雨とマルコポーロ――恋が香る夜に

 あの夜から数日が経ち、ギクシャクした乃亜との関係もましになって来た気がする。

 昼休みは校庭のベンチで一緒にランチタイムを過ごす。このことが日常になりつつある。俺から乃亜を見つけてあげる事も増えた。もう、花壇のミラベルの季節は終わり、緑の草だけが残っている。

 2人でベンチに座っていると、決まって女の子達が差し入れを乃亜に渡そうとする。乃亜は丁寧に断る。イケメンに生まれると、良い事ばっかりじゃないんだな……とふと思った。

「はー。ちょっと面倒くさいね」

 珍しく乃亜がため息をつく。

「人気者も大変なんだな。全部断ってて偉いよ」

「まあね。前はサロンにも来られて困ったから、大学ではちゃんと対応しないと」

「そう言えば、サロンはファンの女の子来ないよな?」

「うん。だって仕事中だから来られたら困るし、来ないでって言ってある」

 乃亜も俺が知らない所で、色々苦労があるんだなと思った。今日の予定を確認していた時、ふと思い出す。

「今日、面接行ってくる」

「うん。頑張って。終わったら、サロン寄ってよ」

「うん。今日の面接、合否すぐ出るらしいから……」

「そっか。上手くいくといいね」

 乃亜の午後の授業の時間になったので解散し、俺は着替える為に一旦家に戻った。
 夕方からの面接の為に、気合を入れる。

 ◇

 夜も更けた頃。
 リクルートスーツの肩に、重たい雨粒が叩きつけられていた。

 今度の面接も、やっぱり落ちた。

 「お疲れさまでした」という事務的な声が、まだ耳の奥で響いている。薄っぺらい笑顔と、形だけの握手。どれも慣れてしまった光景だった。

 歩いていると、雨が一層強くなっていた。アスファルトの上を走る水の音に混ざり、俺の足音も沈んでいく。

 スマホを取り出し、天気予報を確認する。今日の雨は夜中まで止まないらしい。濡れながら歩くのにも、もう慣れた。

 スーツの裾はすっかり水を吸って重たくなっている。コンビニで傘を買う気力もない。

「はあ……どこかで雨宿りするか」

 小さくつぶやいた声は、風にかき消された。家に帰っても、ひとり。どこにも行く気になれない。
 気づけば、いつもの路地を曲がり、サロン「Minuit」の前に立っていた。

 やっぱりここに来る運命なのか。自分でもよくわからない。別に紅茶を飲みたかったわけじゃないし、雨宿りをするなら、どこにでも入れたはずだ。なのに、どうしても、ここに足が向く。

 だけど、その理由は分かっていた。

 鈴が鳴らないように、そっとドアを開けて中を覗く。店の灯りが落ち着いた橙色に揺れていた。カウンターの向こうで、乃亜が何かを並べている。開店前なのか、店内には他の客の気配はなかった。

 話したいわけじゃないし、癒されたいわけでもない。ただ……。
「顔が見たかっただけ?」
 自分の心の声に驚く。そんなこと、思ってるつもりはなかった。でも、無意識は嘘をつかないらしい。

 冷たい雫が首筋を伝う。それが雨なのか、涙なのか、自分でもわからなかった。
 俺はドアを勢いよく開け、ドアベルの音を大きく鳴らす。

「あ……来たの?」

 乃亜が振り返る。濡れた俺を見て、少し眉をひそめた。

「……雨、すごくて」

「また濡れてるね。君、雨に好かれすぎじゃない?」

「好きで濡れてねぇよ」

 そう答えながら、俺は自分でも不思議だった。なんで素直に甘えられるんだろう、この人には……。二歳も年下なのに。
 乃亜は何も言わずに奥へ向かい、タオルと着替えのTシャツを持ってきてくれた。

「シャワー、浴びてきなよ」

「……いいの?」

「いいよ。二階のヨガ教室のシャワールーム、今誰も使ってないから、勝手に入っていいよ」

「それじゃ、お言葉に甘えて」

 俺はタオルとTシャツを受け取り二階の階段を上がる。

 シャワールームの前で立ち止まったとき、ふと脳裏に浮かんだのが、授業で習ったある心理学の効果だった。

「吊り橋効果」

 身体的な緊張状態を、恋愛感情と錯覚してしまうという現象。高い場所や、不安な状況にいるときに、隣にいた人に“恋をした”ような気持ちになること――。

 あれは、ただの錯覚。理屈では、わかってる。でも、俺の中にあるこの騒めきは、本当に“錯覚”なんだろうか。

 就活で落ちて、雨に打たれて心が弱ってる。そんなときに優しくされたら、誰にだってほだされるのかもしれない。

 だけど――。

「乃亜だから、なのか?」

 その問いに、自分でもうまく答えられなかった。ただ、彼の声を聞くと呼吸が浅くなり、彼の香りを感じると、頭の中のノイズが静かになる。
 彼の紅茶を飲むと、心の真ん中が温まり優しく包み込まれていく。

 それって、“錯覚”って言えるのか?たとえ始まりが錯覚だったとしても、その後の感情すべてが嘘だとは思えなかった。

 シャワールームの隅に置かれた、ホテルのようなガラス瓶に目が留まる。中にはラベンダーや柑橘のアロマオイルが入っているようだ。その瓶から漂う香りに包まれながら、お湯を浴びる。

 このシャワールーム、落ち着くな。それは空間のせいなのか、それとも――乃亜の存在そのものが、俺を落ち着かせているのか。

 思わず、濡れた髪をくしゃっとかき上げた。熱いシャワーが、頬を伝って落ちていく。その熱が、外の雨よりもずっと強くて、苦しかった。

 肩から背中へと伝い落ちていくお湯の温かさに包まれていると、さっきまでの緊張がふっと溶けていく。
 スーツの重さも、落ちた面接のことも、今だけは忘れていい気がした。

 シャワーを終えてタオルで身体をふき、腰にタオルを巻いて、鏡の中の自分をぼんやりと見つめる。

「……腹、ちょっと割れてきたかも」

 ぽつりとつぶやいた声に、誰もいない空間が静かに返す。筋トレにハマって一年、結構身体が仕上がってきたな、なんて思っていた時だった。

 その瞬間、油断したみたいに、腰のタオルがふわりと滑り落ちた。

「あっ、ちょ……!」

 慌ててタオルを拾い上げる。その時、わずかに開いていたドアの隙間から、視線を感じた。
 目が合った。一瞬だけ時が止まる。そこに、タオルの補充をしている乃亜が立っていた。

「……見たな」

「見てないよ?」

 乃亜の声が、少し上ずっている。

「じゃあ、なんで耳が赤いんだよ」

「……意外といい身体してるんだね」

「見んなバカ!」

 タオルを巻き直しながら怒鳴ると、乃亜は苦笑いを浮かべた。

「腹筋カッコいいよね。俺よりカッコイイよ、腹筋」

「出てけよバカ!」

「ほんとに、バカだと思ってるなら、そんなに堂々と出てこないでよ」

 何だそれ。意味がわからない。

 でも、乃亜の視線が、さっきよりもずっと近く感じられた。触れられてないのに、触られているみたいな熱を持った眼差しだった。

 着替えを済ませてサロンのカウンターに戻ると、乃亜が何事もなかったかのように紅茶を淹れ直している。
 でも、まだ耳が赤い……。

「……見てないって言ったよな」

「見てない」

 笑いをこらえている乃亜。

「嘘つけ」

 カウンターに腰を掛けると、乃亜がティーポットの準備をしていた。

「今日は何の紅茶?」

「詩人の紅茶。Thé des Poètes(テ・デ・ポエット)

「詩人の?」

「ジャスミンと果実が混ざってる。複雑で、ちょっとざわつく香り」

 乃亜が茶葉を取り分けながら説明した。

「言葉にならない夜には、こういう紅茶がちょうどいい」

 湯気が立ちのぼるカップの縁から、ジャスミンと熟れた果実が混ざった香りがふわりと広がる。一瞬で、別の場所に連れていかれるような感覚だった。

「この香り……なんか、凄い複雑」

 そう呟いた俺に、乃亜が笑みをこぼす。

「香りって、記憶を連れてくるから。言葉より先に、心に届くんだよ」

 カップの底でゆらゆら揺れる熱。詩人の紅茶——Thé des Poètes。言葉にならないものを、香りに変えて届けるための紅茶。

 それが、今の俺の気持ちとぴったり重なっていた。

「なぁ、吊り橋効果って知ってる?」

 俺は唐突に口を開いた。

「緊張感と恋の錯覚?」

「そう。不安な時とか、心臓がドキドキしてる時に一緒にいる人を、好きになっちゃうやつ」

「錯覚ってさ……あくまで“誤解”の話なんだよね?」

「うん?」

 乃亜が紅茶を注ぎながら、こちらをちらりと見た。

「吊り橋効果って、“その気持ちは恋じゃない”っていう証明のはずだけど」

「そう。錯覚だったとしても……そのあともずっと気になってるなら、それってもう、ただの恋じゃね?」

 自分で言って、自分で黙る。

「つまり……俺のこと、好きってこと?」

「そうは言ってねぇ!」

 反射的に言い返したけれど、心のどこかで違うって言い切れるのか?そんな問いが頭の中でこだましていた。

「でも……」

 乃亜がカップに紅茶を注ぎ終え、呟く。

「錯覚にしては、ずっと君のこと考えてるな、俺」

 心臓が跳ねた。

「……は?」

 紅茶を口に運ぶと、乃亜がじっと俺を見つめていた。

「ねぇ、なんでだと思う?」

 乃亜は肘をカウンタ―に置き、俺の顔を覗き込む。近づき過ぎて、その視線の熱を感じずにはいられない。逃れようとしても、目が合ってしまう。

 紅茶の香りの奥の燃える炎。肌に直接触れられているわけじゃないのに、喉の奥がじわりと熱くなる。

「……なんだよ、その目」

 乃亜は、何も答えずにクスリと笑った。
 優しいのに、どこか試すような視線。カウンター越しなのに、息ができない。

「なんでもない」

 乃亜はそう言って、他のお客さんの元へ向かった。
 静かな店内には、BGMのフレンチジャスと窓を叩く雨音だけが響いている。

 ふと、乃亜の向かった方を見ると、常連らしい若い女性が乃亜に話しかけているようだった。彼女は乃亜の手に触れて、何かを笑いながら話している。
 乃亜も自然に笑い返す。

 俺は、その光景をじっと見て、モヤモヤしてしまう。気づくと、胃がキリキリと痛み始めていた。

「……嫉妬でもしてる?」

 その声で我に返る。いつのまにか、カウンターに戻って来ていた乃亜。

「ち、違っ……」

 慌てて目を逸らす。

「じゃあ、なんでそんなに黙ってるの?不機嫌そうな顔して」

 カップの縁を指でなぞりながら、乃亜が言う。あの余裕の笑み。でも、どこか意地悪い。

「……なんでそんなに慣れてるんだよ。誰にでも、そうなるの?」

 そう言ってから、自分の声に棘があることに気づく。何を言ってるんだ、俺は。接客していただけかもしれないのに……。

 乃亜は微かに笑みを浮かべ、それ以上は何も言わなかった。

 ◇

 雨が小降りになった頃、俺は店を出ることにした。

「気をつけて帰って」

「うん」

 ドアに手をかけたとき、後ろから声が聞こえ、俺の手の上から大きな手が添えられた。

「……君にだけ、してることだよ」

 振り返ると、乃亜が俺の後ろに立っていて、俺の手を包むように上からぎゅっと握る。

「なにが?」

「さっき言ったこと?俺が触れるのは、君だけだよ」

 その声は、あまりにも静かで、それでいて、心の奥を確かにかき乱す温度を持っていた。

「……おやすみ」

 そう言うのがやっとだった……完全に変な気分になってしまっていたから。

 ◇

 家への帰り道、雨はすっかり止み、雲の隙間から三日月が顔を出す。久しぶりに月を見た気がする。

 でも、胸の内は相変わらず嵐のままだ。あの視線の熱と包まれた手の温もりが、まだ脳裏にしっかりと残っている。

 「君にだけ」という言葉が、何度も頭に響く。温かい大きな手の感触は未だ心を乱していた。
 俺は何を期待してるんだろう。何を求めてるんだろう……。

 乃亜の瞳の奥の炎に動揺して、他の人に触れられる姿を見て嫉妬して――これじゃまるで、本当に恋してるみたいじゃないか。

 目を閉じた瞬間、彼の声が、ふいに頭の中でリピートされた。

「錯覚にしては、ずっと君のこと考えてるな、俺」

 ――そんなふうに言うな。頭から離れなくなるだろ。
 でも、まだ確信が持てない。この気持ちが何なのか、名前をつけることができない。

 ただ一つ確かなのは、彼の熱を帯びた眼差しが、タオルより先に、俺の心を裸にしてきたということだった。

 詩人の紅茶の香りが、まだ鼻の奥に残っている。言葉にならない想いを、香りで包んでくれる紅茶。

 明日もまた、乃亜に会いたいと思ってしまった。そして、この曖昧な気持ちの正体を、もう少しだけ探ってみたいとも。

 時間をかけていい――そう思えた。だから、ゆっくりと向き合ってみよう。

 この熱が、この視線が、この胸の奥の騒めきが、いったい何なのかを。