意識がゆっくりと浮上する。薄いカーテン越しの光が頬を撫でて、俺は目を開く。
隣には乃亜がいる。
寝顔が近い。まつ毛が長くて、唇が少しピクピクと動いている。夢でも見ているのか、むにゃむにゃと何か話しているみたい。
体の奥に、じんわりとした熱が残っている。それは痛みというほどじゃなくて……ただ、誰かとひとつになった証みたいだった。昨夜のことが夢じゃなかったのか、少し身体がだるくて、その感触が現実だったと教えてくれる。
乃亜の目がゆっくりと開く。焦点が定まると、小さく微笑む。
「起きてた?身体、大丈夫?」
「うん……もう昼だな?」
「うん。凪の寝顔、初めて見たけど天使みたいだった」
そう言って、乃亜は俺の頬にそっとキスをする。くすぐったくて、でも温かい。
「俺で、よかった?」
言葉が勝手に出てしまう。昨夜を思い出すと、どうしても聞きたくなる。
「うん。凪じゃなきゃ、ダメだった」
乃亜の声は穏やかで、迷いがない。俺の不安を溶かすように、もう一度頬にキスをしてくれる。
「でも……俺、経験とか全然……」
「うん、だから良かった」
乃亜がすぐに答える。その迷いのない声に、俺は少し驚く。
「君が初めてだから、すべてが特別だったんだ。俺だけのものだって思えた」
頬が熱くなる。乃亜はいつも、俺の心配を軽やかに消してしまう。
「君、昨夜すごく可愛かった」
乃亜が急に言い出して、俺は慌てて顔を手で覆う。
「何、急に……」
「だって、本当のことだから。最初は緊張してたくせに、だんだん甘い声で俺の名前呼んでくれて……」
「やめろって!」
照れてる俺を見て、乃亜は凄く楽しそうだ。普段のクールな表情とは全然違う、くしゃっとした笑顔を見せてくれている。
「恥ずかしがる君も可愛い。でも昨夜の君はもっと可愛かった」
「乃亜……」
「はい?」
「調子に乗りすぎ」
でも、嫌じゃない。むしろ、こんなふうに笑ってくれる乃亜を見ていると、幸福感で満たされる。
乃亜がベッドから立ち上がり、カーテンを開けながら振り返りざまに言う。
「アフタヌーンティーしようか。今日は特別な日でしょ?ちゃんと準備してあるんだ」
テーブルの上には、すでに紅茶セットが並んでいる。乃亜は早朝に一度起きて準備してくれてたみたいだ。
昨日ベーカリーで買ったスコーンにサンドイッチ、苺のミルフィーユ。少し非日常な、お祝いの朝の食事。
乃亜が椅子を引いて、微笑む。
「さ、お姫様はこっちへ。──なんてね」
「ほんとに、王子様かよ……」
照れながら椅子に座ると、乃亜がそっと椅子を入れてくれる。まるで高級レストランみたいな扱いに、心臓がドキドキする。
「そういうの、慣れてないから」
「慣れてよ。恋人なんだから」
恋人。その言葉を聞くたびに、温かな気持ちになる。まだ実感が湧かないけれど、嬉しい響きだ。
上下に割ったスコーンに、バターとブルーベリージャムを乗せて、ひと口食べてみる。口の中に広がる濃厚な味に、思わず声が出る。
「このバター……めちゃうまい」
乃亜がフッと噴き出す。
「それ、バターじゃなくてクロテッドクリーム。スコーンにはたっぷり乗せていいんだよ」
「へぇ……もっと乗せていいの?贅沢だな」
「うん。初めての恋人との朝だから、贅沢しようと思って」
紅茶をひと口含む。香りが、華やかで味も濃い気がする。
「このお茶……なんだか爽やかだな」
「これは緑茶ベースで、レモンとヴァニラが香るTHÉ SUR LE NIL 。ナイルの紅茶。恋人になって最初の朝だから、これにした」
「……旅の始まり、みたいな感じ?」
「うん。ここから、君と一緒に“世界の果てまで旅する”ようなお茶をイメージしたんだ」
胸がいっぱいになる。乃亜はいつも、こんなふうに特別な意味を見つけるのが上手い。普通の朝食が、特別な記念日に変わってしまう。
「乃亜って、こういうこと考えるの好きだよね」
「こういうこと?」
「意味をつけるっていうか……普通のことを、特別にしちゃうところ」
乃亜が少し考えるような顔をする。
「君といると、本当に特別だと思えるから、自然とそうなるのかも」
そんなこと言われたら、どう反応していいかわからない。俺はただ、スコーンを口に運ぶ。
「あ、クリームついてる」
乃亜が俺の口元を指さす。
「どこ?」
「ここ」
乃亜の指が唇の端に触れる。その瞬間、鼓動が跳ねた。
「取れた?」
「うん……でも」
乃亜が身を乗り出して、そこに軽くキスをする。
「今度は俺がついちゃった」
「バカ」
でも、嬉しくて笑みがこぼれる。こんな他愛のないやりとりが、心を満たしてくれるなんて知らなかった。
食事が終わると、俺たちはソファに移り、乃亜が持ってきたアルバムを一緒に眺める。
「これ、パリで撮ったんだ」
ページをめくりながら、乃亜が説明してくれる。セーヌ川の写真、ノートルダム大聖堂、凱旋門、シャンゼリゼ通りのオープンカフェの連なる様子。
「いいなあ。俺、海外行ったことないんだ」
「今度一緒に行こうか」
「え?」
「卒業してからだと時間出来るかな。就職してからでもいいけど、休みがとれたら、二人で旅行とか」
卒業。その言葉で、現実がちょっと顔を覗かせる。
「そういえば、凪って卒論どうなの?」
「もう大体形になってる」
「二年後、俺も考えなきゃな。まだ全然……決めてない。なんか慌ただしくて」
アルバムを閉じて、俺は少しため息をつく。
「春になったら、いろいろ変わるんだろうな」
「変わるって?」
「就職とか、住む場所とか……もしかして、離れ離れになったりして」
乃亜が黙って俺を見つめている。
「それが心配?」
「うん……すごく」
乃亜が俺の手を取る。
「俺は君を手放すつもりはないよ」
「でも、乃亜はきっとモデルの仕事でいろんなところに行くし、世界が広がっていくじゃん。俺なんて……ただのサラリーマンだからさ」
「凪」
乃亜が俺の手をギュッと握り、しっかりと視線を合わせる。
「俺の世界が広がったのは、君がいるからだ。君がいなければ、意味がないんだよ」
そんなこと言われても、不安は簡単には消えない。でも、乃亜の手の温かさが、少しだけ安心させてくれる。
「ちゃんと好きでいてもらえるか、不安になったらどうしよう」
正直に言うと、乃亜が微笑む。
「その時は、何度でも好きだって言うから」
「ほんとに?」
「ほんとに。約束する」
乃亜が俺の額にキスを落とす。優しくて、約束の証のようなキス。
自然に、俺は乃亜にもたれかかる。彼の胸に頭を預けると、鼓動の音が聞こえた。
「君、甘えん坊だね」
「昨夜のせい」
「俺のせい?」
「乃亜が優しくしてくれたから、甘えたくなった」
乃亜の腕が、俺をそっと包み込む。
「好きなだけ甘えていいよ。俺も、君に甘えたいから」
夕方のティータイム。窓の外は黄昏時。
二人はソファに隣同士で座り、紅茶の香りが立ちのぼる静かな時間を過ごす。
「……ありがとう」
乃亜が先に口を開く。
「え?」
「昨夜、君が俺を受け入れてくれて、本当に嬉しかった」
しばらく沈黙が続く。俺も、同じ気持ちだった。
「……俺も、ありがとう」
膝の上で、手がそっと触れ合い、指と指が絡み合う。
そして、自然とキスを交わす。一夜を共にしたからか、もう遠慮はない。求め合うようにキスは深まっていく。
乃亜の舌先が、そっと俺の唇をなぞる。昨夜覚えた感触が蘇り、胸の奥がきゅんと締まる。
「君のくちびる、柔らかいよね」
乃亜が唇を離して、息を吐くように囁く。
「そんなこと言うなよ、なんか恥ずかしい……」
「でも本当だから……食べちゃいたいほど」
また、軽くキスをされ、ハムハムと唇を挟む。本当に食べられそうだ……。今度は、俺の方からも返してみる。次第にキスは深まり、舌先が軽く触れ合って、甘い感覚が広がっていく。
ふたりの唇が重なるたびに、ローテーブルの紅茶が静かに冷めていく。でも、乃亜との時間だけは、ずっと熱い。
「ねえ、凪」
「なに?」
「もっと近くに来て」
乃亜が俺を引き寄せる。気づけば、俺は膝の上に座らされていた。
「こんなに近くにいるのに、まだ足りない」
乃亜の手が俺の背中をそっと撫でる。
「昨夜から、君が愛おしくて仕方がない」
「俺も……」
小さく答えると、乃亜が嬉しそうに微笑む。
「君と一緒にいると、時間が止まったみたいに感じる」
膝の上で、俺はそっと彼の首に腕を回す。こんなに近くで見る乃亜の顔は、いつもより幼く見えた。ヘーゼルの瞳がサイドランプの灯りで、綺麗なグリーンに透ける。
「乃亜」
「ん?」
「好き」
素直に言葉にすると、乃亜の瞳が優しく細まる。
「俺も、好き。すごく」
夕食はデリバリーで軽く済ませて、カクテルタイムが始まった。
ミントたっぷりのモヒートを飲みながら、乃亜が選んだフランス映画を見始める。会話が少なくて、詩的な雰囲気の映画だ。
映画の途中で、俺はそっとグラスを置く。
「今日が終わらなければいいのに」
つぶやくと、乃亜が寄り添ってくる。
「夜って、終わるからこそ美しいんだよ。ほら、映画みたいに……」
画面を見つめながら続ける。
「──たとえば、“その夜、二人は出会い、朝には名前を知っていた”」
俺がそっと彼の手に触れると、乃亜は俺の耳元でささやく。
「キスしても、いい?」
俺は一瞬目を伏せ、頷く。
「さっきは勝手にしたのに……許可いらないだろ」
「ふふっ、それもそうか」
キスは甘くて、静かだった。乃亜の手が頬をなぞる。唇が触れ合うたびに、温かな息が混じり、甘い味がする。
映画の音が遠くなって、部屋の明かりがゆっくりとフェードアウトしていくみたいだった。
温度と香りと、重なり合う呼吸。“ふたりでひとつ”みたいに感じる。
そして、確かなことは──乃亜の鼓動が、俺の身体に記憶されて来たということだ。
「……もし今日も、帰したくないって言ったら、困る?」
乃亜の声は、いつもより少しかすれている。
「困らないけど、また言ったなその言葉」
「うん。また言う。だって願望は本音だから」
映画の途中なのに、俺はウトウトしはじめる。
乃亜が肩に俺の頭をそっと寄せてくれて、身体に記憶された心音と重なり、静かに響いていく。
気づいたときには、夜が深まっていた。俺はまだ乃亜の部屋にいて、彼のベッドで横になり、知らない間に寝ていたみたいだ。
きっと明日の朝もここにいるんだろうな……と思いながら再び目を閉じる。
◇
深夜になり目を覚ます。乃亜の腕の中で、静かな寝息を聞いてみる。
時計を見ると、午前一時。真夜中だった。
眠れないわけじゃないけど、この時間が惜しくて……乃亜の寝顔を見つめる。普段より穏やかで無防備な表情だ。
こんなふうに乃亜を独り占めできるなんて、まだ信じられない。
「起きてるの?」
乃亜が薄目を開き、小声で囁く。
「うん……眠れなくて」
「何か心配事?」
乃亜が俺を見つめる。暗闇の中でも、その視線は優しい。
「心配事っていうか……」
少し考えてから言う。
「なんだか、夢みたいで。明日起きたら、全部夢だったってことになりそうで」
乃亜が小さく笑う。
「じゃあ、夢じゃないって証拠を作ろうか」
「証拠?」
乃亜が起き上がって、机の引き出しから何かを取り出す。小さなノートとペンだ。
「何それ?」
「日記。毎日つけてるわけじゃないけど、特別な日は書くことにしてる」
乃亜がペンを走らせる。暗がりでも慣れた手つきで文字を紡いでいく。
「何て書いてるの?」
「秘密」
そう言って、乃亜は微笑む。
「でも、君が読みたくなったら、いつでも見せてあげる」
「じゃあ、今読みたい」
「ダメ。まだ書き終わってない」
乃亜がノートを抱える仕草が可愛くて、思わず笑ってしまう。
「君も、何か書いてみる?」
「俺が?何を?」
「今の気持ち。なんでもいいよ」
ペンを渡されて、俺は困る。文章を書くのは得意じゃない。それに、今の気持ちなんて、言葉にできるんだろうか。
でも、乃亜が待ってくれているから、とりあえずペンを握る。
『乃亜の隣で目が覚めた。幸せすぎて、夢みたいだった。でも夢じゃない。ちゃんと現実だ。』
短い文章を書いて、乃亜に見せる。
「うん、いいね。これで証拠ができた。君の字で、君の気持ちが残ってる」
そう言って、乃亜は嬉しそうに、俺が書いた紙を大切そうにノートに挟む。
「ねえ、乃亜」
「なに?」
「俺たち、ちゃんと続くよね?」
また同じことを聞いてしまう。でも、どうしても確認したくなる。
「続くよ」
乃亜が即答する。
「君が嫌になるまで、ずっと」
「俺が嫌になるわけないじゃん」
「じゃあ、ずっとだね」
乃亜が俺を抱き寄せた。胸に顔を埋めて、彼の心音を聞く。
「ねえ、凪」
「うん?」
「明日、君に見せたいものがある」
「何?」
「それも秘密。でも、きっと気に入ってもらえると思う」
乃亜の声に、何か特別な響きがある。楽しんでいそうな、少し緊張しているような。
「もったいぶるなあ」
「だって、サプライズは突然だから価値があるんだ」
そんな会話をしているうちに、また眠気がやってきた。乃亜の腕の中で、安心して目を閉じる。
「おやすみ、凪」
「おやすみ、乃亜」
今度こそ、朝まで眠れそうだと思った。
◇
しばらくしても昨夜のことを思い出してしまい、眠れなくなって乃亜にちょっかいをかけてみる。
ツンツンと乃亜の背中をつつく。
「……ねえ、もう寝たのか?」
小声で話しかけると、乃亜の声がすぐに返ってくる。
「ううん。君が静かだから、起こしたくなかっただけ」
布団の下で、足先を乃亜の足に触れさせた。足の内側をそっと撫で、絡める。
触れ合った肌の温度で、気持ちがじんわりと満たされていく。
すると、乃亜が振り返りゆっくりと身を寄せてくる。
額が触れ合う距離で、囁くように言う。
「……さわってもいい?」
頷く代わりに、俺はゆっくりと瞼を下ろす。
乃亜の手が俺の身体に優しく触れる。キスは、昨夜よりも深くて、でもずっと優しい。
唇の動きは、呼吸みたいに自然で、静かだった。
甘過ぎるキスに身体がほどけていく。ゆっくりと、確かめるように、お互いの温度を分かち合った。
上顎に舌が触れるたび、くすぐったくて声が漏れる。
ふたりの熱が、重なり合っていく。
昨夜と同じはずなのに──違う。
もう、“はじめて”じゃない。だけど、今夜のほうが切なくて、愛おしい。
好きになりすぎるのが……正直、怖い。
自分の輪郭が、彼の温度に溶けてしまいそうで。
「凪」
名前を呼ばれるだけで、身体の深部が疼く。
「君を離したくない」
「俺も……」
触れるたびに、もっと近くにいたくなる。
目を閉じていても、彼の温度を感じるだけで、“俺”が大切にされてる気がするんだ。
「君のことが好きすぎて、苦しい」
乃亜が俺の耳元で囁く。
「俺も、好きすぎて……どうしよう」
「どうしようもないね」
フッと乃亜が噴き出す。
そして、もう一段階キスは深まる――想いが、音もなく降り積もるように。
この瞬間が、永遠に続けばいいのにと願わずにはいられない。
そんなことを思いながら、俺は乃亜の温もりと溶け合っていった。
隣には乃亜がいる。
寝顔が近い。まつ毛が長くて、唇が少しピクピクと動いている。夢でも見ているのか、むにゃむにゃと何か話しているみたい。
体の奥に、じんわりとした熱が残っている。それは痛みというほどじゃなくて……ただ、誰かとひとつになった証みたいだった。昨夜のことが夢じゃなかったのか、少し身体がだるくて、その感触が現実だったと教えてくれる。
乃亜の目がゆっくりと開く。焦点が定まると、小さく微笑む。
「起きてた?身体、大丈夫?」
「うん……もう昼だな?」
「うん。凪の寝顔、初めて見たけど天使みたいだった」
そう言って、乃亜は俺の頬にそっとキスをする。くすぐったくて、でも温かい。
「俺で、よかった?」
言葉が勝手に出てしまう。昨夜を思い出すと、どうしても聞きたくなる。
「うん。凪じゃなきゃ、ダメだった」
乃亜の声は穏やかで、迷いがない。俺の不安を溶かすように、もう一度頬にキスをしてくれる。
「でも……俺、経験とか全然……」
「うん、だから良かった」
乃亜がすぐに答える。その迷いのない声に、俺は少し驚く。
「君が初めてだから、すべてが特別だったんだ。俺だけのものだって思えた」
頬が熱くなる。乃亜はいつも、俺の心配を軽やかに消してしまう。
「君、昨夜すごく可愛かった」
乃亜が急に言い出して、俺は慌てて顔を手で覆う。
「何、急に……」
「だって、本当のことだから。最初は緊張してたくせに、だんだん甘い声で俺の名前呼んでくれて……」
「やめろって!」
照れてる俺を見て、乃亜は凄く楽しそうだ。普段のクールな表情とは全然違う、くしゃっとした笑顔を見せてくれている。
「恥ずかしがる君も可愛い。でも昨夜の君はもっと可愛かった」
「乃亜……」
「はい?」
「調子に乗りすぎ」
でも、嫌じゃない。むしろ、こんなふうに笑ってくれる乃亜を見ていると、幸福感で満たされる。
乃亜がベッドから立ち上がり、カーテンを開けながら振り返りざまに言う。
「アフタヌーンティーしようか。今日は特別な日でしょ?ちゃんと準備してあるんだ」
テーブルの上には、すでに紅茶セットが並んでいる。乃亜は早朝に一度起きて準備してくれてたみたいだ。
昨日ベーカリーで買ったスコーンにサンドイッチ、苺のミルフィーユ。少し非日常な、お祝いの朝の食事。
乃亜が椅子を引いて、微笑む。
「さ、お姫様はこっちへ。──なんてね」
「ほんとに、王子様かよ……」
照れながら椅子に座ると、乃亜がそっと椅子を入れてくれる。まるで高級レストランみたいな扱いに、心臓がドキドキする。
「そういうの、慣れてないから」
「慣れてよ。恋人なんだから」
恋人。その言葉を聞くたびに、温かな気持ちになる。まだ実感が湧かないけれど、嬉しい響きだ。
上下に割ったスコーンに、バターとブルーベリージャムを乗せて、ひと口食べてみる。口の中に広がる濃厚な味に、思わず声が出る。
「このバター……めちゃうまい」
乃亜がフッと噴き出す。
「それ、バターじゃなくてクロテッドクリーム。スコーンにはたっぷり乗せていいんだよ」
「へぇ……もっと乗せていいの?贅沢だな」
「うん。初めての恋人との朝だから、贅沢しようと思って」
紅茶をひと口含む。香りが、華やかで味も濃い気がする。
「このお茶……なんだか爽やかだな」
「これは緑茶ベースで、レモンとヴァニラが香るTHÉ SUR LE NIL 。ナイルの紅茶。恋人になって最初の朝だから、これにした」
「……旅の始まり、みたいな感じ?」
「うん。ここから、君と一緒に“世界の果てまで旅する”ようなお茶をイメージしたんだ」
胸がいっぱいになる。乃亜はいつも、こんなふうに特別な意味を見つけるのが上手い。普通の朝食が、特別な記念日に変わってしまう。
「乃亜って、こういうこと考えるの好きだよね」
「こういうこと?」
「意味をつけるっていうか……普通のことを、特別にしちゃうところ」
乃亜が少し考えるような顔をする。
「君といると、本当に特別だと思えるから、自然とそうなるのかも」
そんなこと言われたら、どう反応していいかわからない。俺はただ、スコーンを口に運ぶ。
「あ、クリームついてる」
乃亜が俺の口元を指さす。
「どこ?」
「ここ」
乃亜の指が唇の端に触れる。その瞬間、鼓動が跳ねた。
「取れた?」
「うん……でも」
乃亜が身を乗り出して、そこに軽くキスをする。
「今度は俺がついちゃった」
「バカ」
でも、嬉しくて笑みがこぼれる。こんな他愛のないやりとりが、心を満たしてくれるなんて知らなかった。
食事が終わると、俺たちはソファに移り、乃亜が持ってきたアルバムを一緒に眺める。
「これ、パリで撮ったんだ」
ページをめくりながら、乃亜が説明してくれる。セーヌ川の写真、ノートルダム大聖堂、凱旋門、シャンゼリゼ通りのオープンカフェの連なる様子。
「いいなあ。俺、海外行ったことないんだ」
「今度一緒に行こうか」
「え?」
「卒業してからだと時間出来るかな。就職してからでもいいけど、休みがとれたら、二人で旅行とか」
卒業。その言葉で、現実がちょっと顔を覗かせる。
「そういえば、凪って卒論どうなの?」
「もう大体形になってる」
「二年後、俺も考えなきゃな。まだ全然……決めてない。なんか慌ただしくて」
アルバムを閉じて、俺は少しため息をつく。
「春になったら、いろいろ変わるんだろうな」
「変わるって?」
「就職とか、住む場所とか……もしかして、離れ離れになったりして」
乃亜が黙って俺を見つめている。
「それが心配?」
「うん……すごく」
乃亜が俺の手を取る。
「俺は君を手放すつもりはないよ」
「でも、乃亜はきっとモデルの仕事でいろんなところに行くし、世界が広がっていくじゃん。俺なんて……ただのサラリーマンだからさ」
「凪」
乃亜が俺の手をギュッと握り、しっかりと視線を合わせる。
「俺の世界が広がったのは、君がいるからだ。君がいなければ、意味がないんだよ」
そんなこと言われても、不安は簡単には消えない。でも、乃亜の手の温かさが、少しだけ安心させてくれる。
「ちゃんと好きでいてもらえるか、不安になったらどうしよう」
正直に言うと、乃亜が微笑む。
「その時は、何度でも好きだって言うから」
「ほんとに?」
「ほんとに。約束する」
乃亜が俺の額にキスを落とす。優しくて、約束の証のようなキス。
自然に、俺は乃亜にもたれかかる。彼の胸に頭を預けると、鼓動の音が聞こえた。
「君、甘えん坊だね」
「昨夜のせい」
「俺のせい?」
「乃亜が優しくしてくれたから、甘えたくなった」
乃亜の腕が、俺をそっと包み込む。
「好きなだけ甘えていいよ。俺も、君に甘えたいから」
夕方のティータイム。窓の外は黄昏時。
二人はソファに隣同士で座り、紅茶の香りが立ちのぼる静かな時間を過ごす。
「……ありがとう」
乃亜が先に口を開く。
「え?」
「昨夜、君が俺を受け入れてくれて、本当に嬉しかった」
しばらく沈黙が続く。俺も、同じ気持ちだった。
「……俺も、ありがとう」
膝の上で、手がそっと触れ合い、指と指が絡み合う。
そして、自然とキスを交わす。一夜を共にしたからか、もう遠慮はない。求め合うようにキスは深まっていく。
乃亜の舌先が、そっと俺の唇をなぞる。昨夜覚えた感触が蘇り、胸の奥がきゅんと締まる。
「君のくちびる、柔らかいよね」
乃亜が唇を離して、息を吐くように囁く。
「そんなこと言うなよ、なんか恥ずかしい……」
「でも本当だから……食べちゃいたいほど」
また、軽くキスをされ、ハムハムと唇を挟む。本当に食べられそうだ……。今度は、俺の方からも返してみる。次第にキスは深まり、舌先が軽く触れ合って、甘い感覚が広がっていく。
ふたりの唇が重なるたびに、ローテーブルの紅茶が静かに冷めていく。でも、乃亜との時間だけは、ずっと熱い。
「ねえ、凪」
「なに?」
「もっと近くに来て」
乃亜が俺を引き寄せる。気づけば、俺は膝の上に座らされていた。
「こんなに近くにいるのに、まだ足りない」
乃亜の手が俺の背中をそっと撫でる。
「昨夜から、君が愛おしくて仕方がない」
「俺も……」
小さく答えると、乃亜が嬉しそうに微笑む。
「君と一緒にいると、時間が止まったみたいに感じる」
膝の上で、俺はそっと彼の首に腕を回す。こんなに近くで見る乃亜の顔は、いつもより幼く見えた。ヘーゼルの瞳がサイドランプの灯りで、綺麗なグリーンに透ける。
「乃亜」
「ん?」
「好き」
素直に言葉にすると、乃亜の瞳が優しく細まる。
「俺も、好き。すごく」
夕食はデリバリーで軽く済ませて、カクテルタイムが始まった。
ミントたっぷりのモヒートを飲みながら、乃亜が選んだフランス映画を見始める。会話が少なくて、詩的な雰囲気の映画だ。
映画の途中で、俺はそっとグラスを置く。
「今日が終わらなければいいのに」
つぶやくと、乃亜が寄り添ってくる。
「夜って、終わるからこそ美しいんだよ。ほら、映画みたいに……」
画面を見つめながら続ける。
「──たとえば、“その夜、二人は出会い、朝には名前を知っていた”」
俺がそっと彼の手に触れると、乃亜は俺の耳元でささやく。
「キスしても、いい?」
俺は一瞬目を伏せ、頷く。
「さっきは勝手にしたのに……許可いらないだろ」
「ふふっ、それもそうか」
キスは甘くて、静かだった。乃亜の手が頬をなぞる。唇が触れ合うたびに、温かな息が混じり、甘い味がする。
映画の音が遠くなって、部屋の明かりがゆっくりとフェードアウトしていくみたいだった。
温度と香りと、重なり合う呼吸。“ふたりでひとつ”みたいに感じる。
そして、確かなことは──乃亜の鼓動が、俺の身体に記憶されて来たということだ。
「……もし今日も、帰したくないって言ったら、困る?」
乃亜の声は、いつもより少しかすれている。
「困らないけど、また言ったなその言葉」
「うん。また言う。だって願望は本音だから」
映画の途中なのに、俺はウトウトしはじめる。
乃亜が肩に俺の頭をそっと寄せてくれて、身体に記憶された心音と重なり、静かに響いていく。
気づいたときには、夜が深まっていた。俺はまだ乃亜の部屋にいて、彼のベッドで横になり、知らない間に寝ていたみたいだ。
きっと明日の朝もここにいるんだろうな……と思いながら再び目を閉じる。
◇
深夜になり目を覚ます。乃亜の腕の中で、静かな寝息を聞いてみる。
時計を見ると、午前一時。真夜中だった。
眠れないわけじゃないけど、この時間が惜しくて……乃亜の寝顔を見つめる。普段より穏やかで無防備な表情だ。
こんなふうに乃亜を独り占めできるなんて、まだ信じられない。
「起きてるの?」
乃亜が薄目を開き、小声で囁く。
「うん……眠れなくて」
「何か心配事?」
乃亜が俺を見つめる。暗闇の中でも、その視線は優しい。
「心配事っていうか……」
少し考えてから言う。
「なんだか、夢みたいで。明日起きたら、全部夢だったってことになりそうで」
乃亜が小さく笑う。
「じゃあ、夢じゃないって証拠を作ろうか」
「証拠?」
乃亜が起き上がって、机の引き出しから何かを取り出す。小さなノートとペンだ。
「何それ?」
「日記。毎日つけてるわけじゃないけど、特別な日は書くことにしてる」
乃亜がペンを走らせる。暗がりでも慣れた手つきで文字を紡いでいく。
「何て書いてるの?」
「秘密」
そう言って、乃亜は微笑む。
「でも、君が読みたくなったら、いつでも見せてあげる」
「じゃあ、今読みたい」
「ダメ。まだ書き終わってない」
乃亜がノートを抱える仕草が可愛くて、思わず笑ってしまう。
「君も、何か書いてみる?」
「俺が?何を?」
「今の気持ち。なんでもいいよ」
ペンを渡されて、俺は困る。文章を書くのは得意じゃない。それに、今の気持ちなんて、言葉にできるんだろうか。
でも、乃亜が待ってくれているから、とりあえずペンを握る。
『乃亜の隣で目が覚めた。幸せすぎて、夢みたいだった。でも夢じゃない。ちゃんと現実だ。』
短い文章を書いて、乃亜に見せる。
「うん、いいね。これで証拠ができた。君の字で、君の気持ちが残ってる」
そう言って、乃亜は嬉しそうに、俺が書いた紙を大切そうにノートに挟む。
「ねえ、乃亜」
「なに?」
「俺たち、ちゃんと続くよね?」
また同じことを聞いてしまう。でも、どうしても確認したくなる。
「続くよ」
乃亜が即答する。
「君が嫌になるまで、ずっと」
「俺が嫌になるわけないじゃん」
「じゃあ、ずっとだね」
乃亜が俺を抱き寄せた。胸に顔を埋めて、彼の心音を聞く。
「ねえ、凪」
「うん?」
「明日、君に見せたいものがある」
「何?」
「それも秘密。でも、きっと気に入ってもらえると思う」
乃亜の声に、何か特別な響きがある。楽しんでいそうな、少し緊張しているような。
「もったいぶるなあ」
「だって、サプライズは突然だから価値があるんだ」
そんな会話をしているうちに、また眠気がやってきた。乃亜の腕の中で、安心して目を閉じる。
「おやすみ、凪」
「おやすみ、乃亜」
今度こそ、朝まで眠れそうだと思った。
◇
しばらくしても昨夜のことを思い出してしまい、眠れなくなって乃亜にちょっかいをかけてみる。
ツンツンと乃亜の背中をつつく。
「……ねえ、もう寝たのか?」
小声で話しかけると、乃亜の声がすぐに返ってくる。
「ううん。君が静かだから、起こしたくなかっただけ」
布団の下で、足先を乃亜の足に触れさせた。足の内側をそっと撫で、絡める。
触れ合った肌の温度で、気持ちがじんわりと満たされていく。
すると、乃亜が振り返りゆっくりと身を寄せてくる。
額が触れ合う距離で、囁くように言う。
「……さわってもいい?」
頷く代わりに、俺はゆっくりと瞼を下ろす。
乃亜の手が俺の身体に優しく触れる。キスは、昨夜よりも深くて、でもずっと優しい。
唇の動きは、呼吸みたいに自然で、静かだった。
甘過ぎるキスに身体がほどけていく。ゆっくりと、確かめるように、お互いの温度を分かち合った。
上顎に舌が触れるたび、くすぐったくて声が漏れる。
ふたりの熱が、重なり合っていく。
昨夜と同じはずなのに──違う。
もう、“はじめて”じゃない。だけど、今夜のほうが切なくて、愛おしい。
好きになりすぎるのが……正直、怖い。
自分の輪郭が、彼の温度に溶けてしまいそうで。
「凪」
名前を呼ばれるだけで、身体の深部が疼く。
「君を離したくない」
「俺も……」
触れるたびに、もっと近くにいたくなる。
目を閉じていても、彼の温度を感じるだけで、“俺”が大切にされてる気がするんだ。
「君のことが好きすぎて、苦しい」
乃亜が俺の耳元で囁く。
「俺も、好きすぎて……どうしよう」
「どうしようもないね」
フッと乃亜が噴き出す。
そして、もう一段階キスは深まる――想いが、音もなく降り積もるように。
この瞬間が、永遠に続けばいいのにと願わずにはいられない。
そんなことを思いながら、俺は乃亜の温もりと溶け合っていった。



