ある日の大学の空き時間。中庭のベンチに座って、先輩の話を聞いていた。
「長谷川、就活どう?まだ厳しい?」
森田先輩は、去年ゼミでお世話になった一学年上の大学院生だ。柔らかい口調と気さくな雰囲気で、俺みたいな学部生にもよく声をかけてくれる。
「うーん、まあ……相変わらず、って感じですね」
「そっか。俺も去年は結構落ちてたからなあ。第一志望、最終面接でダメでさ、めちゃくちゃ落ち込んだよ」
「え、先輩って就職活動してたんですか?」
「してたよー。内定ももらってた。でも、やっぱり研究諦められなくて辞退した」
そう言って、先輩は俺の肩をぽんと叩く。
「長谷川なら大丈夫だよ。焦る気持ちはわかるけど、ちゃんと自分を信じなって」
先輩の言葉に、少しだけ心が軽くなる。空は晴れていたのに、遠くからどんよりした乱層雲が流れてきていた。俺の心の中みたいに不安定な空模様。
「ところでさ」森田先輩がニヤリと笑いながら言う。
「恋人とかいないの?就活で疲れてる時こそ、癒しが必要でしょ」
「恋人……」
思わず苦笑いが出る。
「そういうのって、タイミングじゃないですかね。今は就活で精一杯だし」
「まあ、そうかもね。でも恋って、意外とタイミング関係なく始まるもんだよ?」
先輩の言葉に、俺は思考を巡らせると、無意識に言葉が零れてしまう。
「……次の恋って、もう始まってるのかもって、最近ふと思うんですよね」
「え、誰?俺じゃないよね?」
先輩が冗談めかして笑いながら、また俺の肩に手を置く。いつもこうだ。よく分からない冗談を言われて困る。でも、適当に笑って受け流す。
そんな時、視線を感じて振り返ると、少し離れた場所に乃亜が立っていた。目が合った瞬間、乃亜はすっと瞳を逸らし、そのまま歩き去っていく。
見ていたのだろうか? 胃のあたりに、なんともいえないざわつきが生まれる。
「どうした?」
「あ、いえ……なんでもないです」
でも心の中では、乃亜の表情が気になっていた。あんな顔、今まで見たことがなかったからだ。少し怒っているような、なんとも言えない表情だった。
◇
夕方、就活の帰りにサロン「Minuit」に立ち寄る。
今日は珍しく調子がよく、面接で手応えを感じることができたし、気持ちも少し軽やかだ。
店内に入ると、カウンターで乃亜がシルバーのカトラリーを磨いていた。いつものように振り返って微笑んでくれたけれど、どこかぎこちない気がする。
「お疲れさま」
「うん」
席に着こうとした時、入り口のドアベルが鳴り響く。
「あ、森田先輩!」
振り返ると、森田先輩が立っていた。
「おお、長谷川じゃん。こんなところで会うなんて偶然だな」
「先輩もお疲れさまです」
森田先輩は店内を見回して、「いい雰囲気の店だね」と感想を述べる。
「ちょっと時間あるから、俺も飲んでいこうかな」
先輩は俺の隣に座り、軽く近況を話す。乃亜が先輩の注文を取りに来ると、俺は簡単に紹介した。
「この店のマスター、乃亜さんです。こちらは、院生の森田先輩」
「よろしくお願いします」
乃亜は丁寧に挨拶したけれど、いつもより表情が硬い気がする。ちょっと様子が変だ。一度もこちらを見なかった。
先輩が紅茶を飲み終えて帰る時、俺の肩を軽く叩いて言う。
「長谷川、また相談乗るからさ。一人で抱え込むなよ」
「ありがとうございます」
先輩が去ったあと、店内に静寂が戻る。でも、その静寂はいつもとは違い、重くるしい空気が充満して、息苦しさで喉が詰まる。
「いつもと違うの、頼む」
俺が二杯目を頼むと、乃亜は無言で茶葉を選び始める。手つきは丁寧だったけれど、どこか距離を感じる動きだった。慣れた手つきで紅茶を入れながら、終始無言で静かな時間が流れていく。
砂時計が落ちた頃、湯気が立ちのぼるカップを受け取る。香りは確かにいつもと違っていて、ほんのり甘さの奥に、どこかスパイスの刺激が残る香り。
「……これ、何の紅茶?」
そう尋ねると、乃亜は淡々と答える。
「Chandernagor。シナモンとクローブが入ってる。ちょっと……辛口」
「へぇ……初めて飲むな」
「まあ、あんまり出さないやつ」
「……なんか、機嫌悪い?」
そう尋ねると、乃亜は少し驚いたような顔をする。
「別に、機嫌悪くないよ」
でも、その声は明らかにぎこちない。いつもなら、選んだ紅茶について詳しく話してくれるのに、今日は何も言ってくれない。
恐らく俺に腹を立てていて、話したくないのだろう。でも何に怒ってるか分からないし、どうしようも出来ないから、俺は途方に暮れる。
夜が更けて、他の客が帰った後も、俺はカウンターに座り課題をし続ける。何もせずに座っていられるほど図太くもない。この状況を放置して帰る勇気もない。
その間にも、乃亜は黙々と閉店の準備をしている。いつもなら他愛もない会話をする時間なのに、今日は空虚な時間が流れている。
そんな時、カウンターの下でスマホの振動音が鳴り響く。
「ちょっと、失礼するね」
乃亜がスマホを持ち奥に向かう。電話の相手は男性らしく、声は明るく、はしゃいでいるのが分かる。
「……来週の撮影?うん、面白くなりそうだね」
テンション高めに話している乃亜の声を聞いていると、胸の奥に嫌な感覚が湧いてくる。さっき俺に見せたぎこちない表情とは全然違う、自然で明るい声だ。まるで別人のように。
彼は俺だけのものじゃないのに、なんで独占したくなるんだ?――この感情はなんなんだよ。
乃亜が戻ってくると、俺は何気なく話を振ってみる。
「さっきの電話の相手って、モデル仲間?」
「うん。同じ事務所の同期」
乃亜は短く答えて、また作業を続ける。
「……なんで、そんなこと聞くの?」
「いや、別に。ただ……楽しそうだったから」
その瞬間、乃亜の手が止まった。
「楽しそう?」
「うん。俺といる時とは、全然違う声だった」
自分でも、なぜそんなことを言ったのかわからない。でも、口から出てしまった言葉は取り消せない。この時、俺の本心を初めて自分で知ることになった。
その時、乃亜がこちらに向けた視線はナイフのように鋭くて、今まで見たことのない冷え切った眼差しだった。けれど、その奥は微かに揺れているようにも見える。
「“次の恋”、もう始まってるんだって?」
突然の言葉に、俺は固まる。声は冷静だったけれど、わずかに震えていた。
「……聞いてたの?」
「偶然聞こえただけ。俺なんて、ただの紅茶屋だもんね」
その言葉に、何かがプツンと切れる。
「盗み聞きって趣味悪くない?」
そう言い返してから、自分の声に棘があることに気づく。何を言ってるんだ、俺は。
「……あんな顔、ずるいよ」
予想外の言葉だった。乃亜の声に、明らかに苛立ちが混じっている。
「あんな顔って……何だよ」
「俺には見せてくれないのに」
乃亜の声が小さくなる。片付けをしていた手が止まっていた。
「君は俺の前だと、いつも少し緊張してるでしょ?でも、あの人の前では全然違った。リラックスして、自然体で……」
その言葉に、俺の中でも我慢していた感情が弾ける。
「俺だって客の中の一人だろ?お前も電話で話してた相手と楽しそうだったけど」
「仕事だから」
「俺だって、ただの先輩だから!」
声を荒らげてしまう。店内に、俺の声だけが響く。辺りを見回し、他にお客さんがいない事を確認して安堵する。
「先輩は……俺が就活で落ち込んでる時、励ましてくれる……ただ、それだけなのに」
「それだけ?本当に?」
乃亜の声が、さらに低くなる。
「それだけだよ。なのに、なんで……」
言いかけて、言葉が詰まる。なんで、そんなことを乃亜に説明しなきゃいけないんだ。
友達なら、他の人と楽しそうに話してても平気なはず。なのに、自分には見せない顔があることが許せない。これって、特別に……好きってこと?
俺の方はどうだ? まだ、彼のことが好きだなんて認められない。これって、認知的不協和ってやつ? 本当に矛盾してる。
乃亜は黙ったまま何も話してくれない。いつもなら、こういう時ふざけて笑わせてくれるのに……。その沈黙の長さが余計に俺の苛立ちを募らせる。
「怒ってるくせに、なんも言わねぇくせに……俺にだけ、感情ぶつけてくんなよ」
立ち上がって、俺はレジに向かった。
「これ、今日の分」
お金をカウンターに置く。乃亜は受け取らないから、その場で放置されている。
「……もう帰る」
「気をつけて」
乃亜の声は、背中に突き刺さる。俺はドアに手をかけた時、一瞬振り返る。彼はカウンターの向こうで、カップの中を見つめていた。俺はそのまま何も言わずに店を出る。こんな事は初めてだった。
◇
外はまた、雨がポツポツ降り始めていた。今夜は夜気が冷たくて、雫が頬に当たるたび、ようやく思考が作動する。
歩いていると、ようやく頭が冷えてきた。何やってるんだ俺は。
あれは嫉妬だったのか? だけど、嫉妬していたのは俺だけじゃない。
でも、どうしてお互い嫉妬したのだろう。森田先輩は本当にただの先輩だし、乃亜の電話相手も仕事仲間だ。
なぜ、あんなに感情が爆発してしまったのか。乃亜が他の人に見せる表情が気になるのか。そして「俺には見せてくれない」という言葉に胸が疼いたのだろうか。
イライラしてる意味がわからない。乃亜は俺のものじゃないのに……でも独占したいって気持ちが止まらない。
やっぱり、乃亜も俺に嫉妬してたのだろうか。普段あんなに冷静なのに、感情的になるところもあるんだな。意外と嫉妬深い人なのかも。でも、なんで俺にその感情が生まれるんだ?
俺の方は、本音を曝け出すのがまだ怖い。嫌われたくないから。だから彼の前では、彼に好かれる自分でいようとしてしまう。今日はそれが出来なかったけど……。
彼も友達と話す時と俺と話す時は、少し違う。それがわかるから、余計に腹が立つ。
乃亜の声を聞くと、嬉しくなる。でも、怒られるとムカつくのに、泣きそうにもなる。
独占欲って、愛情の証拠なのか? でも俺、まだ好きだって認められてないのに……。
これって恋なの? 答えが見つからないことが、もうしんどい。
俺は頭の中で迷宮に迷い込んでいた。出口が見つからない迷路の中をただ彷徨っている。
雨が強くなっていくけど歩を止めない。今は、雨に濡れながら歩き続けるしかないのだ。
◇
それから五日間、俺はサロン「Minuit」に足を向けなかった。メッセージも既読をつけたまま、返信もしていない。
でも、雨の日は、あの日の乃亜の顔を思い出す。苛立ちと、それ以外の何かが混ざった、複雑な顔。怒ってるような、傷ついてるような、でもどこか俺を突き放すような眼差し。
帰宅後は、服を脱ぎ捨てソファに倒れ込む。その時スマホの着信が見える。何度目かの乃亜からのメッセージ。
『まだ、怒ってる?』
『俺も悪かった』
『でも君のあの笑顔、忘れられないんだ』
たった数行のメッセージ。それだけなのに、どうしてこんなに心が痛くなるんだろう。
俺の指は、画面の上を何度もなぞったけれど、返信ボタンには触れられない。返したら、なにかが変わってしまいそうで。その変化が怖い……って、なんなんだよ、俺。
怒ってるのはどっちなんだよ。画面を眺めたまま指が動かない。
既読をつけたまま、返信はまだ打てずにいる。俺は、あいつの何を知ってるんだろう。どこに住んでるかも、何が好きなのかも、全く知らないし。どういう人なのかも、ちょっと分からなくなっている。
でも、知りたいと思ってる。乃亜の普段の生活も、モデルの仕事のことも、どんな時に笑うのかも。何を考えているのかも。
それって、友達としてなのか?……違う気がする。あんなふうに怒られて、俺だって戸惑ったし、この普通じゃない関係は、誰にも説明できない。
思い返すと、彼と初めて出会って最初にサロンに行った日から、彼の存在は、俺の中ではもう他の人と同じじゃなかった。
「なんか落ち着くから」って言い訳してたけど、乃亜の声、纏う香りが、目の奥に残る理由は? それが何なのか気づくのも時間の問題だろう。
結局、俺は何がしたいんだ? 乃亜と友達でいたいのか、それとも……この気持ちを認めるのが怖いのか?
ベッドに倒れこんだまま、目を閉じる。シャワーの音。紅茶の香り。それと一緒に、彼の声が、すぐ耳元で囁くみたいに蘇ってくる。
「……君にだけ、してることだよ」
それを思い出すたび、みぞおちあたりが、じんわりと熱くなるし。あー、くそっ……。
スマホを手に取り、乃亜に返信を送ろうとして、何度も文字を打っては消す。
「今日は」「さっきは」「わるかった」どれも違う気がして、結局送れない。
窓の外はまた雨だ。窓を叩く雨音に思考がかき乱される。
とりあえず、しばらく会わない方がいい。会っても喧嘩するだけだし、お互い冷静になる時間が必要だ。
そう決めたはずなのに、胸の奥で何かがざわついている。なんなんだよ、俺。
「長谷川、就活どう?まだ厳しい?」
森田先輩は、去年ゼミでお世話になった一学年上の大学院生だ。柔らかい口調と気さくな雰囲気で、俺みたいな学部生にもよく声をかけてくれる。
「うーん、まあ……相変わらず、って感じですね」
「そっか。俺も去年は結構落ちてたからなあ。第一志望、最終面接でダメでさ、めちゃくちゃ落ち込んだよ」
「え、先輩って就職活動してたんですか?」
「してたよー。内定ももらってた。でも、やっぱり研究諦められなくて辞退した」
そう言って、先輩は俺の肩をぽんと叩く。
「長谷川なら大丈夫だよ。焦る気持ちはわかるけど、ちゃんと自分を信じなって」
先輩の言葉に、少しだけ心が軽くなる。空は晴れていたのに、遠くからどんよりした乱層雲が流れてきていた。俺の心の中みたいに不安定な空模様。
「ところでさ」森田先輩がニヤリと笑いながら言う。
「恋人とかいないの?就活で疲れてる時こそ、癒しが必要でしょ」
「恋人……」
思わず苦笑いが出る。
「そういうのって、タイミングじゃないですかね。今は就活で精一杯だし」
「まあ、そうかもね。でも恋って、意外とタイミング関係なく始まるもんだよ?」
先輩の言葉に、俺は思考を巡らせると、無意識に言葉が零れてしまう。
「……次の恋って、もう始まってるのかもって、最近ふと思うんですよね」
「え、誰?俺じゃないよね?」
先輩が冗談めかして笑いながら、また俺の肩に手を置く。いつもこうだ。よく分からない冗談を言われて困る。でも、適当に笑って受け流す。
そんな時、視線を感じて振り返ると、少し離れた場所に乃亜が立っていた。目が合った瞬間、乃亜はすっと瞳を逸らし、そのまま歩き去っていく。
見ていたのだろうか? 胃のあたりに、なんともいえないざわつきが生まれる。
「どうした?」
「あ、いえ……なんでもないです」
でも心の中では、乃亜の表情が気になっていた。あんな顔、今まで見たことがなかったからだ。少し怒っているような、なんとも言えない表情だった。
◇
夕方、就活の帰りにサロン「Minuit」に立ち寄る。
今日は珍しく調子がよく、面接で手応えを感じることができたし、気持ちも少し軽やかだ。
店内に入ると、カウンターで乃亜がシルバーのカトラリーを磨いていた。いつものように振り返って微笑んでくれたけれど、どこかぎこちない気がする。
「お疲れさま」
「うん」
席に着こうとした時、入り口のドアベルが鳴り響く。
「あ、森田先輩!」
振り返ると、森田先輩が立っていた。
「おお、長谷川じゃん。こんなところで会うなんて偶然だな」
「先輩もお疲れさまです」
森田先輩は店内を見回して、「いい雰囲気の店だね」と感想を述べる。
「ちょっと時間あるから、俺も飲んでいこうかな」
先輩は俺の隣に座り、軽く近況を話す。乃亜が先輩の注文を取りに来ると、俺は簡単に紹介した。
「この店のマスター、乃亜さんです。こちらは、院生の森田先輩」
「よろしくお願いします」
乃亜は丁寧に挨拶したけれど、いつもより表情が硬い気がする。ちょっと様子が変だ。一度もこちらを見なかった。
先輩が紅茶を飲み終えて帰る時、俺の肩を軽く叩いて言う。
「長谷川、また相談乗るからさ。一人で抱え込むなよ」
「ありがとうございます」
先輩が去ったあと、店内に静寂が戻る。でも、その静寂はいつもとは違い、重くるしい空気が充満して、息苦しさで喉が詰まる。
「いつもと違うの、頼む」
俺が二杯目を頼むと、乃亜は無言で茶葉を選び始める。手つきは丁寧だったけれど、どこか距離を感じる動きだった。慣れた手つきで紅茶を入れながら、終始無言で静かな時間が流れていく。
砂時計が落ちた頃、湯気が立ちのぼるカップを受け取る。香りは確かにいつもと違っていて、ほんのり甘さの奥に、どこかスパイスの刺激が残る香り。
「……これ、何の紅茶?」
そう尋ねると、乃亜は淡々と答える。
「Chandernagor。シナモンとクローブが入ってる。ちょっと……辛口」
「へぇ……初めて飲むな」
「まあ、あんまり出さないやつ」
「……なんか、機嫌悪い?」
そう尋ねると、乃亜は少し驚いたような顔をする。
「別に、機嫌悪くないよ」
でも、その声は明らかにぎこちない。いつもなら、選んだ紅茶について詳しく話してくれるのに、今日は何も言ってくれない。
恐らく俺に腹を立てていて、話したくないのだろう。でも何に怒ってるか分からないし、どうしようも出来ないから、俺は途方に暮れる。
夜が更けて、他の客が帰った後も、俺はカウンターに座り課題をし続ける。何もせずに座っていられるほど図太くもない。この状況を放置して帰る勇気もない。
その間にも、乃亜は黙々と閉店の準備をしている。いつもなら他愛もない会話をする時間なのに、今日は空虚な時間が流れている。
そんな時、カウンターの下でスマホの振動音が鳴り響く。
「ちょっと、失礼するね」
乃亜がスマホを持ち奥に向かう。電話の相手は男性らしく、声は明るく、はしゃいでいるのが分かる。
「……来週の撮影?うん、面白くなりそうだね」
テンション高めに話している乃亜の声を聞いていると、胸の奥に嫌な感覚が湧いてくる。さっき俺に見せたぎこちない表情とは全然違う、自然で明るい声だ。まるで別人のように。
彼は俺だけのものじゃないのに、なんで独占したくなるんだ?――この感情はなんなんだよ。
乃亜が戻ってくると、俺は何気なく話を振ってみる。
「さっきの電話の相手って、モデル仲間?」
「うん。同じ事務所の同期」
乃亜は短く答えて、また作業を続ける。
「……なんで、そんなこと聞くの?」
「いや、別に。ただ……楽しそうだったから」
その瞬間、乃亜の手が止まった。
「楽しそう?」
「うん。俺といる時とは、全然違う声だった」
自分でも、なぜそんなことを言ったのかわからない。でも、口から出てしまった言葉は取り消せない。この時、俺の本心を初めて自分で知ることになった。
その時、乃亜がこちらに向けた視線はナイフのように鋭くて、今まで見たことのない冷え切った眼差しだった。けれど、その奥は微かに揺れているようにも見える。
「“次の恋”、もう始まってるんだって?」
突然の言葉に、俺は固まる。声は冷静だったけれど、わずかに震えていた。
「……聞いてたの?」
「偶然聞こえただけ。俺なんて、ただの紅茶屋だもんね」
その言葉に、何かがプツンと切れる。
「盗み聞きって趣味悪くない?」
そう言い返してから、自分の声に棘があることに気づく。何を言ってるんだ、俺は。
「……あんな顔、ずるいよ」
予想外の言葉だった。乃亜の声に、明らかに苛立ちが混じっている。
「あんな顔って……何だよ」
「俺には見せてくれないのに」
乃亜の声が小さくなる。片付けをしていた手が止まっていた。
「君は俺の前だと、いつも少し緊張してるでしょ?でも、あの人の前では全然違った。リラックスして、自然体で……」
その言葉に、俺の中でも我慢していた感情が弾ける。
「俺だって客の中の一人だろ?お前も電話で話してた相手と楽しそうだったけど」
「仕事だから」
「俺だって、ただの先輩だから!」
声を荒らげてしまう。店内に、俺の声だけが響く。辺りを見回し、他にお客さんがいない事を確認して安堵する。
「先輩は……俺が就活で落ち込んでる時、励ましてくれる……ただ、それだけなのに」
「それだけ?本当に?」
乃亜の声が、さらに低くなる。
「それだけだよ。なのに、なんで……」
言いかけて、言葉が詰まる。なんで、そんなことを乃亜に説明しなきゃいけないんだ。
友達なら、他の人と楽しそうに話してても平気なはず。なのに、自分には見せない顔があることが許せない。これって、特別に……好きってこと?
俺の方はどうだ? まだ、彼のことが好きだなんて認められない。これって、認知的不協和ってやつ? 本当に矛盾してる。
乃亜は黙ったまま何も話してくれない。いつもなら、こういう時ふざけて笑わせてくれるのに……。その沈黙の長さが余計に俺の苛立ちを募らせる。
「怒ってるくせに、なんも言わねぇくせに……俺にだけ、感情ぶつけてくんなよ」
立ち上がって、俺はレジに向かった。
「これ、今日の分」
お金をカウンターに置く。乃亜は受け取らないから、その場で放置されている。
「……もう帰る」
「気をつけて」
乃亜の声は、背中に突き刺さる。俺はドアに手をかけた時、一瞬振り返る。彼はカウンターの向こうで、カップの中を見つめていた。俺はそのまま何も言わずに店を出る。こんな事は初めてだった。
◇
外はまた、雨がポツポツ降り始めていた。今夜は夜気が冷たくて、雫が頬に当たるたび、ようやく思考が作動する。
歩いていると、ようやく頭が冷えてきた。何やってるんだ俺は。
あれは嫉妬だったのか? だけど、嫉妬していたのは俺だけじゃない。
でも、どうしてお互い嫉妬したのだろう。森田先輩は本当にただの先輩だし、乃亜の電話相手も仕事仲間だ。
なぜ、あんなに感情が爆発してしまったのか。乃亜が他の人に見せる表情が気になるのか。そして「俺には見せてくれない」という言葉に胸が疼いたのだろうか。
イライラしてる意味がわからない。乃亜は俺のものじゃないのに……でも独占したいって気持ちが止まらない。
やっぱり、乃亜も俺に嫉妬してたのだろうか。普段あんなに冷静なのに、感情的になるところもあるんだな。意外と嫉妬深い人なのかも。でも、なんで俺にその感情が生まれるんだ?
俺の方は、本音を曝け出すのがまだ怖い。嫌われたくないから。だから彼の前では、彼に好かれる自分でいようとしてしまう。今日はそれが出来なかったけど……。
彼も友達と話す時と俺と話す時は、少し違う。それがわかるから、余計に腹が立つ。
乃亜の声を聞くと、嬉しくなる。でも、怒られるとムカつくのに、泣きそうにもなる。
独占欲って、愛情の証拠なのか? でも俺、まだ好きだって認められてないのに……。
これって恋なの? 答えが見つからないことが、もうしんどい。
俺は頭の中で迷宮に迷い込んでいた。出口が見つからない迷路の中をただ彷徨っている。
雨が強くなっていくけど歩を止めない。今は、雨に濡れながら歩き続けるしかないのだ。
◇
それから五日間、俺はサロン「Minuit」に足を向けなかった。メッセージも既読をつけたまま、返信もしていない。
でも、雨の日は、あの日の乃亜の顔を思い出す。苛立ちと、それ以外の何かが混ざった、複雑な顔。怒ってるような、傷ついてるような、でもどこか俺を突き放すような眼差し。
帰宅後は、服を脱ぎ捨てソファに倒れ込む。その時スマホの着信が見える。何度目かの乃亜からのメッセージ。
『まだ、怒ってる?』
『俺も悪かった』
『でも君のあの笑顔、忘れられないんだ』
たった数行のメッセージ。それだけなのに、どうしてこんなに心が痛くなるんだろう。
俺の指は、画面の上を何度もなぞったけれど、返信ボタンには触れられない。返したら、なにかが変わってしまいそうで。その変化が怖い……って、なんなんだよ、俺。
怒ってるのはどっちなんだよ。画面を眺めたまま指が動かない。
既読をつけたまま、返信はまだ打てずにいる。俺は、あいつの何を知ってるんだろう。どこに住んでるかも、何が好きなのかも、全く知らないし。どういう人なのかも、ちょっと分からなくなっている。
でも、知りたいと思ってる。乃亜の普段の生活も、モデルの仕事のことも、どんな時に笑うのかも。何を考えているのかも。
それって、友達としてなのか?……違う気がする。あんなふうに怒られて、俺だって戸惑ったし、この普通じゃない関係は、誰にも説明できない。
思い返すと、彼と初めて出会って最初にサロンに行った日から、彼の存在は、俺の中ではもう他の人と同じじゃなかった。
「なんか落ち着くから」って言い訳してたけど、乃亜の声、纏う香りが、目の奥に残る理由は? それが何なのか気づくのも時間の問題だろう。
結局、俺は何がしたいんだ? 乃亜と友達でいたいのか、それとも……この気持ちを認めるのが怖いのか?
ベッドに倒れこんだまま、目を閉じる。シャワーの音。紅茶の香り。それと一緒に、彼の声が、すぐ耳元で囁くみたいに蘇ってくる。
「……君にだけ、してることだよ」
それを思い出すたび、みぞおちあたりが、じんわりと熱くなるし。あー、くそっ……。
スマホを手に取り、乃亜に返信を送ろうとして、何度も文字を打っては消す。
「今日は」「さっきは」「わるかった」どれも違う気がして、結局送れない。
窓の外はまた雨だ。窓を叩く雨音に思考がかき乱される。
とりあえず、しばらく会わない方がいい。会っても喧嘩するだけだし、お互い冷静になる時間が必要だ。
そう決めたはずなのに、胸の奥で何かがざわついている。なんなんだよ、俺。



