みたいに自然に接することができた。
しかし、肝心な言葉はまだ言えずにいる。
歩きながら、さっきの共同作文のことを考えた。あの物語の青年は、最後に何を言おうとしていたのだろう。もちろん俺は知っている。「君のことが好きだ」と言いたかったのだ。
でも、それを声に出すのは、どうしてこんなに難しいんだろう……。
「あの作文の結末、気になるな」
乃亜がぽつりと言う。
「うん……青年、ちゃんと言えたかな」
「どうだろうね。でも、きっと言えたと思う」
「なんで?」
「上級生が『聞くよ』って言ってくれたから。それだけで、十分勇気になる」
乃亜の声が少し震えている。まるで、自分のことを話しているみたいに。
「そうだね……言いたいことは、ちゃんと言わないと」
俺も同感だ。サロンまでの道のりが、いつもより短く感じる。もっと一緒にいたいのに、時間だけが勝手に進んでいく。
「好き、か……」
気がつくと、小さくつぶやいていた。
「え?」
乃亜が振り返る。
「いや……何でもない」
慌てて首を振る。今のは聞こえてしまったのだろうか。心臓がバカみたいにうるさい。
「凪……」
乃亜が俺の名前を呼ぶ。いつもより少しかすれた声だった。
「何?」
「今度……ちゃんと話そう。俺、君に言いたいことがある」
心臓が止まりそうになる。
「俺も……言いたいことがある」
思わず答えていた。
二人とも立ち止まって、見つめ合う。伝えたいことがたくさんあるのに、どの言葉も喉に引っかかって出てこない。
でも、今度こそは言えそうな気がした。
「今度は逃げない。ちゃんと話そう?」
乃亜が小さく微笑む。
「うん。俺も、もう逃げない」
そんな約束をしていると、遠くにサロンの看板の明かりが見えてきた。
ちゃんと想いを伝えたい。でも、それがなかなかできない。告白なんて初めてで、タイミングもわからないから。
それでも、言いたいんだ。振られてもいい……いや、本当はめちゃくちゃ気にすると思う。けど、好きになったのは俺だから。伝えなきゃ、きっと何も変わらない。
2歳も年上なんだから、俺からちゃんと言わなきゃダメだ。
黄昏時の空にグレーの雲が広がって来た。遠くから雷鳴が聞こえてくる。
「雨、降りそうだね」
隣を歩く乃亜が空を見上げて呟く。
「そうだな」
あのときと同じ雨の予感。でも、あの夜とは少し違う俺がいる。
ぽつり、ぽつりと雫が頬に当たり始めた時、乃亜が振り返り言う。
「急ごう、サロンまで走れる?」
「……うん」
ほんの一瞬、ふたりの間に静かな時間が流れた。雨音も心音も、全部が透明になっていく。世界が止まったみたいだ。
だから、次の瞬間、手を繋がれたことが、ほんの少し奇跡のように感じた。
「それじゃ、行こう」
乃亜が俺の手を繋ぎ、引っ張って走り始める。その笑顔は世界で一番キラキラと輝いて、手は大きくて温かい。
青春映画みたいだ――雨に濡れることより、この手の感覚の方が、今はずっと大切に思える。
走っている俺たちは、きっとスローモーションになっているに違いない。その位印象的で俺の心のアルバムに記録された。
もう、“濡れる自分”に酔ってはいない。ただ、乃亜と一緒に走る雨の夕暮れが、なぜか愛おしくて切なかった。



