大学での昼下がり。いつものベンチで乃亜の隣に座っていた。夏の暑い日差しを避けるように日陰で涼む。両想いになって三日が経つけれど、まだ夢みたいで現実感がない。昨日も終電近くまで一緒にいたし、今日もランチからずっと一緒だ。これが現実だなんて幸せすぎる。
「なんか、ぼーっとしてない?」
乃亜が心配そうに覗き込んでくる。
「してない」
「嘘。さっきから何度も同じページ読み返してるよ」
指摘されて慌てて教科書を閉じる。確かに集中できていない。というより、隣にいる乃亜の方が気になって仕方がなかった。
「乃亜ってやっぱりイケメンだよな。顔綺麗すぎる」
思わず口に出してしまい、自分でも驚く。
「慣れたら普通だよ。凪は、顔はかわいいけど、身体はかっこいいじゃん」
「身体って何だよ」
「骨格も筋肉のつき方も綺麗だし、手も綺麗だし……」
乃亜が俺の手を取って、指先を軽く撫でてくる。人目につかない日陰のベンチとはいえ、こんなことされたら血管が破裂しそうになる。
「やっ、やめろよ、恥ずかしい」
「実は、君の恥ずかしがってる顔が好きなんだ」
もう何も言い返せない。ずっとこんな日が続けばいいのにな、と思う。
でも、現実はそう甘くない。就職活動はまだ続いているし、内定をもらえる保証もない。乃亜との関係は確かなものになったけれど、俺の未来はまだ不透明だ。
「今日もサロンは深夜シフト?」
「うん。でも、君も来るでしょ?」
当然のように言われて、少し照れる。確かにこの数日で、サロンに通うのが日課になっていた。
「邪魔じゃない?」
「君がいると、仕事も楽しいよ」
そんなこと言われたら、行かないわけにはいかない。
「俺いつも終電で帰るけど、何時まで開けてるの?」
「だいたい終電の時間でお客さんいなければ閉めるし、たまーに終電逃した人がふらっとやって来る時があって、その時は少し延長して営業することもあるかな」
「へーそんな感じなのか」
俺は続けて言ってみる。
「今度、終電逃してサロンで過ごそうかな」
「いや、普通に俺の家泊まればいいじゃん」
「えっ、あっ、うん……」
家に誘われて俺は挙動不審になる。もうお泊り?早くない?と焦る。すると乃亜がニヤニヤして言う。
「あー変な事考えてるな?ふふ、別に取って食おうなんて思ってないけど」
冷や汗が出そうになりながら答える。
「うっ、うん、就職決まったら……遊びに行くよ」
「あー待ち遠しいな!楽しみにしてるよ」
輝く笑顔で言われて、鼓動は跳ねる。
近い将来起こるであろうビッグイベントに備えて、就職活動に励もうと密かに誓う。
◇
講義が終わるのが遅く、俺は一人で大学からの帰り道を歩いていた。もう夕陽が沈もうとしている頃、スマホが震える。メールの通知だった。件名を見た瞬間、息が止まった。
『選考結果のご連絡』
心理カウンセリング支援部署で働きたいと思っていた、本命の企業からだった。何度も落ちてきたから、今回もダメだろうな……。
スマホを開くのをためらう。一旦目を閉じて深呼吸し、気持ちを落ち着かせる。そして、手が震える中、恐る恐るメールを開く。
『厳正なる選考の結果、貴殿を内定候補者として迎えたいと存じます』
一瞬、文字が踊って見える。もう一度読み返す。間違いない。内定だ。
「えっ……受かった……」
言葉に出すと、涙が出そうになる。やっと、どこかに受け入れられた気がする。やっと、息ができる。誰かに必要とされるって、こういうことなんだ。
最初に思い浮かんだのは、乃亜の顔だった。真っ先に思い出すのが好きな人って……たぶん俺の一番大事な人なんだな、と改めて実感する。
急いでサロン「Minuit」に向かう。ポケットの中のスペアキーを握りしめながら、あの夜、乃亜が言った言葉を思い出す。
「いつでもここに来れるように。俺がいなくても、ここで待ってて」
嬉しい時も、辛い時も、俺にはもう帰る場所がある。乃亜がいる場所が。この鍵はその約束の証だ。
速足で歩きながら、この知らせを聞いた乃亜はどんな顔をするかな?と想像する。やっと辛い就活から解放される。乃亜と楽しい時間が過ごせることが嬉しくて仕方がない。
サロンのドアベルを鳴らし、ゆっくりとドアを開ける。
「お疲れさま」
いつものように乃亜が振り返って微笑む。杏奈さんは奥で在庫整理をしているようだった。
「疲れてる?紅茶、淹れるね」
「うん、ありがとう」
いつものようにカウンターに座って、乃亜が紅茶を淹れてくれるのを眺める。でも今は、胸の奥でずっと、俺の喜びで生まれた妖精たちが跳ね回ってダンスをしていた。
「今日はEARL GREY FRENCH BLUE にしようかな。ベルガモットの香りと青い矢車菊の香りが繊細で華やかなんだ」
「いいね。それにする」
相槌を打ちながら、どうやって報告しようか考える。素直に喜んでいいのか、まだ実感が湧かない。でもきっと乃亜に伝えたら喜んでくれるよな……自分のことみたいに。
紅茶を数口飲んで、カップを見つめたまま、ぽつりと呟く。
「……内定、出た」
乃亜の手が止まる。驚いた表情のあと、ゆっくりと満面の笑みに変わる。
「やったじゃん」
「……ありがとう」
「……なんか、それだけ?」
にやけるのを我慢しながら、うつむきながら紅茶を一口飲む。
「今なら、世界中に『俺のこと褒めて』って叫べるくらい浮かれてる」
乃亜が微笑みながら、カップを置く。
「じゃあ今日は、俺が君を褒め倒す日。……甘やかされる覚悟はできてる?」
「甘やかすって何だよ」
「君の好きなことを全部してあげる」
そう言いながら、乃亜が俺の手を取る。
「今日は帰さないからね」
一瞬ぎくりとする。でも、そのあと乃亜は小さく付け足す。
「……うそ。でも、願望は本音」
言い方がずるい。なのに、うれしいって思ってしまう俺は、もっとずるい。
「……じゃあ、約束通り……乃亜の部屋に泊まっていい?」
そう言うと、乃亜の目が少し驚いたように見開かれる。
「本当に?いいの?」
「就職決まったら乃亜の部屋で……朝まで一緒に過ごすって、俺が言ったんだし……」
乃亜が嬉しそうに笑う。
「無理してないよね?じゃあ今日は、特別な日にしよう」
コクリと頷く。その時、色々と覚悟を決めていた。
杏奈さんは「就職おめでとう。凪君。今日はもう閉めるから、ふたりで楽しんで」と、意味深な笑みを残して去っていく。
「お祝いに、スパークリングワイン買ってこよう」
「俺、お酒あんまり強くないよ」
「大丈夫。少しだけ」
近くのコンビニで替えの下着を買って、乃亜の家に向かう。手を繋いで歩く道のりが、いつもより特別に感じられる。
彼のマンションへは、サロンから徒歩10分ほどで到着した。公園の近くにある綺麗で素敵なマンション。
「いいマンションだね。緑も多くて」
「うん、まあ。親に用意してもらってて。サロン手伝ってるからそのご褒美みたいな」
「へー。20歳でこんな所に住めるなんて、乃亜ってボンボンなんだな」
「そうなのかな。自分ではよくわかんない」
そうこう話してるうちに、乃亜の部屋の前に到着した。乃亜が指紋で玄関キーを開け、部屋に入れてくれる。
「緊張してる?」
「してない」
「嘘。手に汗かいてる」
「……してる」
素直に認めると、乃亜が俺の手を握り直してくれる。
「俺も緊張してるよ」
「何で?」
「君を泊める初めての日だから」
言葉がなくても、指先で伝わる気がする。この人となら、きっと大丈夫。部屋の説明を一通り受けたら、キッチンダイニングに案内される。
乃亜は冷蔵庫から、茶色い液体が入ったガラスボトルを取り出す。
「水出しのダージリン・ファーストフラッシュを作っておいたんだ」
「え?」
「これ、特別な時にしか飲まない、ちょっと高いやつ。実は、凪がそろそろ来るんじゃないかな?って予想して仕込んでおいたんだ」
それを聞いてちょっと驚く。俺が来るような気がしていたんだ。もう就職決まりそうだと思ってくれたのかな。何だか嬉しい。グラスに注がれた、ダージリンを一口飲んでみる。
「こんなの飲んだことない……香り高くて、さっぱりしてるんだな」
「うん。特別なお茶だからね……凪が俺の部屋に来てくれた日に、これを出せて良かった」
俺は少し戸惑いながら答える。
「じゃあ……俺も、特別なお茶が似合う男になれたらいいな」
「もうなれてるよ。ずっと前から」
乃亜がそう言って、二杯目をグラスに注いでくれる。薄い琥珀色の紅茶は、香りも味も今まで飲んだことのないものだった。
「美味い」
「良かった。君に気に入ってもらえて」
一息ついて、食事の準備をする。乃亜がすぐに出来るものを色々作ってくれた。トマトとブラッタチーズ、バジルのカプレーゼ、ローストチキン、パスタもある。レストランみたいな食事でテンションは最高潮。
スパークリングワインも開けて、パーティーはスタート。二人で小さな乾杯をする。
「内定おめでとう」
「ありがとう」
グラスが触れ合う音が、静かな部屋に響く。アルコールのせいか、頬が少し熱くなってきた。美味しい料理と楽しい会話をして俺たちは満足する。すると乃亜が口を開く。
「もう寝ちゃいそうだから、そろそろ、シャワー浴びる?着替えも貸すから」
「うん」
俺は先にシャワーを借り、着替えをする。借りたTシャツは思いのほか、ぶかぶかだった。鏡で見ると、なんだか子供みたいで恥ずかしい。
「かわいい……ぶかぶかで。似合ってる」
リビングに戻ると、乃亜がそう言って見つめてくる。
「からかうなよ」
「からかってない。ガチで可愛い」
これ飲んで待ってて、とグラスに入った冷たいハーブティーを俺にくれる。乃亜もすぐにシャワーを浴び、戻ってくると、髪が少し湿っていた。いつもより幼く見える。
「髪、乾かしてあげる」
「自分でやるよ」
「甘やかす日って言ったでしょ」
乃亜は俺の後ろに回り込み、ドライヤーで髪を乾かし始める。ドライヤーの音と共に、乃亜の指が俺の髪を梳いていく。頭皮に触れる指先が心地よくて、目を閉じる。
「気持ちいい?」
「……うん」
「君の髪、柔らかいね」
こんなことされるの初めてで、どう反応していいか分からない。でも、嫌じゃない。
「じゃあ、次は俺が乾かす」
「えっ、俺はいいよ」
「ダメだ、貸して」
俺はドライヤーを奪い、乃亜の髪を乾かしてあげた。ふわふわした髪。初めて触ったし、気持ちよさそうにしてるのが、犬みたいでかわいい。
髪が乾くと、ふたりでベッドに並んで横になり、手だけを繋いで天井を見上げる。
「今日は本当に特別な日になったね」
「うん」
しばらくの沈黙のあと、乃亜が静かに名前を呼ぶ。
「……凪」
この声だけで、もう落ちていけそうだった。
「何?」
「君が選ばれたのは、当然だと思う」
「そうかな」
「そうだよ。君は優しくて、真面目で、人の気持ちを分かろうとする。カウンセリングの仕事に向いてると思う」
乃亜の言葉が、胸に染み渡っていく。
「ありがとう。そう言ってもらえると、自信が持てる」
「俺も、君の恋人でいられることが誇らしいよ」
「恋人……」
改めて口にすると、実感が湧いてくる。俺たちは恋人同士なんだ。
「今度は、俺が君を支える番だね」
「支えるって?」
「君が疲れた時は、紅茶を淹れてあげる。落ち込んだ時は、話を聞いてあげる。頑張った時は、思いっきり褒めてあげる」
「それって……」
「結婚したらする約束みたいなものかな」
さらりと言われて、顔が熱くなる。
「まだ早いだろ、そんな話。乃亜はまだ20歳なのに……」
「でも、将来のことは考えてる。君となら」
真剣な表情で言われて、返す言葉が見つからない。でも、嬉しかった。
「俺も……考える」
小さく答えると、乃亜が微笑む。
「今日は君を甘やかすって言ったけど、俺の方が甘やかされてる気がする」
「どうして?」
「君が隣で、寝てくれているだけで、幸せだから」
繋いだ手に、少し力が込められる。
「ずっと、そばにいていいのか?」
「当たり前だよ。君こそ、飽きない?」
「絶対に飽きない」
俺は即答する。はまっているのは俺の方だから。乃亜を見ると、ホッとした表情をしている。
外では虫の鳴き声が騒がしい。夏の夜は長くて、まだまだ時間がある。でも、このまま朝まで話していたい気持ちと、眠ってしまいたい気持ちが混在していた。
「おやすみ」
そう呟いて、俺は意識を手放そうとしていた。隣で「おやすみ」と小さく返す声が聞こえる。部屋は静かで、虫の鳴き声だけが響いている。
……眠れるわけがない。
隣に、乃亜がいる。それだけで鼓動が煩くて、ベッドの中なのに落ち着かない。乃亜の体温がこんなにも近くにあるのだから仕方がない。目を閉じていても、その気配で普通じゃいられなくなる。
「……乃亜」
小さく声をかけてみたけれど、返事がない。寝てしまったのか。一緒に夜を過ごすって、隣で眠ることだったのか……。なんだか拍子抜けしてしまう。
多分、なにかあると思って、さっきシャワーの時、準備も済ませて覚悟も決めていたのに……。
そっと横を向いて、彼の寝顔を見つめる。長い睫毛、通った鼻筋。本当に綺麗だと思いながら見惚れていた。
こんなにも無防備な表情、初めて見る。睫毛が微かに震えている。乃亜の全てが綺麗すぎて、見ているだけでため息が出る。
――触れたい。
そう思うと、自然と睫毛に触れ、頬をなぞる。この想いが本物だって、もう疑いようもない。見つめているうちに、引き寄せられるように、俺はそっと顔を近づけ、乃亜の頬にキスを落とした。ほんの軽く、空気に触れるくらい。
その瞬間、わずかに睫毛が揺れ、彼の瞼が微かに動き、瞳がゆっくりと開かれる。その眼差しが、胸の奥を射抜いた。
「……寝たふり、限界だった」
乃亜の目が、真っ直ぐに俺を見つめる。
「いまの……すごく嬉しかった」
「……次は、ちゃんと……唇にも……してみて?」
囁くような声だった。胸の奥がじんわり熱くなり、俺はうなずく。そして、静かに顔を寄せ、そっと唇を重ねる。触れた瞬間、世界が止まった。
柔らかくて、温かくて、これが乃亜の唇なんだと、やっと実感する。ほんの少し角度を変えるだけで、ぴたりと重なり馴染んでいく。微かな吐息が混じって、喉の奥がくすぐったくなる。
何度も、何度も、優しく確かめるように、キスを重ねる。唇がふれるたび、胸の奥がきゅんと収縮していく。
「……凪」
囁くように名を呼ばれた瞬間、乃亜の手が俺の背に回され、すっと引き寄せられる。
「もう我慢できないかも」
その言葉のすぐあと、今までよりも深く唇が重なっていく。感情が一気に流れ込んでくる。甘くて、切なくて、嬉しくて、苦しくて……。
唇と唇のあいだを、温かなものが優しくなぞっていく。境界線が曖昧になって、どこまでが自分で、どこからが彼なのかもう分からない。
身体の奥が、ゆるやかに熱くなっていく。気づけば俺は、乃亜の腕の中に、やわらかく包まれていた。
彼の鼓動が、まるで自分のもののように響く。息をするたび、胸の奥でひとつずつ、想いが重なっていくようだった。
すぐそばにあるこの温度が、きっと、恋の輪郭なのだと思う。
この夜が、ふたりの記念日になる。まだその先は、言葉にするには少し怖いけれど。それでも、確かに伝わっていた。
──朝になっても、好きでいてくれるかな。
ほんの少しの不安と、それ以上の願いを胸に、俺は、彼にそっと身を委ねた。
「なんか、ぼーっとしてない?」
乃亜が心配そうに覗き込んでくる。
「してない」
「嘘。さっきから何度も同じページ読み返してるよ」
指摘されて慌てて教科書を閉じる。確かに集中できていない。というより、隣にいる乃亜の方が気になって仕方がなかった。
「乃亜ってやっぱりイケメンだよな。顔綺麗すぎる」
思わず口に出してしまい、自分でも驚く。
「慣れたら普通だよ。凪は、顔はかわいいけど、身体はかっこいいじゃん」
「身体って何だよ」
「骨格も筋肉のつき方も綺麗だし、手も綺麗だし……」
乃亜が俺の手を取って、指先を軽く撫でてくる。人目につかない日陰のベンチとはいえ、こんなことされたら血管が破裂しそうになる。
「やっ、やめろよ、恥ずかしい」
「実は、君の恥ずかしがってる顔が好きなんだ」
もう何も言い返せない。ずっとこんな日が続けばいいのにな、と思う。
でも、現実はそう甘くない。就職活動はまだ続いているし、内定をもらえる保証もない。乃亜との関係は確かなものになったけれど、俺の未来はまだ不透明だ。
「今日もサロンは深夜シフト?」
「うん。でも、君も来るでしょ?」
当然のように言われて、少し照れる。確かにこの数日で、サロンに通うのが日課になっていた。
「邪魔じゃない?」
「君がいると、仕事も楽しいよ」
そんなこと言われたら、行かないわけにはいかない。
「俺いつも終電で帰るけど、何時まで開けてるの?」
「だいたい終電の時間でお客さんいなければ閉めるし、たまーに終電逃した人がふらっとやって来る時があって、その時は少し延長して営業することもあるかな」
「へーそんな感じなのか」
俺は続けて言ってみる。
「今度、終電逃してサロンで過ごそうかな」
「いや、普通に俺の家泊まればいいじゃん」
「えっ、あっ、うん……」
家に誘われて俺は挙動不審になる。もうお泊り?早くない?と焦る。すると乃亜がニヤニヤして言う。
「あー変な事考えてるな?ふふ、別に取って食おうなんて思ってないけど」
冷や汗が出そうになりながら答える。
「うっ、うん、就職決まったら……遊びに行くよ」
「あー待ち遠しいな!楽しみにしてるよ」
輝く笑顔で言われて、鼓動は跳ねる。
近い将来起こるであろうビッグイベントに備えて、就職活動に励もうと密かに誓う。
◇
講義が終わるのが遅く、俺は一人で大学からの帰り道を歩いていた。もう夕陽が沈もうとしている頃、スマホが震える。メールの通知だった。件名を見た瞬間、息が止まった。
『選考結果のご連絡』
心理カウンセリング支援部署で働きたいと思っていた、本命の企業からだった。何度も落ちてきたから、今回もダメだろうな……。
スマホを開くのをためらう。一旦目を閉じて深呼吸し、気持ちを落ち着かせる。そして、手が震える中、恐る恐るメールを開く。
『厳正なる選考の結果、貴殿を内定候補者として迎えたいと存じます』
一瞬、文字が踊って見える。もう一度読み返す。間違いない。内定だ。
「えっ……受かった……」
言葉に出すと、涙が出そうになる。やっと、どこかに受け入れられた気がする。やっと、息ができる。誰かに必要とされるって、こういうことなんだ。
最初に思い浮かんだのは、乃亜の顔だった。真っ先に思い出すのが好きな人って……たぶん俺の一番大事な人なんだな、と改めて実感する。
急いでサロン「Minuit」に向かう。ポケットの中のスペアキーを握りしめながら、あの夜、乃亜が言った言葉を思い出す。
「いつでもここに来れるように。俺がいなくても、ここで待ってて」
嬉しい時も、辛い時も、俺にはもう帰る場所がある。乃亜がいる場所が。この鍵はその約束の証だ。
速足で歩きながら、この知らせを聞いた乃亜はどんな顔をするかな?と想像する。やっと辛い就活から解放される。乃亜と楽しい時間が過ごせることが嬉しくて仕方がない。
サロンのドアベルを鳴らし、ゆっくりとドアを開ける。
「お疲れさま」
いつものように乃亜が振り返って微笑む。杏奈さんは奥で在庫整理をしているようだった。
「疲れてる?紅茶、淹れるね」
「うん、ありがとう」
いつものようにカウンターに座って、乃亜が紅茶を淹れてくれるのを眺める。でも今は、胸の奥でずっと、俺の喜びで生まれた妖精たちが跳ね回ってダンスをしていた。
「今日はEARL GREY FRENCH BLUE にしようかな。ベルガモットの香りと青い矢車菊の香りが繊細で華やかなんだ」
「いいね。それにする」
相槌を打ちながら、どうやって報告しようか考える。素直に喜んでいいのか、まだ実感が湧かない。でもきっと乃亜に伝えたら喜んでくれるよな……自分のことみたいに。
紅茶を数口飲んで、カップを見つめたまま、ぽつりと呟く。
「……内定、出た」
乃亜の手が止まる。驚いた表情のあと、ゆっくりと満面の笑みに変わる。
「やったじゃん」
「……ありがとう」
「……なんか、それだけ?」
にやけるのを我慢しながら、うつむきながら紅茶を一口飲む。
「今なら、世界中に『俺のこと褒めて』って叫べるくらい浮かれてる」
乃亜が微笑みながら、カップを置く。
「じゃあ今日は、俺が君を褒め倒す日。……甘やかされる覚悟はできてる?」
「甘やかすって何だよ」
「君の好きなことを全部してあげる」
そう言いながら、乃亜が俺の手を取る。
「今日は帰さないからね」
一瞬ぎくりとする。でも、そのあと乃亜は小さく付け足す。
「……うそ。でも、願望は本音」
言い方がずるい。なのに、うれしいって思ってしまう俺は、もっとずるい。
「……じゃあ、約束通り……乃亜の部屋に泊まっていい?」
そう言うと、乃亜の目が少し驚いたように見開かれる。
「本当に?いいの?」
「就職決まったら乃亜の部屋で……朝まで一緒に過ごすって、俺が言ったんだし……」
乃亜が嬉しそうに笑う。
「無理してないよね?じゃあ今日は、特別な日にしよう」
コクリと頷く。その時、色々と覚悟を決めていた。
杏奈さんは「就職おめでとう。凪君。今日はもう閉めるから、ふたりで楽しんで」と、意味深な笑みを残して去っていく。
「お祝いに、スパークリングワイン買ってこよう」
「俺、お酒あんまり強くないよ」
「大丈夫。少しだけ」
近くのコンビニで替えの下着を買って、乃亜の家に向かう。手を繋いで歩く道のりが、いつもより特別に感じられる。
彼のマンションへは、サロンから徒歩10分ほどで到着した。公園の近くにある綺麗で素敵なマンション。
「いいマンションだね。緑も多くて」
「うん、まあ。親に用意してもらってて。サロン手伝ってるからそのご褒美みたいな」
「へー。20歳でこんな所に住めるなんて、乃亜ってボンボンなんだな」
「そうなのかな。自分ではよくわかんない」
そうこう話してるうちに、乃亜の部屋の前に到着した。乃亜が指紋で玄関キーを開け、部屋に入れてくれる。
「緊張してる?」
「してない」
「嘘。手に汗かいてる」
「……してる」
素直に認めると、乃亜が俺の手を握り直してくれる。
「俺も緊張してるよ」
「何で?」
「君を泊める初めての日だから」
言葉がなくても、指先で伝わる気がする。この人となら、きっと大丈夫。部屋の説明を一通り受けたら、キッチンダイニングに案内される。
乃亜は冷蔵庫から、茶色い液体が入ったガラスボトルを取り出す。
「水出しのダージリン・ファーストフラッシュを作っておいたんだ」
「え?」
「これ、特別な時にしか飲まない、ちょっと高いやつ。実は、凪がそろそろ来るんじゃないかな?って予想して仕込んでおいたんだ」
それを聞いてちょっと驚く。俺が来るような気がしていたんだ。もう就職決まりそうだと思ってくれたのかな。何だか嬉しい。グラスに注がれた、ダージリンを一口飲んでみる。
「こんなの飲んだことない……香り高くて、さっぱりしてるんだな」
「うん。特別なお茶だからね……凪が俺の部屋に来てくれた日に、これを出せて良かった」
俺は少し戸惑いながら答える。
「じゃあ……俺も、特別なお茶が似合う男になれたらいいな」
「もうなれてるよ。ずっと前から」
乃亜がそう言って、二杯目をグラスに注いでくれる。薄い琥珀色の紅茶は、香りも味も今まで飲んだことのないものだった。
「美味い」
「良かった。君に気に入ってもらえて」
一息ついて、食事の準備をする。乃亜がすぐに出来るものを色々作ってくれた。トマトとブラッタチーズ、バジルのカプレーゼ、ローストチキン、パスタもある。レストランみたいな食事でテンションは最高潮。
スパークリングワインも開けて、パーティーはスタート。二人で小さな乾杯をする。
「内定おめでとう」
「ありがとう」
グラスが触れ合う音が、静かな部屋に響く。アルコールのせいか、頬が少し熱くなってきた。美味しい料理と楽しい会話をして俺たちは満足する。すると乃亜が口を開く。
「もう寝ちゃいそうだから、そろそろ、シャワー浴びる?着替えも貸すから」
「うん」
俺は先にシャワーを借り、着替えをする。借りたTシャツは思いのほか、ぶかぶかだった。鏡で見ると、なんだか子供みたいで恥ずかしい。
「かわいい……ぶかぶかで。似合ってる」
リビングに戻ると、乃亜がそう言って見つめてくる。
「からかうなよ」
「からかってない。ガチで可愛い」
これ飲んで待ってて、とグラスに入った冷たいハーブティーを俺にくれる。乃亜もすぐにシャワーを浴び、戻ってくると、髪が少し湿っていた。いつもより幼く見える。
「髪、乾かしてあげる」
「自分でやるよ」
「甘やかす日って言ったでしょ」
乃亜は俺の後ろに回り込み、ドライヤーで髪を乾かし始める。ドライヤーの音と共に、乃亜の指が俺の髪を梳いていく。頭皮に触れる指先が心地よくて、目を閉じる。
「気持ちいい?」
「……うん」
「君の髪、柔らかいね」
こんなことされるの初めてで、どう反応していいか分からない。でも、嫌じゃない。
「じゃあ、次は俺が乾かす」
「えっ、俺はいいよ」
「ダメだ、貸して」
俺はドライヤーを奪い、乃亜の髪を乾かしてあげた。ふわふわした髪。初めて触ったし、気持ちよさそうにしてるのが、犬みたいでかわいい。
髪が乾くと、ふたりでベッドに並んで横になり、手だけを繋いで天井を見上げる。
「今日は本当に特別な日になったね」
「うん」
しばらくの沈黙のあと、乃亜が静かに名前を呼ぶ。
「……凪」
この声だけで、もう落ちていけそうだった。
「何?」
「君が選ばれたのは、当然だと思う」
「そうかな」
「そうだよ。君は優しくて、真面目で、人の気持ちを分かろうとする。カウンセリングの仕事に向いてると思う」
乃亜の言葉が、胸に染み渡っていく。
「ありがとう。そう言ってもらえると、自信が持てる」
「俺も、君の恋人でいられることが誇らしいよ」
「恋人……」
改めて口にすると、実感が湧いてくる。俺たちは恋人同士なんだ。
「今度は、俺が君を支える番だね」
「支えるって?」
「君が疲れた時は、紅茶を淹れてあげる。落ち込んだ時は、話を聞いてあげる。頑張った時は、思いっきり褒めてあげる」
「それって……」
「結婚したらする約束みたいなものかな」
さらりと言われて、顔が熱くなる。
「まだ早いだろ、そんな話。乃亜はまだ20歳なのに……」
「でも、将来のことは考えてる。君となら」
真剣な表情で言われて、返す言葉が見つからない。でも、嬉しかった。
「俺も……考える」
小さく答えると、乃亜が微笑む。
「今日は君を甘やかすって言ったけど、俺の方が甘やかされてる気がする」
「どうして?」
「君が隣で、寝てくれているだけで、幸せだから」
繋いだ手に、少し力が込められる。
「ずっと、そばにいていいのか?」
「当たり前だよ。君こそ、飽きない?」
「絶対に飽きない」
俺は即答する。はまっているのは俺の方だから。乃亜を見ると、ホッとした表情をしている。
外では虫の鳴き声が騒がしい。夏の夜は長くて、まだまだ時間がある。でも、このまま朝まで話していたい気持ちと、眠ってしまいたい気持ちが混在していた。
「おやすみ」
そう呟いて、俺は意識を手放そうとしていた。隣で「おやすみ」と小さく返す声が聞こえる。部屋は静かで、虫の鳴き声だけが響いている。
……眠れるわけがない。
隣に、乃亜がいる。それだけで鼓動が煩くて、ベッドの中なのに落ち着かない。乃亜の体温がこんなにも近くにあるのだから仕方がない。目を閉じていても、その気配で普通じゃいられなくなる。
「……乃亜」
小さく声をかけてみたけれど、返事がない。寝てしまったのか。一緒に夜を過ごすって、隣で眠ることだったのか……。なんだか拍子抜けしてしまう。
多分、なにかあると思って、さっきシャワーの時、準備も済ませて覚悟も決めていたのに……。
そっと横を向いて、彼の寝顔を見つめる。長い睫毛、通った鼻筋。本当に綺麗だと思いながら見惚れていた。
こんなにも無防備な表情、初めて見る。睫毛が微かに震えている。乃亜の全てが綺麗すぎて、見ているだけでため息が出る。
――触れたい。
そう思うと、自然と睫毛に触れ、頬をなぞる。この想いが本物だって、もう疑いようもない。見つめているうちに、引き寄せられるように、俺はそっと顔を近づけ、乃亜の頬にキスを落とした。ほんの軽く、空気に触れるくらい。
その瞬間、わずかに睫毛が揺れ、彼の瞼が微かに動き、瞳がゆっくりと開かれる。その眼差しが、胸の奥を射抜いた。
「……寝たふり、限界だった」
乃亜の目が、真っ直ぐに俺を見つめる。
「いまの……すごく嬉しかった」
「……次は、ちゃんと……唇にも……してみて?」
囁くような声だった。胸の奥がじんわり熱くなり、俺はうなずく。そして、静かに顔を寄せ、そっと唇を重ねる。触れた瞬間、世界が止まった。
柔らかくて、温かくて、これが乃亜の唇なんだと、やっと実感する。ほんの少し角度を変えるだけで、ぴたりと重なり馴染んでいく。微かな吐息が混じって、喉の奥がくすぐったくなる。
何度も、何度も、優しく確かめるように、キスを重ねる。唇がふれるたび、胸の奥がきゅんと収縮していく。
「……凪」
囁くように名を呼ばれた瞬間、乃亜の手が俺の背に回され、すっと引き寄せられる。
「もう我慢できないかも」
その言葉のすぐあと、今までよりも深く唇が重なっていく。感情が一気に流れ込んでくる。甘くて、切なくて、嬉しくて、苦しくて……。
唇と唇のあいだを、温かなものが優しくなぞっていく。境界線が曖昧になって、どこまでが自分で、どこからが彼なのかもう分からない。
身体の奥が、ゆるやかに熱くなっていく。気づけば俺は、乃亜の腕の中に、やわらかく包まれていた。
彼の鼓動が、まるで自分のもののように響く。息をするたび、胸の奥でひとつずつ、想いが重なっていくようだった。
すぐそばにあるこの温度が、きっと、恋の輪郭なのだと思う。
この夜が、ふたりの記念日になる。まだその先は、言葉にするには少し怖いけれど。それでも、確かに伝わっていた。
──朝になっても、好きでいてくれるかな。
ほんの少しの不安と、それ以上の願いを胸に、俺は、彼にそっと身を委ねた。



