雨とマルコポーロ――恋が香る夜に

 
 どしゃ降りの雨。傘を差しても意味がない。
 今日もまた就活で落ちた。三次面接まで行ったのに、不採用。もう何社目だろう。数えるのも嫌になる。

「お疲れさまでした。結果については、後日ご連絡いたします」

 面接官の事務的な声が耳に残っている。今日こそはと思っていたのに、また駄目だった。
 スーツのポケットに入れたスマホがずっしりと重く感じる。

 駅のホームで電車を待ちながら、雨に打たれていた。濡れたスーツが肌に張り付いて不快だったけれど、それすらもどうでもよくなっていた。

 ゆっくりと立ち上がり、電車に乗ろうとした時だった。足がピタリと止まり、方向を変え、自宅とは逆方向の車両に乗り込む。身体がいうことを聞かない。まだ家には帰りたくないらしい。
 下車すると、足は自然にあの場所へ向かう。脳は行くなと指令を出すが、制御不能だ。

 一週間も避けてきたのに、結局ここに来てしまう。俺って、本当に駄目だな。
 暫くぶりの、サロン「Minuit」。

 扉を押し、ドアベルの音を大きく鳴らす。もうヤケクソだ。店内には、乃亜がひとりでカウンターに立っていた。  
 薄暗い照明の中で、紅茶の香りがかすかに漂っている。

「……また濡れてるじゃん」

 乃亜がカウンターから出てくる。その声には、いつもの優しさがあった。でも、どこかぎこちない。

「また……落ちちゃった?」

「うん。それと……ごめん、メッセージ返せなくて」

「いいよ。……久しぶりだね」

 乃亜はタオルを棚から取り出し、俺の頭にふわりと被せた。軽く拭いてくれる手つきは優しいのに、なぜかよそよそしい。
 まるで、触れてはいけないものに触れているような、そんな慎重さがあった。

「風邪ひくよ、そんなに濡れてたら」

「……ありがとう」

 タオルの温かさが頭に伝わる。乃亜の手が、タオル越しに髪を軽く撫でた。
 ほんの一瞬だったけれど、その優しさが心に染みた。

「シャワー浴びる?その前に……あったかいの飲んで」

「迷惑じゃない?もう閉店時間だろ」

「迷惑なわけないじゃん。君が来てくれるの、本当に嬉しいのに……」

 その言葉に胸がキュッと締め付けられた。しかし、乃亜の表情は暗く、どこか寂しそうだった。

 ◇

 乃亜は小鍋で、白っぽい茶色の液体をぐつぐつ煮だし、大きなボウルに注ぐ。そして、俺の前にそっと置いてくれた。

Thé au lait(テ・オ・レ)だよ。これであったまって」

 彼が淹れてくれたのは、濃いアッサムにミルクを合わせたテ・オ・レ、すなわち日本名、ロイヤルミルクティーだった。

 カフェオレボウルのような大きな器から湯気がふわっと立ちのぼり、アッサム特有の濃厚な香りと、焙煎されたような香ばしさが鼻をくすぐる。一口飲むと、ミルクの甘みが舌にやさしくて……、思わず目を閉じた。

 飲み頃の温度。ボウルに添えた手が温かい。甘くて、まろやかなアッサムの香ばしさが鼻を抜けて、身体の芯まであたたまっていく。

 こんなにも心を満たしてくれる飲みものがあるなんて――。
 乃亜が、黙って俺の様子を見つめている。いつもなら何か話しかけてくれるのに、今日も先週に引き続き、妙に静かだった。

 距離は近いはずなのに、心はなんだか離れ離れになったみたいで、すごく遠い。
 声も目も、仕草も、乃亜の全部がちょっとだけ冷たく感じる。

 でも、それはたぶん俺のせいだ。メッセージを既読のまま放置して、ろくに返事もしてこなかった。
「就活で忙しくて」なんて言い訳だけど、本当は顔を見たら喧嘩になりそうで、それが怖かった。

 俺がいない間、乃亜は何してたんだろう。
 誰と話して、どんな顔して笑ってたんだろう。

 あのモデル仲間との電話の声が耳に残っている。
 柔らかくて、楽しそうで、年相応の20歳の男の子みたいな。俺に向けるのとは違う声色。

 そんなの、ズルいだろ。俺が知らない乃亜がいるなんて。

 ……ほんとは、俺のことなんて、何とも思ってないのかもしれない。
 それなのに勝手に期待して、勝手に苦しくなって。

 こんなの、ただの片思いじゃないか。
 乃亜はカウンターの向こうで、手持ち無沙汰にカップを拭き続けている。

「美味いなこれ」

 そう言うと、乃亜の顔色が少しだけ和らいだ。

「よかった。君、疲れてるみたいだから、少し砂糖を入れて甘めにしといたよ」

「わかるの?」

「なんとなくね。表情とか、座り方とか」

 そんなところまで見ていてくれるのか。身体の奥で小さな灯が灯るような感覚が広がる。

「……この一週間、どうだった?」

 俺から口を開く。

「別に。いつも通り」

 短い返事。やっぱりどこかよそよそしい。乃亜の指先が、カウンターを軽く叩いている。落ち着きがない仕草だった。

「お客さん、来てた?」

「まあ、ぼちぼち。君が来ないから、なんか静かだったけど」

 その言葉に、ドキッとした。

「乃亜こそ、どうだった?モデルの仕事とか……」

「まあまあかな。来週、雑誌の撮影があるんだ」

「そうなんだ。すごいね」

「そうでもないよ。君の就活の方が、よっぽど大変だと思う」

 そう言って、乃亜は俺の瞳を見つめた。心配そうな表情で俺の様子を伺う。
 しかし、気まずくて、まったく会話が続かない。飲み終わるまで、重い空気が流れた。

「……あの日のこと」

 思わず口にしていた。

「森田先輩と一緒にいたの、気になった?」

 乃亜の手が止まる。

「……別に」

「でも怒ってたよね」

「怒ってない」

「嘘だ。顔に出てた」

 乃亜が俺を見る。その視線に、また一週間前と同じ冷たさがあった。

「君がさ……あんなふうに笑うなんて、知らなかったから……」

「普通に笑っただけだよ?」

「普通って……俺の前では、あんな顔しないじゃん」

 胃の奥がキリキリする。

「そんなことないと思うけど。それに、あの人は先輩で、君は……」

 言いかけて、言葉が詰まった。

「俺は?」

 乃亜の声が低くなる。

「……君は、マスターで」

「それだけ?」

 問い詰めるような眼差しは、息が詰まりそうになる。

「……それだけって、何だよ」

「俺が聞きたいよ。君にとって俺の存在って……いったいなんなの?」

 キリッとした鋭い眼光を俺に向ける。こんな顔見た事ない。
 声に感情が滲んでいた。いつもの穏やかな乃亜じゃない。

「だって……俺なんて、君の隣には並べないよ」

 思わず本音が出る。

「モデルで、イケメンで、みんなに好かれてて。俺みたいな……就活もうまくいかない冴えない奴とは、住む世界が違うじゃん」

「そんなこと……」

「違わないって言うのか?だったら……」

「だったら何だよ?」

 乃亜の声が荒くなった。いつもの穏やかさが今は感じられない。

「俺が君をどう思ってるのか、聞こうともしないで、勝手に決めつけるなよ」

「聞いたって、どうせ……」

「どうせ何だよ!」

 ガタっと椅子を引く音が響き渡る。

「君は、俺のこと何もわかってない」

 立ち上がる。気まずくなった空気を断ち切るように。

「何もわかってないって……」

「わかってたら、そんなこと言わない」

 乃亜の声には、今まで聞いたことのない苛立ちが混じっていた。

「俺だって、わからないよ。乃亜が何を考えてるのか」

「考えてること?」

「俺のこと、どう思ってるのかとか……」

 言いかけて、止めた。こんなこと聞いても、意味がない。
 俺は、重たい沈黙を断ち切るように言った。

「シャワー、借りるわ」

「うん。タオルと着替え、置いておくから」

 乃亜は背中を向けたまま答えた。感情の無い声で。でも、その肩が小さく震えているのが見えた。

 
 俺は階段を駆け上がり、二階のシャワールームに向かう。
 脱衣所で濡れたスーツを脱いでいると、心の奥がまだざわついていた。また喧嘩になってしまった。なんで素直になれないんだろう。

 ネクタイを外し、ワイシャツのボタンを外していく。鏡に映る自分の顔は疲れ切っていた。就活の疲れもあるけれど、乃亜との気まずい関係の方が辛い。

 なんでこんなことになってしまったんだろう。ここはただ居心地のいい場所で、乃亜の淹れる紅茶を飲んで、他愛もない話をして、それだけで満足していたのに……。

 いつから、こんなに嫉妬で苦しむくらい、彼のことが気になるようになったんだろう。

 シャワーをひねると、熱いお湯が頭から降り注ぐ。目を閉じて身を委ねた。
 ここのシャワールームのタイルは冷たくて固い。足裏がひんやりとする。温かいお湯が首筋を伝い、背中を流れていく。

 就活の疲れと、乃亜への複雑な想いが、お湯と一緒に流れていけばいいのに。でも、そんなに簡単にはいかない。
 一階から足音が聞こえる。乃亜が店内を片付けている音だ。いつもなら安心できるその音が、俺の心を不安定にさせる。

 俺は何がしたいんだろう。謝りたいのか、それとも本当の気持ちを聞きたいのか。

 外の雨音も、かすかに聞こえるが、頭の中はシャワーの音だけが響いている。

 大きくため息をついた瞬間、後ろの扉が開く気配がした。

 振り返ると——。そこにはびしょ濡れの乃亜が立っていた。

 白シャツと黒いパンツも、髪も服も、シャワーがかかり、濡れて肌に張りついている。髪からは水が滴り落ちていた。

 でも、瞳は異様に静かだけど、奥に情熱を秘めているような熱さを感じる。普段の余裕のある彼とは別人のようだった。

「……おま……なにして——」

 言い切る前に、乃亜が俺の両手首を掴み、壁へ強く押しつける。俺は身動きを封じられた。

 そして――水音とともに、唇が重なった。

 キスは静かだ。だが、熱い感情がすべて流れ込んでくる。

 俺の身体には落雷に打たれたような衝撃が走り、全身が熱に侵されていく。

 唇が触れた瞬間、背中にひんやりとしたタイルの感触が広がった。

 手首を掴んでいる彼の手の熱が伝わって来る。

 彼の衣服が触れるたび、布越しの温度まで分かるくらいだった。

 キスの圧が強くなっていく。唇を離さず、俺も拒否できずに受け入れている。

 乃亜の濡れた衣服が俺の肌に触れるたび、自分が全裸であることを思い知らされる。

 カッと頭に血が昇り、耐えられない羞恥心で自分が自分でなくなる感覚に襲われた。

 苦しい。けど、逃げられない。

 ……だけど、嫌じゃない……。

 何も言わないのに、こんなに気持ちが伝わってくるなんて。

 心音が、耳のすぐ近くで鳴っている。

 これが怒り?それとも哀しみ?

 ……俺が気づかないふりしてきた、秘められた想い?

「……なんで」

 ようやく唇が離れて、慌てて身体を隠そうとする。今更すぎる仕草に、また顔が熱くなった。

 乃亜は今まで見たことのない、哀愁が漂う表情をしている。

「あいつのこと……好きなの?俺じゃなくて」

 乃亜の声は酷く震えていた。水滴が額から滝のように流れ落ちる。

「森田先輩のこと?」

「そう」

「……違うよ」

「でも、すごく仲良さそうで、あんな顔で笑って」

「あれは……」

 俺は言葉に詰まった。確かに森田先輩といる時は、いつもリラックスしている。緊張しないから自然体でいられるだけで、特別な想いなんてあるわけがないのに。就活の相談に乗ってもらって、安心していただけだ。

「先輩は、俺の相談に乗ってくれるから。就活で落ち込んでる時、励ましてくれるから」

「……本当に、それだけなのかな」

 乃亜の声が小さくなる。

「でも、俺といる時とは違う顔してた」

 それは……乃亜の前では自然体でいるなんて無理だろう。こんなに意識しているのに……。

 このままではダメだと思い、俺は一番聞かなくてはならない事を……勇気を出して聞く事にした。

「……なんで、俺に……キスなんてするんだよ?」

 乃亜の唇を噛みしめていた。

「なんでって……わからない?……どうしてだと思う?」

 答えになっていない。俺も頭が混乱して、何も答えられない。

「言えよ……ちゃんと、お前の気持ち……」

「じゃあ、君の気持ちも教えてよ……」

 乃亜は静かに呟く。

「俺だって……なんて言えばいいんだよっ」

 本当に俺の頭は混乱して、上手く言葉が出てこなかった。
 すると、乃亜はぎゅっと目を閉じ、言葉に詰まりながらも俺に言った。

「……なんで、俺にだけ冷たくすんの?
 他の誰かと笑ってるとこなんて、見たくなかった。
 俺の前では見せないような顔して……。
 メッセージも無視されて、俺にどうしろって言うの……?」

 俺は乃亜の言葉に動けなくなった。乃亜の顔を見ると、瞳は赤く、唇は震えていた。

「でも……ごめん。今日は、止められなかった」

 キスした理由の説明はない。また、教えてもらえないみたいだ。でも、乃亜なりに本心を語ったのだと思う。

 ふたりとも、どこにも向けられない気持ちを抱えたまま、何も言えなくなった。
 乃亜は濡れた髪をかき上げ、ふっと視線を外した。

「……今日は、悪かった」

 乃亜の手が、ドアノブを握ったまま一瞬止まる。
 何か言いたそうな表情で振り返りかけたけれど、結局何も言わなかった。

 そして、俺の返事も聞かずにシャワールームを出ていく。

 水音だけが、背中に降り注いでいた。
 キスの意味なんて、俺にはわからないけど、あの唇の熱は今も脳裏に焼きついている。

 このまま全部、なかったことにされるのだけが怖かった。
 壁にもたれて、ふと呟く。

「……嫌じゃ、なかったんだけどな」

 その言葉は湯気の中で静かに消えていった。
 なんで、大事な事は何も言わないんだよ。

 問い詰めて、聞きたいのに。でも、聞いてしまったら……どうなるのか分からない。俺は黙るしかなかった。
 シャワーの水が流れ続けている。自分の手首と唇に、まだ乃亜の熱が残っている。

 着替えを済ませて一階に降りた時、店内に乃亜の姿はなかったから、カウンターに紅茶代を置いて何も言わずに帰ることにした。
 
 ドアに手をかけて振り返ると、奥の部屋から微かに音が聞こえた。乃亜がいるのはわかっているのに、声をかけることができない。
 ドアベルを静かに鳴らして、店を出る。

 外は、雨がまだ降っていた。

 ◇

 家に帰り、もう一度熱いシャワーを浴びてベッドに滑り込む。

 布団にくるまっても、全然眠れない。唇がまだ熱い。触れると柔らかい感覚が蘇り、思い出すと息が乱れる。
 たぶん、俺……まんざらでもなかった。怒れなかったし、あのキスが嫌じゃなかった事を、認めるしかない。

 もう二時間は経つのに、乃亜の手が俺の手首を掴んだ時の感覚、壁に押し付けられた時の冷たいタイル、そして唇の感触。全部が鮮明で、消える事はない。

 なんで乃亜は何も言わないんだろう?キスしたのに、告白もしない。理由も教えてくれない。
「他の誰かと笑ってるとこなんて、見たくなかった」とだけ。

 俺のこと、やっぱり好きなのかな……?考えれば考えるほど、わからなくなる。
 それでも、心の奥で、何かが変わり始めているのはわかる。今まで感じたことのない感情が、静かに燃えている。

 やっぱり、嫉妬でこうなったってこと……?彼の性格的に、無理やりキスするなんてありえないと思う。
 感情のコントロールが出来ない程、俺を求めていた……?そんなこと、本当にあるのか?俺の思考回路がショートした。

 彼は20歳にしては、大人っぽいし余裕も十分にある。なにをそんなに嫉妬する事があるんだろうか?全てを持っているのに……。彼の事がわからなくなった。

 雨音を聞きながら、目を閉じる。あの時の衝撃が、まだまだ消える様子はない。

 次に会う時、たぶん、俺はもう同じじゃいられないだろう。
 答えは、まだ出ないけど、ひとつだけ確かに言える。

 俺はもう、このままじゃいられない。「好き」なんて言葉じゃ足りないだろう。もっと複雑で、もっと切ない何かが胸の奥で渦巻いている。

 スマホを手に取り、乃亜に何かメッセージを送ろうとして、何度も文字を打っては消した。

「今日のことは」「気にするな」「俺のことは」どれも違う気がして、結局送れない。
 彼も今頃、同じようにスマホを見つめているのだろうか。

 窓の外は雨だ。窓を叩く雨音に、思考が乱される。