午後から登校の日。時間があったから、通学路をゆっくり歩いてみることにした。
すると、街角の広告に、見慣れた顔が映っている。
俺は思わず足を止めた。
高級腕時計のポスター。白いシャツを着た乃亜が、こちらを見つめている。雑誌で見たときよりも大人びて見えて、手の届かない存在に感じられる。
「テレビの中の人みたいだ」
サロンや学生の彼は、まだ親しみやすいし身近に思えてきたのに、モデルとしての彼を見た途端、また遠い存在に感じられる。同じ人なのに、なぜ印象がこんなに違うんだろう。
俺は急いで歩き出す。
でも、次の角を曲がったところでも、乃亜の顔があった。今度は駅のポスター。笑っている乃亜。物思いにふける横顔が綺麗な乃亜。
避けようとしても、街中のどこかで彼を見かけてしまう。知れば知るほど、俺とは違う世界にいる気がする。今までしっかり見ていなかったけど、大学近辺には乃亜のポスターが至る所に貼ってあった。近い存在になると、こうも見つけやすくなるのか。
それらが目に入るたび、心臓が変な音を立て、これ以上彼と親しくして良いのかも分からなくなる。
◇
大学に着いても、気分は重いままだった。
この数日、乃亜からのメッセージに既読をつけられない。既読をつけたら、返事をしなくちゃいけないから。本当に、どう返せばいいのかわからない。
『今日、新しい紅茶がフランスから届いたよ。君に合うと思うから、またテイスティングして欲しい』
『最近忙しい?』
『また来てくれるの、待ってる』
メッセージの一つひとつが、優しいからこそ、余計に返しづらくなる。
ただの常連客として接してほしいわけじゃない。でも、それ以上になれるとは思えなくて。
考えても答えが出ないし、結局、サロンに行くのをやめてしまった。
そんな状態が続いて三日目。俺のスマホに乃亜から着信が入った。
慌てて電源を切ってしまう。でもすぐに、罪悪感がわいてくる。
なんで逃げてるんだろう、俺……。
◇
昼休み。中庭のベンチでサンドイッチを食べていると、見覚えのある声が聞こえた。
「凪」
振り返ると、乃亜が立っていた。トートバッグを肩にかけて、文庫本を手に持っている。昼間の彼は、やっぱり学生らしく見えた。
「……あ」
声が出ない。
「偶然だね」
乃亜が微笑んで、隣に座った。でも、いつもより少し距離が近い気がする。
「最近、サロンに来てないけど」
「……うん」
「忙しいの?」
「そう……じゃなくて」
俺は言いかけて、やめた。
乃亜が首を傾げる。
「俺、避けられてる?」
「え?」
「君、俺のメッセージ既読つけないでしょ。電話も出ないし」
乃亜の声は、いつもより少し低い。まっすぐ俺の目を注意深く見つめる。俺の心を透視するかのように。
「……ばれてた」
「当たり前だよ。で、なんで?」
「乃亜のこと知ったら、なんか違って見えた」
「知ったら?」
「モデルのこととか……街で見かけるポスターとか」
乃亜が黙って俺を見つめ続ける。
「テレビの中の人みたいで、俺とは違う世界にいる気がして」
「じゃあ、知らないままでいたほうがよかった?」
乃亜の声は、少し、傷ついているような響きがある。
「……わかんない。でも、混乱してるのは確か」
「混乱するほど、俺のこと考えてるってことじゃない?」
その言葉に、身体が強張る。
「そう……かも」
「だったら」
乃亜が文庫本を膝の上に置いた。そして、俺の手首をそっと掴む。
「え?」
「今日、来てくれる?サロンに」
乃亜の指が微かに動き、俺の脈を感じているような気がした。
「でも……」
「君に会えないと、俺も混乱するから」
乃亜が俺に向ける視線は熱を帯びている。そして、とてつもなくまっすぐだった。
「俺も?」
「うん、俺も。君がいないと、紅茶の味が……わからないんだ」
「えっ」
「美味しい紅茶のはずなのに、ね。だから来てよ」
乃亜は俺の手首を強く握り直す。
「あっ、うん」
乃亜に詰められて、サロンに行くことになってしまった。
手首に残る彼の体温が、妙に印象に残って消えない。
◇
その夜、俺は結局サロン「Minuit」の扉を開けていた。
いつものように、乃亜が一人でカウンターに立っている。俺の姿を見つけると、ほっとしたような表情を見せた。
「来てくれたんだ」
「……うん、来ちゃった」
俺は照れくさかった。昼間の脈事件を思い出してしまう。触れられた手首がまだ温かいような気がして。
「今日は、マルコポーロを淹れるよ」
「……これ、初めての時も、飲ませてくれたよね」
「うん。マルコポーロ。君に最初に淹れた紅茶だよ」
乃亜がカウンターの向こうで、静かに微笑む。今日の彼は、どこか言葉少なめに思えた。
「君が来るたび、この香りが深くなる。甘さが増して、苦みが消える」
「……適当言ってるだろ」
「そう見える?」
「……ちょっとだけ」
乃亜は肩をすくめた。そして、少し悪戯っぽく目を細める。
「ほんとに、俺のこと分かってるの?」
紅茶を見つめながら呟く。
「……乃亜のことは、まだ半分も分からない」
間が空いた。
「でも、香りで誰かを覚えることって、あるでしょ」
俺は黙った。確かに、この店の香りを嗅ぐと、乃亜のことを思い出す。
「あの時の君は、雨の匂いがしていたの思い出すよ」
いつもの乃亜の詩的な言葉だ。なんだかほっとする。
乃亜がティーポットに茶葉を入れ、お湯を注ぎながら言う。
「今は、どんな匂いだと思う?」
「今は……」
乃亜は俺をじっと見つめる。
「逃げだしそうな匂いがする」
「は?」
「でも、逃がさない」
その言葉の意味を考える前に、カップが俺の前に置かれた。
砂時計の砂が落ちた頃、カップに琥珀色の液体が注がれて、ふわりと甘く華やかな香りが鼻先をくすぐる。
あの雨の日を思い出す香り——俺の中では夜の香りだ。
湯気が立ち上がるのを見つめる。店内は静かで、乃亜と俺だけの空間だった。周りにはもうお客さんは誰もいない。
「君が来ると、本当に、この店の香りが変わるね」
乃亜がカウンターから出て、一歩一歩、俺の方に近づき、隣の席に座る。俺の方を向いたと思えば、脚が触れてしまいそうになるまで近づく。俺の心臓は大きな音を立て始める。
「距離、近くない?」
「近い方が、香りがよくわかるから」
乃亜は俺の耳元で囁く。そのせいで息が頬にかかりそうな距離になってしまった。紅茶の甘い香りと、乃亜の匂いが混ざって、頭がくらくらする。
「近すぎるから……」
間が空き、沈黙が数秒続いた後に、乃亜は俺の顔を覗き込む。
「やっぱりさ……俺のこと、好きなの?」
今度は、軽い調子じゃなかった。乃亜の声は、真剣だった。
俺は黙って目を逸らした。返事ができない。なんでこんなこと聞くんだよ……。
カップを持つ手がわずかに震える。香りが、少し強くなった気がした。
「マルコポーロって、香りの中に“知りたいのに、知りきれない”って空気がある気がするんだ。だから、君に似てるなって思った」
「またそういうこと言う……」
「君、眉間にシワ寄せてる。いつもそうやって、俺のこと考えてる?」
「……そんなことないよ」
「そんな真っ赤な顔して?」
乃亜が笑った。でもその笑顔には、いつもの余裕がない。少し、不安そうに見えた。
「答えなくてもいいよ。でも」
乃亜が俺の手にそっと触れる。
「逃げるのは、やめて……君に無視されるの、かなり辛い……君が思っているよりもね」
その瞬間、頭が真っ白になった。言葉が上手く出て来なくて、上手く答えられない。
「まあ、いいよ。そのままでいい。急がなくても」
俺は黙ったまま、乃亜から目を逸らす。最後の紅茶を飲み干し、店を出ようと立ち上がった時、乃亜が俺に声をかけた。
「明日も会えるといいな」
「明日?」
「大学で」
「……そうだな」
「今度は、君が俺を探してくれる?」
俺は振り返らず、頷き、店を後にする。頬が熱くて耐えられなかった。
駅に向かう道で、夜風が頬を冷やす。手に残る乃亜の体温と近すぎる距離が頭から離れない。
明日も会ったら、もっと混乱しそうだ。今は恥ずかしくて顔を合わせられない……。でも、同時にまた会いたいとも思っている自分がいる。
乃亜の「俺のこと、好きなの?」という言葉が、頭の中で何度も繰り返される。でも、答えを考えている自分がいることは確かだった。
どうしてこんなに彼が気になるんだろう。モデルだし、住む世界が違うのに、どうして手の届かない感じがしないんだろう。
詩を読むみたいに話すのに、どうして親しみを感じるんだろう。それに、男なのに……。こんなにドキドキしてしまうのか……。
答えは一つしかない気がする。でも、まだ口には出せない。
マルコポーロの香りが、まだ鼻の奥に残っている。甘くて、少し切ない香り。
恋のはじまりみたいな味、と乃亜は言った。もしかしたら、本当にそうなのかもしれない。
俺は、乃亜のことを、好きになりかけているのかもしれない。いや、もうとっくに、なってるのかもしれない。でも、それを認めるのは、まだ怖い。
彼は俺なんかよりずっと輝いている、だからこそ、隣に並ぶなんて今は考えられない。
でも、今日の彼は「急がなくても」と言いながらも、「逃げるのは、やめて」とも言っていた。その矛盾が、妙に乃亜らしいと思ってしまった。
だから、俺も急がない。でも、逃げるのもやめてみよう。ゆっくりと、自分の気持ちと向き合い、乃亜と過ごす時間の中で、答えを見つけていこう。
◇
その夜、ベッドに横になってから、俺は乃亜のことばかり考えていた。
「俺のこと、好きなの?」
あの言葉が、何度も頭の中でリフレインする。
恋愛対象として好きかどうか、なんて考えたこともなかった。ただ、憧れているのは事実だ。
でも、最近の俺は明らかにおかしい。乃亜のメッセージが来ると嬉しいのに、返信しない。サロンに行かないと決めているのに、頭では乃亜の顔をみたいという矛盾。街で彼のポスターを見つけると、嬉しいけど、世界が違うと複雑な気持ちになる。
触れられただけで、動悸がする。近くにいるだけで、顔が熱くなる。
これって、好きってことなのかな……。俺は恋愛とは縁遠い人生を送ってきた。なので、恋をしらないのかもしれない。 考えれば考えるほど、混乱してくる。
でも、一つだけ確かなことがある。乃亜と話している時間が、一番楽しい。彼の淹れる紅茶を飲んでいる時が、一番落ち着く。彼の笑顔を見ている時が、一番幸せな気分になる。
そして、彼に触れられると、心臓が変な音を立てる。
これが好きじゃないなら、いったい何なのか。枕に顔を埋めても、乃亜の声が、頭の中で何度もリピートされる。目を閉じれば、あの顔が浮かんでしまう。
答えなかったのは、自分の気持ちがわからないからじゃない。きっと、もうわかってる。でも、認めるのが怖いだけだ。
心の中で、一つだけ決めたことがある。明日は、俺から乃亜を探してみよう。彼が言ったように。避けていた時に乃亜を傷つけてしまった罪滅ぼしに。
それに、俺も本当は――会いたいんだ。
◇
翌朝、目が覚めると、なんだか気分が軽かった。昨夜あんなに悩んでいたのに、朝になると不思議と気持ちがすっきりしていた。
マルコポーロが効いたのかもしれない。つくづく不思議な紅茶だなと思う。心の治療薬のようだ。
シャワーを浴びながら、俺は昨夜の自分を笑った。乃亜が会いたいと言ってくれているのに、自分から離れることは考えなくてもいいのでは?もう少し自分に自信をもたなくてはと。
家を出ると、空気が新鮮に感じられた。太陽が眩しくて目を細める。もうすぐ夏だ。普段なら見過ごしてしまうような風景が、今朝はやけに鮮やかに見えた。
昼休み、約束通り乃亜を探してみると、いつも彼が俺を見つけてくれていたことに気づく。彼が俺に会いたいと思っていてくれていたこと、そのことが嬉しく思えた。いつも、タイミングよく遭遇出来ていたのは偶然じゃないよな……我ながら鈍感だ。
歩きながら、俺は微笑んでいた。ただ、また顔が見たい。ほんの少しずつでも、彼を知っていけたら、それでいい。そして、いつか、正直な気持ちを伝えられる日が来るのかもしれない。
急がなくてもいい。乃亜が言ったように、ゆっくりと進んでいけばいいのだ。彼との時間を、もっと大切にしよう。ベンチに座る乃亜の姿が見えた。勇気を出して話しかけるか。
すると、街角の広告に、見慣れた顔が映っている。
俺は思わず足を止めた。
高級腕時計のポスター。白いシャツを着た乃亜が、こちらを見つめている。雑誌で見たときよりも大人びて見えて、手の届かない存在に感じられる。
「テレビの中の人みたいだ」
サロンや学生の彼は、まだ親しみやすいし身近に思えてきたのに、モデルとしての彼を見た途端、また遠い存在に感じられる。同じ人なのに、なぜ印象がこんなに違うんだろう。
俺は急いで歩き出す。
でも、次の角を曲がったところでも、乃亜の顔があった。今度は駅のポスター。笑っている乃亜。物思いにふける横顔が綺麗な乃亜。
避けようとしても、街中のどこかで彼を見かけてしまう。知れば知るほど、俺とは違う世界にいる気がする。今までしっかり見ていなかったけど、大学近辺には乃亜のポスターが至る所に貼ってあった。近い存在になると、こうも見つけやすくなるのか。
それらが目に入るたび、心臓が変な音を立て、これ以上彼と親しくして良いのかも分からなくなる。
◇
大学に着いても、気分は重いままだった。
この数日、乃亜からのメッセージに既読をつけられない。既読をつけたら、返事をしなくちゃいけないから。本当に、どう返せばいいのかわからない。
『今日、新しい紅茶がフランスから届いたよ。君に合うと思うから、またテイスティングして欲しい』
『最近忙しい?』
『また来てくれるの、待ってる』
メッセージの一つひとつが、優しいからこそ、余計に返しづらくなる。
ただの常連客として接してほしいわけじゃない。でも、それ以上になれるとは思えなくて。
考えても答えが出ないし、結局、サロンに行くのをやめてしまった。
そんな状態が続いて三日目。俺のスマホに乃亜から着信が入った。
慌てて電源を切ってしまう。でもすぐに、罪悪感がわいてくる。
なんで逃げてるんだろう、俺……。
◇
昼休み。中庭のベンチでサンドイッチを食べていると、見覚えのある声が聞こえた。
「凪」
振り返ると、乃亜が立っていた。トートバッグを肩にかけて、文庫本を手に持っている。昼間の彼は、やっぱり学生らしく見えた。
「……あ」
声が出ない。
「偶然だね」
乃亜が微笑んで、隣に座った。でも、いつもより少し距離が近い気がする。
「最近、サロンに来てないけど」
「……うん」
「忙しいの?」
「そう……じゃなくて」
俺は言いかけて、やめた。
乃亜が首を傾げる。
「俺、避けられてる?」
「え?」
「君、俺のメッセージ既読つけないでしょ。電話も出ないし」
乃亜の声は、いつもより少し低い。まっすぐ俺の目を注意深く見つめる。俺の心を透視するかのように。
「……ばれてた」
「当たり前だよ。で、なんで?」
「乃亜のこと知ったら、なんか違って見えた」
「知ったら?」
「モデルのこととか……街で見かけるポスターとか」
乃亜が黙って俺を見つめ続ける。
「テレビの中の人みたいで、俺とは違う世界にいる気がして」
「じゃあ、知らないままでいたほうがよかった?」
乃亜の声は、少し、傷ついているような響きがある。
「……わかんない。でも、混乱してるのは確か」
「混乱するほど、俺のこと考えてるってことじゃない?」
その言葉に、身体が強張る。
「そう……かも」
「だったら」
乃亜が文庫本を膝の上に置いた。そして、俺の手首をそっと掴む。
「え?」
「今日、来てくれる?サロンに」
乃亜の指が微かに動き、俺の脈を感じているような気がした。
「でも……」
「君に会えないと、俺も混乱するから」
乃亜が俺に向ける視線は熱を帯びている。そして、とてつもなくまっすぐだった。
「俺も?」
「うん、俺も。君がいないと、紅茶の味が……わからないんだ」
「えっ」
「美味しい紅茶のはずなのに、ね。だから来てよ」
乃亜は俺の手首を強く握り直す。
「あっ、うん」
乃亜に詰められて、サロンに行くことになってしまった。
手首に残る彼の体温が、妙に印象に残って消えない。
◇
その夜、俺は結局サロン「Minuit」の扉を開けていた。
いつものように、乃亜が一人でカウンターに立っている。俺の姿を見つけると、ほっとしたような表情を見せた。
「来てくれたんだ」
「……うん、来ちゃった」
俺は照れくさかった。昼間の脈事件を思い出してしまう。触れられた手首がまだ温かいような気がして。
「今日は、マルコポーロを淹れるよ」
「……これ、初めての時も、飲ませてくれたよね」
「うん。マルコポーロ。君に最初に淹れた紅茶だよ」
乃亜がカウンターの向こうで、静かに微笑む。今日の彼は、どこか言葉少なめに思えた。
「君が来るたび、この香りが深くなる。甘さが増して、苦みが消える」
「……適当言ってるだろ」
「そう見える?」
「……ちょっとだけ」
乃亜は肩をすくめた。そして、少し悪戯っぽく目を細める。
「ほんとに、俺のこと分かってるの?」
紅茶を見つめながら呟く。
「……乃亜のことは、まだ半分も分からない」
間が空いた。
「でも、香りで誰かを覚えることって、あるでしょ」
俺は黙った。確かに、この店の香りを嗅ぐと、乃亜のことを思い出す。
「あの時の君は、雨の匂いがしていたの思い出すよ」
いつもの乃亜の詩的な言葉だ。なんだかほっとする。
乃亜がティーポットに茶葉を入れ、お湯を注ぎながら言う。
「今は、どんな匂いだと思う?」
「今は……」
乃亜は俺をじっと見つめる。
「逃げだしそうな匂いがする」
「は?」
「でも、逃がさない」
その言葉の意味を考える前に、カップが俺の前に置かれた。
砂時計の砂が落ちた頃、カップに琥珀色の液体が注がれて、ふわりと甘く華やかな香りが鼻先をくすぐる。
あの雨の日を思い出す香り——俺の中では夜の香りだ。
湯気が立ち上がるのを見つめる。店内は静かで、乃亜と俺だけの空間だった。周りにはもうお客さんは誰もいない。
「君が来ると、本当に、この店の香りが変わるね」
乃亜がカウンターから出て、一歩一歩、俺の方に近づき、隣の席に座る。俺の方を向いたと思えば、脚が触れてしまいそうになるまで近づく。俺の心臓は大きな音を立て始める。
「距離、近くない?」
「近い方が、香りがよくわかるから」
乃亜は俺の耳元で囁く。そのせいで息が頬にかかりそうな距離になってしまった。紅茶の甘い香りと、乃亜の匂いが混ざって、頭がくらくらする。
「近すぎるから……」
間が空き、沈黙が数秒続いた後に、乃亜は俺の顔を覗き込む。
「やっぱりさ……俺のこと、好きなの?」
今度は、軽い調子じゃなかった。乃亜の声は、真剣だった。
俺は黙って目を逸らした。返事ができない。なんでこんなこと聞くんだよ……。
カップを持つ手がわずかに震える。香りが、少し強くなった気がした。
「マルコポーロって、香りの中に“知りたいのに、知りきれない”って空気がある気がするんだ。だから、君に似てるなって思った」
「またそういうこと言う……」
「君、眉間にシワ寄せてる。いつもそうやって、俺のこと考えてる?」
「……そんなことないよ」
「そんな真っ赤な顔して?」
乃亜が笑った。でもその笑顔には、いつもの余裕がない。少し、不安そうに見えた。
「答えなくてもいいよ。でも」
乃亜が俺の手にそっと触れる。
「逃げるのは、やめて……君に無視されるの、かなり辛い……君が思っているよりもね」
その瞬間、頭が真っ白になった。言葉が上手く出て来なくて、上手く答えられない。
「まあ、いいよ。そのままでいい。急がなくても」
俺は黙ったまま、乃亜から目を逸らす。最後の紅茶を飲み干し、店を出ようと立ち上がった時、乃亜が俺に声をかけた。
「明日も会えるといいな」
「明日?」
「大学で」
「……そうだな」
「今度は、君が俺を探してくれる?」
俺は振り返らず、頷き、店を後にする。頬が熱くて耐えられなかった。
駅に向かう道で、夜風が頬を冷やす。手に残る乃亜の体温と近すぎる距離が頭から離れない。
明日も会ったら、もっと混乱しそうだ。今は恥ずかしくて顔を合わせられない……。でも、同時にまた会いたいとも思っている自分がいる。
乃亜の「俺のこと、好きなの?」という言葉が、頭の中で何度も繰り返される。でも、答えを考えている自分がいることは確かだった。
どうしてこんなに彼が気になるんだろう。モデルだし、住む世界が違うのに、どうして手の届かない感じがしないんだろう。
詩を読むみたいに話すのに、どうして親しみを感じるんだろう。それに、男なのに……。こんなにドキドキしてしまうのか……。
答えは一つしかない気がする。でも、まだ口には出せない。
マルコポーロの香りが、まだ鼻の奥に残っている。甘くて、少し切ない香り。
恋のはじまりみたいな味、と乃亜は言った。もしかしたら、本当にそうなのかもしれない。
俺は、乃亜のことを、好きになりかけているのかもしれない。いや、もうとっくに、なってるのかもしれない。でも、それを認めるのは、まだ怖い。
彼は俺なんかよりずっと輝いている、だからこそ、隣に並ぶなんて今は考えられない。
でも、今日の彼は「急がなくても」と言いながらも、「逃げるのは、やめて」とも言っていた。その矛盾が、妙に乃亜らしいと思ってしまった。
だから、俺も急がない。でも、逃げるのもやめてみよう。ゆっくりと、自分の気持ちと向き合い、乃亜と過ごす時間の中で、答えを見つけていこう。
◇
その夜、ベッドに横になってから、俺は乃亜のことばかり考えていた。
「俺のこと、好きなの?」
あの言葉が、何度も頭の中でリフレインする。
恋愛対象として好きかどうか、なんて考えたこともなかった。ただ、憧れているのは事実だ。
でも、最近の俺は明らかにおかしい。乃亜のメッセージが来ると嬉しいのに、返信しない。サロンに行かないと決めているのに、頭では乃亜の顔をみたいという矛盾。街で彼のポスターを見つけると、嬉しいけど、世界が違うと複雑な気持ちになる。
触れられただけで、動悸がする。近くにいるだけで、顔が熱くなる。
これって、好きってことなのかな……。俺は恋愛とは縁遠い人生を送ってきた。なので、恋をしらないのかもしれない。 考えれば考えるほど、混乱してくる。
でも、一つだけ確かなことがある。乃亜と話している時間が、一番楽しい。彼の淹れる紅茶を飲んでいる時が、一番落ち着く。彼の笑顔を見ている時が、一番幸せな気分になる。
そして、彼に触れられると、心臓が変な音を立てる。
これが好きじゃないなら、いったい何なのか。枕に顔を埋めても、乃亜の声が、頭の中で何度もリピートされる。目を閉じれば、あの顔が浮かんでしまう。
答えなかったのは、自分の気持ちがわからないからじゃない。きっと、もうわかってる。でも、認めるのが怖いだけだ。
心の中で、一つだけ決めたことがある。明日は、俺から乃亜を探してみよう。彼が言ったように。避けていた時に乃亜を傷つけてしまった罪滅ぼしに。
それに、俺も本当は――会いたいんだ。
◇
翌朝、目が覚めると、なんだか気分が軽かった。昨夜あんなに悩んでいたのに、朝になると不思議と気持ちがすっきりしていた。
マルコポーロが効いたのかもしれない。つくづく不思議な紅茶だなと思う。心の治療薬のようだ。
シャワーを浴びながら、俺は昨夜の自分を笑った。乃亜が会いたいと言ってくれているのに、自分から離れることは考えなくてもいいのでは?もう少し自分に自信をもたなくてはと。
家を出ると、空気が新鮮に感じられた。太陽が眩しくて目を細める。もうすぐ夏だ。普段なら見過ごしてしまうような風景が、今朝はやけに鮮やかに見えた。
昼休み、約束通り乃亜を探してみると、いつも彼が俺を見つけてくれていたことに気づく。彼が俺に会いたいと思っていてくれていたこと、そのことが嬉しく思えた。いつも、タイミングよく遭遇出来ていたのは偶然じゃないよな……我ながら鈍感だ。
歩きながら、俺は微笑んでいた。ただ、また顔が見たい。ほんの少しずつでも、彼を知っていけたら、それでいい。そして、いつか、正直な気持ちを伝えられる日が来るのかもしれない。
急がなくてもいい。乃亜が言ったように、ゆっくりと進んでいけばいいのだ。彼との時間を、もっと大切にしよう。ベンチに座る乃亜の姿が見えた。勇気を出して話しかけるか。



